1.a picture:知らない女の写真

 明くる週の月曜日に、私はレイミさんに会いに三年の棟を訪ねた。知った顔はないかと探した所エッコさんが歩いていたので、

「エッコ先輩」

「お。ウミミンどしたん」

「レイミ先輩って何組ですか?」

「二組だよー。今日も精が出るねえ」

「あざます」

 二組の教室を覗くと、隅の席でレイミさんは窓の外を眺めていた。行って声をかけるなり驚いた様にこちらへ振り返り、

「鮎川さん」と云って安堵した様な顔をした。

「あれからどうですか」

「うん。この前話したのが続いてる感じ。矢っ張りちょっとずつこっちを向いてる気がする。……。何か、逆に慣れて来たかも」

 少しくまの浮いた目で力なく笑った。

「週末に私も行きました。病院」

「え。どうだった?」

「見ましたよ。目も、女の人も」

「それで? 今は?」

「窓の外にいますよね」

 私は窓の方へ目を向けた。外には校庭があり、奥の木立の陰に白いものが見える。

「あそこの木の下に」

「あ。今度はあんなとこに、……」

「週末、終わらせに行きましょう。出来ればレイミ先輩ひとりがいいですが、足がないので。あの日一緒に肝試しに行った方で、連れて行ってくれる人いませんか」

「あそこに行くんだ。また。……」

「はい。行かないと終わりません」

「……。解った。たっちゃんに聞いて見る」

 聞くにあの後ヨウ君とは別れたらしく、今はあの時待っていてくれたたっちゃんと交際していると云う。一刻も早く藤沢に報告したい衝動に駆られた。

 金曜日の夜になり、私は藤沢と家の最寄りのコンビニで迎えを待っている。たっちゃんの車に乗り合わせて向かう手筈となっていた。

「今週はマジ生きた心地せえへんかったわ。しっかり憑いて来よった」

「おつかれ様」と返しながら藤沢を拝んだ。

「ウミえらい大荷物やんか」

「除霊グッズ。バケツとペンキと刷毛はけ

「そっちの長い鞄は? 釣り竿?」

「内緒」

 そんな事よりも私の格好を気にして欲しいと思う。前回の反省を活かし、汚れが気にならず、かつ動きを損なわず、それでいてジャージでもない一張羅を用意したと云うのに藤沢は一向気がつく様子がない。その様な事を考えながら藤沢と言葉を交わす内にお迎えが来た。レイミさんが出て来て「後ろ乗って」と云うのでそろそろと車に乗り込んだ。たっちゃんは話に聞いていた通りの人柄で、とにかくよく喋るので車内は明るかった。しかし病院へ近づくに連れて段々と口数も減って行き、仕舞いには皆黙り込んでしまった。窓から見る景色は先日とは打って変わって黒々としており、海の見える林も今はヘッドライトの光に照らされて木々の長い影を伸ばすばかりだった。月のない夜だった。

 そうして門の前までやって来た。車は停まり、私共は車外へ出た。二回目ともなると勝手知ったると云った段取りで皆して門をよじ登った。レイミさんが明らかに気後れしていたから、ゆっくりと先へ進んだ。

「ウミはこわないの?」

 しょんぼりとした顔で藤沢が云った。

「こわいよ普通に」

「そうは見えへんけどなあ」

「感情が表に出ないタイプ」

 お陰様で助かる事も多いので、悪い事ではないと思っている。

 林道の様になった暗い道を行き、病院の前に到着するなりレイミさんが「ひっ」と云ってたっちゃんの胸に顔を埋めた。三階の窓に白いものが見えた様な気がした。

「お話した通り、元凶は女の人ではなく、目です。目を消せば終わります」

「ウミちゃん、ほんとなんだよね。もう一生こんなとこ来ねーぞって思ってたけど。……」

 レイミさんを抱き寄せながら、たっちゃんは縋るような目でこちらを見ている。

「大丈夫です。今夜終わります。行きましょう」

 私共は院内へ入って行った。午間ひるまとはまるで違う、如何にも心霊スポット然とした風情となっている。先日感じた廃墟なりの美しさと云ったものはすっかり鳴りを潜め、分厚い重さを持った闇が躰中に纏わりついて来る様だった。

 皆して恐る恐る進む中で、私は件の写真が落ちているのを見つけた。廊下を渡る際に覗いた病室の隅だった。先日訪れた折にはなかった様に思う。不気味だった。私よりほかには誰も気がついていないらしかったので、何も云わないで置いた。

