prayer

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 国道の高架の傍をひとりで歩いていると、空が急に高くなった。空気の混じりものが随分少なくなった様に思われた。

 遠くの方で、自分の後ろから被さった大きな桔梗色の雲がお日様の沈むのを隠している。何だか水っぽいから、あすこの辺りで夕立がしているのかも知れない。

 辺りは段々と暗く沈んで行くけれど、空には未だ明かりが残っている。雲と同じ様な色になった空に、星が出はじめている。普段よりも高い所に見えるから、やっぱり星明りは遠くにあるんだろうと思う。

 国道を外れ、細い畑道に入った。ずっと先には真黒な影になった山があり、どこかへ抜ける道だと思うが、どこへ続くのかは知らない。広い畑が麓まで広がっており、あちこちに古い家が散らばっている。

 自分の足許があやふやになりかけるが、少し先にバス停が見えるので、そこを見当にして歩いている。バス停まで近付くと、備え付けのベンチに誰か腰かけている。髪の長い女だった。一日中、こうしてベンチに腰かけている。

 私は女の隣へ黙って腰かけた。空には未だ明かりが残っている。真黒の山から地続きの畑もまた真黒になっており、家々の明かりが灯籠の様に、その辺りだけをぼんやりと浮かしている。

「寝る前に本を読んでいるでしょう」

 調子は高いが、耳に届く前に散らされる声だった。

「お布団に入って、横のスタンドランプだけ点けて読んでるのよ。そしたら、急に影が射すからランプの方を見るとね、なんにもないのよ。なんにもないのに、明かりがこっちまで届かないのよ。ランプは相変わらず光っているのに、光があるだけだわ。なんにも照らさない」

 女はゆっくりと続ける。

「そんな日の夜には、決まって大きな梟が私の寝ている上を飛び回るの。私はもう寝ているから、目をつむっているでしょう。だから見えないけれど、音がしないからきっと梟なのよ。朝起きてから、お母さんに云っても信じてくれない。いいのよ、信じてくれなくたって。あの人はなんにも信じない。お風呂のバスタブが、あれだって信じない。よくもあんなものに浸かっていられるものね。あれはね、バスタブなんかじゃないわ。バスタブもどきなのよ。バスタブにそっくりな形のなにやらが、バスタブの振りをして家にいるのよ。縁をよく見てご覧なさい。小さい目が付いてるわ。床を剥がしたらきっと手足だってある筈よ」

「どうして君の家に棲み着いてるんだい」

「私は家にいるのが怖いのよ。けれどそれは、家でそんな風なものを見るからだわ。外で見たって、なんにもこわい事なんかありはしないもの。瓶の中に鮫の赤ちゃんが入ってるでしょう。海の中で見たって、そんなの全然こわくなんかないわ。ひろ君だって」

 私は吃驚して、

「ひろ君はどこにいるの」

「ひろ君だって、ひろ君の家だとか、学校や公園にいればいいのに。衣装棚に隠れたりなんかして、未だかくれんぼの続きをしているのね。私が見付けなきゃ、いつまでだってあんな暗い所にいるつもりだったのか知ら。でも見付けたきりね。出て来ようとしないんだもの。あそこがお気に入りなのね。私心配だから、毎日見に行くのよ。ひろ君ったら、蹲って、ぶるぶる震えて、可哀想。生まれたての子鹿みたいに」

「今もひろ君はいるんだね」

「時計の針がくっ付いたまま離れないのよ。お父さんでも駄目みたい。一緒になって動くから、変な時間にお腹が空くのね」

「どうか、毎日見てやって欲しい」

 お日様が沈みきり、山と空の境目がなくなった。そうして辺りは本当に夜になった。女は暫く喋っていたが、やがてベンチから起ち上がると、不思議な程確かな足取りで道の先へ歩いて行った。

 女が去った後も、私は一人でベンチに腰かけている。膝の上に掌を組み、それをじっと見詰めている。微かな風が夜気に紛れて私の頬をなぞり、そうして涙の筋を乾かして行った。(了)