あの人

 お午間でも車の往来のあまりない、草臥れた国道を外れればもう田んぼばかりの景色となる。畦道を山の方へ抜けると麓にちいさいお屋敷が縮こまっている。父方の実家で、両親は共働きだったから私は幼い時分、平日の朝から晩までそこへ預けられていた。幼い私は山に埋もれかけたそのお屋敷が好きだった。どこが好きだと云った事はない。奥から来た山の影が差す裏庭の、ちいさい鶏小屋へ行って中のうるさい鶏を一日中でも眺めていた。

 父方の実家であったから父方の祖父母が暮らしていたが、お屋敷にはもうひとり住人がいた。りんちゃんと云う女の子で、私よりもひとつだけ歳上だと聞かされていた。そうするともう小学校へ上がっている筈だったから、今から思うと平日のお午間に家にいるのはおかしいねと思うけれど、当時の私がその様な考えを持つ訳もなく、いつも二人してそこいらをうろうろしていた。りんちゃんがどこの子供なのか、このお屋敷や祖父母とどう云った関連があるのかは解らなかった。当の祖父母は何も云わなかったし、私も単に自分の遊び相手がいると云う事が嬉しかった。

 その内に私が小学校へ上がっても、父方の実家へ行くとりんちゃんは変わらずそこにいた。私も特にこれと云った物思いをする事はなかった。物事を深く考えない人間であったし、それは現在に至るも変わらない自分の個性であると思う。りんちゃんは私を見つけると照れくさそうにして笑ったものだった。私も学校へ行き出してからはそう足繁くお屋敷へ通った訳ではないから、段々とりんちゃんに会うのが恥ずかしくなって行った様に記憶している。それでも行けば直ぐに打ち解けて、また以前の様に二人して庭の鯉に餌をやったり、鶏をからかいに行ったりした。りんちゃんは癖のない真黒の髪の毛をしていた。肩より下まで伸びたら、お婆ちゃんに直ぐ切られちゃうのよと云って、自分の髪の毛を細い指で触った。

 中学校へ上がる頃には、誰から聞かされたと云った事はなかったが、りんちゃんの素性が薄っすらと解り出した。私は努めてお屋敷へ通うようにした。そうしなければ日々の明け暮れに自分の気掛かりが紛れてしまうのではないかと思われたからだった。お屋敷へ行くと、いつも縁側に腰掛けてりんちゃんと話をした。もう何年も前から変わらない、同じ話ばかりを何遍も何遍もした。りんちゃんは歳相応に成長していたが、その心は私が未だ毎日このお屋敷に預けられていた頃から何ひとつ変わってはいなかった。何かの病気をしているらしく、時折咳き込むと真黒の髪が一緒になって揺れた。私はその姿を美しく思った。髪は今も祖母が切っているとの事だった。

 そうして私は高校へ上がった。暫く経って、お屋敷からりんちゃんはいなくなった。りんちゃんは私の父親の妹の娘であり、りんちゃんの父親はどこの誰だか解らないそうだった。母親が女手ひとつで育てていた時期もあった様だが、そうする内に再婚し、相手方との間にも子供をもうけ、また病の事もあり、母親はこのお屋敷にりんちゃんを預けに来ると、それきりになってしまったと云う。祖父母は、りんは今病院にいると云った。もうこの家には帰らないと云って泣いた。

 木枯らしの窓に吹きつける音を耳に聞かせながら、私はりんちゃんの枕許にいた。目を閉じている。鼻から管が伸びている。口を微かに開いてちいさい息をしている。外には何もない。病に由来するものなのかは定かではないが、少しばかり知恵の遅れもあったらしい。ひとりでいる時は、床の間に掛かった水墨山水の掛け軸を一日中眺めていたと云う。私はりんちゃんと声に出して呼んだ。返事はなかった。私は嘗てりんちゃんとした話を何遍も繰り返した。聞こえていようがいまいが一向構わなかった。同じ話ばかりを、何遍も何遍も繰り返した。

 りんちゃんは目を覚まさないまま、それから幾日も経たない内に死んだ。縁類の間で荼毘に付されたが、その列に母親の姿はなかった。

 大方の仕事が片付いたので、暇を取って私は田舎に帰って来た。旧い友人と酒を飲み、別れた後、ぼやぼやとした夜風を頬に吹かせながら畦道を歩いている。道の先にはもう誰も住まないお屋敷が静まっており、辺りに外灯もないので奥の黒々とした山の影と一緒になっている。

 近道のつもりで背の低い垣根を跨いで庭から表へ回ると、玄関の前に人影が蹲っている。泥棒か知らと考えながら酔った頭で近づいて見た。

「何かご用ですか」

 人影は吃驚した様子で起ち上がると、

「ねえ。いるんでしょ。出してよ」と上擦った声で喋った。

「誰もいませんよ」

「もう沢山なのよ。好い加減にしなさいよ。何だってアタシばっかりがこんな。こんな目にさあ。解ってんのか、お前」

 両手で胸倉を掴まれ、前後に激しく揺さぶられた。

「お前。お前。なあ。解ってんだろ。アタシまで引摺りやがって。あああ。どうにかしなきゃあ。どうしよう」

 この女がどこの誰だか解らないが、あそこのあいつだったとして、今更何の用事があるのかはやっぱり解らない。

「やられる前にやるのよ。誰だよ、お前はさあ。何なんだよ。アレの男? アハハ。馬鹿みたい。気色悪い。碌な事になりやしない。そうよ。どうにかしなきゃ。どうにかしなきゃあ。何だってアタシが、あんな奴の為に。殺してやる。さっさと死にあ良かったのにさあ。そう思うだろう。アンタ。誰かに似てると思ったんだ。ねえ。そうでしょう。殺してやる。アンタも手伝いなさいよ。あいつ、ぶっ殺してやる。でなきゃアタシが、殺されるんだもの。何もかも先生の仰る通りだわ」

 目の前で喚くのがうるさかったし、何より口がくさかったから、私は女を蹴って転がした。そうして顔を踏んずけてやろうか知らと思ったが、やっぱりお行儀が悪いので止して置く事にした。その代わりに真上から顔を見下ろした。見た事のない中年の女だった。

「今、俺が殺してやろうか」

 女は見る見る怯えた様な顔になってこちらを見ていたが、やがて地面を這って後退ると、そのままどこかへ逃げ去った。

 懐から家の鍵を出して玄関を開けた。真暗で何も見えないが、大方の勝手は承知している。見えないなりに土間を渡って上框まで来ると、靴を脱いでお座敷に上がった。そうして茶の間へ行って棚から灰皿を取り、縁側の雨戸を開け広げた。月の光が入って来て足許が白々とした。私は縁側に腰掛けて煙草を喫んだ。帰省した際はいつもひとりでこうしている。

 あの女の云った事が気に掛かる。女の身に何が降り掛かろうが私の知った事ではないが、あの口振りからするに誰かにいらぬ事を吹き込まれたのだろう。全く怪しからんと思う。その様な下らない話であの人を侮辱するとは何事か。思い返すのも腹立たしいが、もしも女の云っていた事が本当で、身勝手な空想ではない真実であるとするならば、あんな女なぞさっさと取り殺して早く私の所へ来なさい。(了)