ちいさいひとつ

ちいさいひとつ

 コンクリートで造られた白いアパートがあった。建ったのは随分昔の事なので、今はあちこちひび割れがして、割れ目から草の生している所もある。遠くから見ると煤けた様に黒ずんでいるが、廊下の壁や天井はいつまで経っても真白だった。

 階段を幾つか上った高い所にある踊り場の隅っこに、腐りかけた材木が転がっていた。どこから来たのかは解らない。嵐の晩に風に飛ばされて来たのかも知れない。

 材木には、いつそうしたのか、かみきり虫が卵を植えつけていた。卵は何個もあったが、孵ったのはひとつきりだった。そうしてちいさい材木に、ちいさい芋虫が暮らし出した。芋虫は材木の中に潜り、少しずつ穴を掘り進めては遊んだ。冬の深い静かな夜には、星のぴかぴか光る音に混じって芋虫が木を食う音が聞こえる様に思われた。

 やがて芋虫は蛹になり、材木の中でじっとし出した。いつの間にか春が来ており、鳥や蝶々が材木の上に止まり何事か交わすのを、蛹は淡いまどろみの中で薄っすらと聴いていた。周りには撒き散らされた食いかすが、揺りかごの様に蛹を包んでいた。

 例年に比べると寒い夏だったが、虫にはその様な事なぞ解らない。目が覚めたので材木から出て見ると、真白なコンクリートで出来た風景が見えるばかりだった。

 自分のいた材木の上に腰かけて、ぼんやりとしている。虫の知っているものは、この材木だけだった。白い所は怖いので、その方へは行きたくない。遠くから蝉の鳴く声がする。懐かしく感じた。しかしどこにいるのかは解らない。

 夜になり、虫は腹を空かした。材木の切れ端を齧って見たが、不味くて食えたものではなかった。昼間真白だった景色は、今度は真黒になっている。どちらも同じ様なものだった。虫はひとりでぼんやりとしていた。いつまでもそうして、知らない景色を眺めていた。

 朝になるとお日様が昇り、夕に沈み、晩になった。

 何遍繰り返した頃かは解らない。何度目かの朝、虫は材木の上で死んでいた。死骸は直ぐになくなった。蟻に運ばれたのだろうと思う。材木は今でもそこにある。腐りかけたなりで、踊り場の薄暗い隅っこに転がっている。

 以上が、私の知る限り最もおそろしい場所の、そのちいさいひとつの話である。(了)