 二階へ上がり、三階へ向かう。階段の途中にまた写真が落ちており、レイミさんは叫び出しそうなのを何とか抑えている様子だった。

「何で写真落ちとんねん」と藤沢が小声で話しかけて来た。

「解らない。……」

 仮説を立てる事は出来るが、そうすると一層不気味である為今は考えるのを止して置こうと思う。

 三階へ辿り着き、目の場所を目指している。

「目に着いたら、皆で上から塗り潰します。それでもうあの幽霊は出て来れなくなります。それで終わりです。もう少し、頑張りましょう」

 懐中電灯の光が目の描かれた壁の隅を一瞬照らした。皆余り見たくないと考えている様で、歩を進めはするが、廊下のあちこちや自分の足許を照らしてなるべく目を見ないで済む様にしている。もうそろそろだろうと云った所で、埒が明かないので私が目を照らす事にした。光に浮かんだ目は、これもお午間とは全く趣の異なる佇まいで、暗闇そのものに目があって、こちらを伺っている様に思われた。

 私はペンキとバケツと刷毛を取り出し、皆に渡した。ベージュのペンキに刷毛を浸し、作業に取りかかろうとした所ではげしい悲鳴が辺りに響いた。

「やだ。やだ。無理だ」

 見るとレイミさんが蹲って震えている。頭を抱えるその直ぐ先に真っ白い服を着た髪の長い女が立っていた。それを見るなり男性陣も叫び声を上げた。

「レイミ。あ、あ。どうすんの。ヤベーだろどうすんだよこれ。マジで」

 たっちゃんは助けに行く事も逃げ出す事も出来ず、呻きながらその場で狼狽えている。

「ウミ。おいヤバないかこれ」

 藤沢も取り乱した様子で私の腕を掴んだ。逃げ出す際に私を置き去りにしないようにしてくれているのだろう。しかし矢っ張りその手は震えている。顔を見るとあらぬ方を見詰めている。

「ウミ。これもしかして、写真の数だけあの女おるんとちゃうか」

「え?」

 藤沢の目線の先には病室の入口がある。そこからあの女が出て来た。後ろを振り返ると、私共がやって来た廊下の奥からも白い影がこちらへ向かってゆっくりと進んで来るのが見えた。

「暢気に壁塗っとる場合ちゃうやろ。逃げた方がええんちゃう」

 確かにこれから壁を塗りましょうと云った状況ではなかった。藤沢の云う通りとなれば白い女は十名以上の数となるだろう。

 私は持って来た長い鞄を開き、中身を取り出した。

「ウミ。ど、え? ……。何やねんそれ」

「刀」

 鞘を取ると、刀身が一帯の明かりを照り返してぬらぬらと光った。

「千子村正の作刀である」

 手始めにレイミさんの前に立つ女を袈裟懸けにした。忽ち女は形を失いかき消えた。

「レイミ先輩。目を開けて下さい。もう女はいませんよ」

 顔を上げたレイミさんにも、もう女は見えない様だった。あれ? と云いながら立ち上がり、たっちゃんに寄り添った。

「流石について行かれへんでウミさん。何で刀で幽霊斬っとんねん」

「逆に訊くけど、妖刀村正でその辺の幽霊斬れないと思うの?」

「う。妙な説得力」

 病室から出かかっている女の所へ行って、刀で突いた。矢張り先程と同じ様に雲散霧消した。

「私は女を片づけるので、ペンキ塗りの方はよろしくお願いします」

 目を丸くする一同を余所に、私は目につく女を手当り次第に斬って回った。剣術や剣道の心得なぞないが、当たりさえすればいいので見易いものだった。しかしこうも数が多いと腕が疲れる。また室内と云う事もあり、広いけれど壁や天井、窓や出入り口の枠にぶつけてしまわない様気をつけなければならない。

 辺りの女を皆斬ってしまい、私は目の所へ戻った。既に瞳の半分程が塗り潰されており、これは単なる絵に過ぎないと云う事が明かされた様に思われた。足許の刷毛を拾い、ペンキに浸して壁に向かった。

「壁全部は塗らなくていいので。目が消えれば」

 そうして目はすっかり消えて、壁には隅に変な模様が残るのみとなった。真ん中の辺りを触って見るともうペンキが少し乾いていたので、私はうさぎの絵と吹き出しを描き、吹き出しの中に「ざんねん! もうないよ うみみん♡」と書き入れた。

