そうしてとうとう土曜日となった。
私は家を出て、最寄りのコンビニまでやって来た。藤沢との約束の十五分前だったが、人を待たせるよりも自分が待った方がずっと楽なので一向差し支えない。コーヒーでも飲んでいようかと云ったつもりで店内に入るとおにぎりを選ぶ藤沢の姿が目に入った。出鼻を挫かれた様な気持ちになったので、私は後ずさりに近い格好で再び店外へ出て、そのまま藤沢が出て来るまで外で待つ事にした。自分が情けなくなって来る。藤沢がいようがいまいが威張ってコンビニへ入ればいいものを、変わる変わると頭では思っていても、躰はこれまでの行動様式をしっかりと記憶しているらしく、平生そうする様な事を勝手に行ってしまう。
ひとりでくよくよと思い詰めている内に藤沢が出て来た。
「おー。ウミやん。早いやんか」
何かのストローを咥えながら喋る姿も様になっている。
「ほい」と云ってコーヒーを渡して来た。
「こないだのお返し」
「あ、……。ありがと」
何事かと思う。藤沢はオーバーサイズの襟付きシャツに細身のジーパン、黒のポンプフューリーと云った出で立ちだったが、当方ジャージである。マスクで隠れると思ったけれど、多少の化粧はしているのが不幸中の幸いだった。しかし廃墟を探索に行くのに適した服装と云うものがいまいち思い当たらず、むしろ不適当なのは藤沢の方ではないか。
「多分、汚れると思うけど、……」
「ん? ああ、ええで別に。カブトムシとか捕り行くカッコやし」
学び多き日となりそうだった。ビジネスカジュアルと云った類の装いが必要とされる事もある。帰ってから私もその様なものを考案しなければならない。
「ほな行こか」
ヘルメットを渡されたので、「あ。ありがと」と云いながらかぶった。スクーターの様なものを想像していたけれど、ネイキッドと云うのだろうか、あまり詳しい訳ではないが、バイクらしいバイクだと思った。
「ニーハンやから、鈍いかも知れへんけど。曲がる時俺と一緒に躰傾けてや」
「え。どゆこと? ……」
「走りがてら教えたるわー」
藤沢に促され、恐る恐るシートに跨った。腰んとこ持ちと云うので腰へ手を回した。エンジンがかかると俄に緊張して来た。カップルの二人乗りの様な微笑ましいものではない。バイクの後ろとはこんなにも心細いものなのかと思う。男子との触れ合いが云々と暢気な事を考えている余裕なぞなかった。しかしこの感覚が自分を変えるのに必要で、これまで経験した事のないものにこそ積極的にならなければならない。
バイクが動き出すと私は藤沢の腰の辺りを強く握った。全く恐怖心からだった。はじめはカーブの度に自分はもうここで死ぬと云う思いに駆られたが、慣れとはおそろしいもので、やがて一帯の景色を眺める程度には余裕が出て来出した。今バイクは林の間にある道路を走っており、向こうに海があるので林の木々の隙間から時折眩い光や明るい青が透かされる。残暑の濃厚な空には矢張り濃厚な入道雲が浮かんでおり、鳶が私共を見下ろす様にゆったりと旋回している。車で通った事は何遍かあったが、身の回りのものが直に感ぜられる分、同じ道でも随分と趣が異なる様に思われた。
「気持ちええやろー」
不意に藤沢が云った。エンジン音や風切り音が烈しいが、声はよく聞き取れる。
「うん」
私ははじめて藤沢の背中をまともに見た。風で膨らんだシャツが風船の様だった。
「前のガッコのさー。先輩にもろてん。バイク」
「転校する時に?」
「うんにゃ」
山へ続く道に入った。この先に件の廃病院がある筈だった。
「死んでもうてん。せやから形見分けみたいな感じやなー」
「そなんだ」
バイクは速度を徐々に落とし、やがて停まった。目の前には大きな鉄格子の門があった。元は緑か水色の様な色だったのだろうけれど、今はあちこちに錆が浮き、蔓草が絡まってひとかどの廃墟の入口然としている。鎖と南京錠で封鎖されている為、よじ登って行くより外に向こうへ渡る手段はないだろうと思われた。
「関係者以外立入禁止やって。俺らある意味関係者やからええやろ」
藤沢が気楽な調子で門を登って行くので、私もそれに倣って後に就いた。門を超えた先は森の小径と云った風情で、道が随分荒れているので歩き難いが、それだけだった。暫く歩くと廃病院が見えて来た。近くまで来るとレイミさんの話の通りだったので、先ずは二人して外観を眺めた。今の所、廃病院だなあと云うより外に感想が出て来ない。
「どう? シンちゃん」
「どう? ……。気色悪いとこやなあ」
「中入ろっか」
「ええでー」
未だお午にもならない時間だった。ガラスの散らかった床を歩いて待合までやって来た。矢張りレイミさんの云った通りで、あちこちに落書きがされており、院内の設備をごたごたに掻き回した様な有様となっている。お日様の光が割れた窓から差し込み、森閑とした中で辺りの風物は皆静まっている。滅びの気配の中に何か威厳の様なものが感じられた。
「写真探そうか」
私の当初からの予想が正しければ、今日もどこかに写真が落ちている。
「えー。こわ」
「写真見つかったら、目を見に行こう。多分、写真見てからじゃないと駄目なんだと思う。で、……。やっぱ、夜の方がよかったかも」
「こわいこわいこわい。マジで云うてんのそれ」
私共はゆっくりと院内を見て回った。写真は一階のボイラー室の様な所で見つかった。髪の長い女がこちらへ振り返る中途を写した写真で、目許は髪に隠されているが、口の辺りが少しだけ見える。笑っているらしかった。白黒なのか色がついているのかはいまいち解らない。「うわーめっちゃ鳥肌立った」と云う藤沢を余所に、私は写真にどこかおかしな点がないかをじっくりと確かめたが、確かに気味の悪い写真ではあるけれど、これと云っておかしな所はない様に思われた。
一階の女子トイレで写真を拾った。先程ボイラー室で見つけたのと全く同じものだった。
「え。何やねんこれ」
「同じだね。外にもあるかも」
そうして一階で三枚、二階で五枚の写真を見つけたが、いずれも全く同じ、女がこちらへ振り返りかける姿が写されたものだった。
「おにぎり食べよや」と藤沢が云うので、三階へ続く階段の踊り場で、そこいらの瓦礫に腰かけてツナマヨと明太子マヨを頂いた。もうお午かと思った。階段の明り取りから見える空は相変わらず青々としており、こんな天気のいい日に廃墟で何やってんだろと云った気になって来る。私はこれまでに入手した八枚の写真を床に並べ、スマートフォンのカメラで撮影した。
「おんなじ写真がなー。いよいよ気色悪いなあ。全部集めたらハワイ行けんちゃう」
階下で微かにからからと云った音がした。藤沢は努めて賑やかしていた様だけれども、その音を聞くなり見る見る神妙な顔となった。
「誰かおるんやろか」
「何だと思う?」
「ウミ何か解るん?」
「教えたらシンちゃん、こわがるから。……」
「え。ちょ、やめてえな。……。マジ?」
遠くでガラスの割れる様な音のした気がした。本当に私共の外に誰か来ているのかも知れない。
「今日は、目を見たら直ぐ帰った方がいいかもね」
「今直ぐ帰りたいねんけどなあ、……」
廃墟の古びた壁を背景として、車椅子の残骸に腰かけ腕置きに頬杖をつく藤沢は非常に画になる。外から差す光が足許を照らし、彼の整った顔を少しばかり影にしている。私はその姿を写真に撮った。何の気なしに撮った後で、俄に自分は今もの凄い事をいとも容易く行ったのではないか、これが本日の最大の収穫ではないかと身震いがする様な心地になった。
「え。心霊写真?」
「ううん。記念撮影。……」
「ウミ、謎すぎやわ。あー、マジこわなって来た」
階下を恐る恐る伺う藤沢の目に、何か映るだろうかと思う。何か映ってくれればいいのにと思う。
「ご馳走様。では、参りましょうかシンさん」
「御意。……」
階段を上り切った所にあの写真が落ちていた。くどいわと突っ込みを入れる藤沢を余所に、私は拾い上げて仕舞った。目の場所については目星がついているのでその方へ向かって歩き出した。
「シンちゃん受け入れるの早いから、先にちょっとネタバレしとくね。知っててどうにかなるもんでもないし」
「お?」
「人間って不思議で、ものを見たり、聞いたり、覚えたり、それって目とか耳だけでしてるんじゃないのよ。目が合うってさ、云うけど、何で相手が自分の目を見てるのが解るんだろうね。目だけじゃなくて、五感をまるっと全部使って相手を観測してるからだと私は思ってる。人と目が合う時、私はまるっと全部の感覚で判断して、目が合ってるって信じてるのよ。雰囲気とか、気配とか、五感のどれで感じてるとかじゃなくて、全部で取り纏めて判断してるんだと思う。シンちゃんがこれから見るもの、これまでに見て来たもの。それは目に見えるものだけが全てじゃなくて、そのものの裏には沢山の情報が蓄積されてるのよ」