「その絵何なん」と藤沢が云うので、

「何となく。……」と応えた。

 皆で思い思いの落書きをして、私共は廃病院を後にした。

「鮎川さん。有難う。本当に。何か凄いすっきりした」

 帰りの車内でレイミさんが云った。平生へいぜいこの様な顔で笑うのかと思った。

「よかったです。また何かあったら云って下さい。やっつけに行くので」

「頼もしいー。鮎川さん格好よすぎ。あの、刀? って、本物?」

「本物です」

「ウミちゃんヤベーな」と云ってたっちゃんが大笑いしている。

「銃刀法違反やんけ」

「この事はほんと内密に。……」

 最寄りのコンビニに到着し、レイミさん達と別れた。ちょっと話そうやと藤沢が云うので、中でお茶を買って来て二人してベンチに腰かけた。店内の明かりで一張羅にペンキがついている事が判明し、私は少し落ち込んでいる。

「お疲れやでーほんま」

 くつろいだ様子で自分の肩を叩いている。

「これで万事解決やねんな」

「お疲れ様。現象はね。レイミ先輩とか私達には、もう何もないと思う」

「ほんならここらで解説してや。ウミこないだ幽霊なんかおらへん云うてたやん。ネタバレってのもよう解らんかったし」

 藤沢がこう云った事に興味を持つたちだとは考えていなかったので、嬉しかった。

「結論から云うと、幻覚」

「幻覚? 皆してお薬でもキメてたんかいな」

「順序があって。先ず廃病院があるでしょ。で、廃病院に纏わるこわい噂がある。あそこって私が知った頃にはもう廃病院で、そもそも何の病院だったのか、何で廃墟になったのか、誰も知らない。でも噂は皆が知ってる。壁に目があって、それを見たらよくない事が起こる。これがベースね」

「あの写真やら幽霊の話は?」

「そう。なかった。少なくとも私は、レイミ先輩の話を聞くまで知らなかった」

「益々解らんなって来た」

「でも行ったら実際に現象が起こった。色々分けて考えなくちゃいけなくて、元々実在するのは廃病院と、目の落書き。そこに付与された情報が目を見たらよくないと云う噂。これは多分かなり昔からあって、永い時間をかけてあの病院のイメージを作ったんだと思う」

 私はスマートフォンを取り出し、女の写真を写した画像を開いた。

「これが新しく加えられた実在。この人が誰か、何の写真なのかはどうでもよくて、設定通りにギミックが動くかどうかが重要だった。設定は多分こんな感じ。肝試しに来た人が、深夜の廃病院に入る。目的は目だけど、肝試しに来たからには院内を探索する。その中でこの写真を見つける。あの病院の雰囲気と、予想してなかった意味不明なものを発見した事で、普通の人は多少なり動揺する。不安だとか、恐怖だとか、そんな感情と一緒にこの女の人の姿を記憶する。そんな感じで気持ちがふわふわしたまま、あの目の所まで辿り着く。あの目の落書きは、偶然なのか描いた人に知識があったのかは解らないけど、人を催眠みたいな感じにする効果があるっぽい。シンちゃんも、あれ見た時変な感じしなかった?」

「変な圧はあったな。迫力? 見られてる感みたいな」

ひると夜とでも見え方が違ってたと思う。あの状況が全部合わさって、実在としての目の落書きと女の人の写真とを無意識に結びつけてしまうんだと思う。そうやって、目を見た時にセットで女の人が顕現される」

「うーん。解る様な解らん様な。要は催眠術で幻覚見せられてもうたって事? せやけど皆していっぺんに同じもん見てるやろ。んな事有り得るもんなん?」

「その理解でいいよ。複数人で同じものを見る事は、有り得る。その為の写真だったんだろうし、女の人だってステレオタイプな幽霊でしょ。長い黒髪で、白い服を着た女性。催眠ってかかりやすさに個人差があるけど、誰かが見てしまいさえすればいいのよ。幻覚は伝搬する。臨場感が上がって、実際にはそこにないものを見た気になる。あそこにいると云われたら、そこにいなければいけなくなるのよ。だからさっき、シンちゃんが写真の数だけいるみたいな事云った時はちょっとイラッとした」