「え? 何それムズいムズい」
この突き当りを右に曲がると恐らく正面に目が現れる。相変わらず身の回りは明るく、日差しを受けて光るガラスの破片や、少しばかり剥がれて垂れ下がる天井の塗装、倒れた病室の扉と云った風物を美しくさえ感じる。窓からは森を挟んで僅かに海が見える。この風はあの海を渡ってきたものだろうか、未だ夏の気配を孕んでおりぼやぼやとした感触だが、今はそれを心地よく思う。嘗てここで暮らしていた患者達も、病床から同じ景色を眺めていたのだろうか。
「ウミ。あれちゃうか」
廊下の先に目があった。私は目が合ったと思った。
「うん。行って見よう」
近づくに連れて、段々と目の仔細がはっきりとし出した。壁の真ん中に大きな目が描かれおり、色々のよく解らない模様が細かく目を囲んでいる。レイミさんの話の通り、曼荼羅が思い起こされた。随分昔から目の噂は聞き及んでいたが、つい最近描かれたばかりであるかの様に鮮やかに見えた。
「えらいな力作やなあ」
私はこの目も写真に収めた。待受にしたい。
「あそこから女の人が出て来る」
目の脇にある病室の入口に目を遣った。レイミさんから聞いた通り扉はなく、真っ黒い口を開けているばかりだった。
「カーテン閉まってんかな。暗ない?」
暗過ぎるから、窓が塞がれているのだろうと思う。
「シンちゃん、ジャンケンしよう。負けた方がひとりで見に行こう」
「え? マジで云うてんの?」
間髪入れずにじゃん、けん、と云いかけた所で、入り口の縁に白い手がかけられているのが見えた。
「あ」
「え?」
「手」
私が指差した方へ藤沢が顔を向ける頃にはもう顔の半分が出かかっていた。長い黒髪に真っ白い肌で、目許は髪に隠されて見えない。薄い唇は笑っている様に見えた。横でマジもんやんけと呟くのが聞こえた。
「逃げる」と云って私は踵を返した。しかし流石に男子である藤沢の方が足が速く、二階へ下る階段に差しかかった所で追いつかれてしまった。
「薄情者ー」
病院を出てもそのまま走り続け、門をよじ登ってバイクの停めてある辺りまで戻って来た所で漸く立ち止まった。慣れない事をしたと思う。息が上がり切っており、喋る事も覚束ない有様だった。
「ウミ、あれ。何なん。……」
藤沢も息を切らしながら云った。私は未だ喋る事が出来ない為、黙って懐から女の写真を出して見せた。
「ほ、ホンマやんか。……。幽霊とか、はじめて見た。真っ午間に。……」
ようよう息が整って来たので、
「下準備は終わり。付き合ってくれてほんと有難う」
「これ何とかなりそうなん? むっちゃ逃げてたけど」
「何とかするよ。あーこわかった」
「何やでも、喉許過ぎればやな。最後写真撮っとこうや」
藤沢はスマートフォンを取り出すと私の横に並び、自撮りの構えを取った。
「はい、チーズ」
笑顔で舌を出す藤沢と、青ざめた私と、錆びた鉄門と、森と、遠くの病院の影が写った写真が撮れた。後で送っとくわと云われたが、私は自分の顔が嫌いなのでその様なものはいらない。
帰りの途すがら、行きはそれ程でもなかった様に思うけれど、バイクの揺れが少しばかり気持ち悪かった。色々と疲れが出たのだろう。今日は色々な事があった。
「でさー、どうやって何とかすんの?」
風に靡く髪の下でピアスが光っている。矢っ張り休日はきちんと穴にピアスをつけているんだと思った。
「あの目を上から塗り潰したらいいんじゃないかなって」
「おー、成程」
「レイミ先輩がやらないと意味ないから、またアポ取って一緒に病院行く感じかな」
「大変やねんなー除霊も。気いつけて行きなや」
「え?」
「え?」
私は藤沢にそっと囁いた。
「憑いて来てなかったらいいね」
「は、ハメやがったな」
最寄りのコンビニまで送って貰い、私は藤沢と別れた。家に着く頃にはお日様が少し傾いていた。
「只今」と云いながら家に入り、母の部屋へ行った。坐布団に坐ったなりでお帰りと云った。
「疲れたー。イケメン疲れ。寝ます。おやすみ」
笑う母の傍で私は横になった。父は仕事で殆ど家におらず、兄弟もいないため母と二人して静かに暮らしている。目覚めたら朝かも知れないと思いながら、私は自分の意識が何処か深くへ沈んで行くのを感じた。