「げ。えらいすんまへん」

「レイミ先輩は、かなりその辺りの感受性が強いんだと思う。シンちゃんもね。だから病院の体験が鮮烈過ぎて、その後も女の人のまぼろしを見てしまったんだと思う。記憶術みたいに、例えば窓とか、隙間とか、そう云うものを見た時にあの女の人の姿がフラッシュバックする」

「あれ、放っといたらどないなってたん?」

「その内勝手に見えなくなってた、と思う。確証がないから根本解決に動いた、って感じかな。レイミ先輩辛そうだったし」

「成程なあ。せやけど刀で斬ったのはビビったわ。物理過ぎやろ」

「幽霊にお経が効くって云われてるのは、お経が効くって信じられてるからよ。でもお坊さんのお経は効くけど、自分がお経唱えても効かないかも知れないって人は思う。自信がないから。見た目と権威って凄い大事で、妖刀村正だったら幽霊斬れると思わない? 私は斬れるって確信してる。だから斬れた」

「あれってマジで村正なん?」

「マジだよ。本家の蔵から拝借した。村正って有名だし、由来とかエピソードとかの事前情報があるから、刃を見ただけでちょとした催眠術かけられてる気分になるよ。皆には目を塗り潰すって云ったけど、幽霊を何とかするのも合わせてやらなきゃいけなかった。あそこで幽霊が出て来るのは織り込み済みだったから、解り易くやっつけるイメージが必要で、だから刀を持って行ったのよ」

「パフォーマンス兼ねてんねんな。ウミ、エンターテイナーやな。……。あれ?」

 藤沢は首を傾げた。

「午間行った時はどうなん? 別にこわがってもないのにいきなり幽霊出たやろ」

 話し疲れたので、私はお茶を飲んで一息ついた。

「レイミ先輩の話を追体験した。ついでにシンちゃんにも追体験して貰った」

「え?」

「それがその人にとっての真実なら、私はその人の見る現実に完全に同調出来る。そして私の見る現実を人に同調させる事が出来る」

「はい?」

「最初、レイミ先輩の話を一緒に聞いたからやり易かったよ。あれで全体像をシンちゃんと共有出来てたから。だから今回の件を解決する事自体は実は結構簡単で、幽霊を刀で斬った時、私だけが斬ったって認識出来ればそれでいいのよ。後はその認識を皆に押しつけるだけだから。でも理屈を言葉で説明しただけだと実感が湧かないから、ああやって目の前で見せる必要があるけど」

「んな事出来るんかいな。どうやんの?」

「私も気づいたら出来るようになってて。正直よく解ってない。そっち系の事、一応勉強して見てるんだけど。今の所は、この前のネタバレ通りよ。マジックなんかと同じで、あなたはだんだんねむくなーる、って云いながら、催眠術師も裏で色々やってるんだと思うよ。相手の現実に入って、無理矢理自分の土俵に変えなきゃいけないから、相手の現実の方が強くて自分が引っ張られちゃうとどうなるか解らない。そう云う意味じゃちょっと危ないかもだけど、今までそんなのなった事ないから、多分大丈夫」

「あんま危ない橋渡らんといてや。いまいち現実感あらへんけど、俺も見てもうたしなー」

「そう云うもんだと思ってたらいいよ」

 暫くの間、藤沢とこの日の感想や取り留めのない話を交わして別れた。家路に就く脚で私は考えている。先程藤沢に行った説明で本件の顛末は殆ど網羅出来るけれど、ひとつだけ解らない事がある。あの写真は一体何処の誰が病院に撒いているのだろうか。不気味だった。罠を仕掛ける様な真似をする者が実在している事が私には不気味だった。藤沢と下見に赴いた日から一週間の内に再び写真が配置されていた。明らかに目と写真との関連を承知している者がおり、その目的は見当もつかないが、悪意がある事については間違いないと思われる。彼は目の塗り潰された様を目の当たりにするだろう。私が描いた可愛いうさぎは彼に対する挑発だった。悪意が私だけに向いてくれた方が却って都合がいいからだった。

「ウフフ」

 思わず笑いが出た。傍から見る分にはこちらが変質者だと思い、咳払いをして居住まいを正した。

 私があの病院へ行く事はもうないだろうけれど、果たして彼がうみみんから私の許へ辿り着く事が出来るのか、似た様な事が出来る者同士だから、機会があれば一度会って話をして見たいと思う。