摩耶観光ホテル

摩耶観光ホテル

 この頃はどうにも涙もろくなっていけない。自分が涙を流すのを待っている様な節がある。お天気の良い午間に駅へ向かおうとする途すがら、ずっと向こうに連なる山を眺めると高く白い雲が薄い影を落としており、その影がゆっくりと、何かの膜が剥かれる様に、静かに山腹を辷って行くのが見えた。それでもう泣いてしまいそうになる。泣くのは気持が良いから嫌だと云う訳ではないけれど、涙腺の緩むに連れて顔がひどく引き攣るのが人に見られるのは恥ずかしい。だから人の居る所ではどうにか堪えて、家に帰ってひとりになった時に纏めて泣くようにしている。ひとりで泣いていると、悲しい事がよく思い返される。悲しいから泣くのかと云うに、そうではない。泣く為に泣いている。しかし泣きながら思うのはいつも悲しい事ばかりだった。悲しい事のあった時分は涙もろい訳ではなかったから、泣かなかった。その時の分の涙が今流れている。一度泣き出すと、成る可く沢山泣くように心掛けている。折角泣く事の出来る気持になったのだから、泣けるだけ泣いて置かなければ勿体ないと思う。多く涙を流す為に、悲しい記憶の切れ端に縋る自分のみじめさにもまた涙が流れる。枯れる程泣いたと思っても、顔の中に水が満ちて、ぽたぽたと鳴るのが聞こえる様な心地がする。

 中尾がマヤカンへ行こうと云う。マヤカンとは何かと訊くに、摩耶観光ホテルの略称らしい。摩耶観光ホテルと云われても、どうやらホテルであろうと云う所までしか見当がつかない。

「男二人でおまえ、ホテル行って何すんの」

「ホテル、つっても、廃墟なんですよ。ホテルの廃墟。聞いた事ないすか。有名どこなんですけど」

「ないね」

「すげえらしいんですよ。すげえらしいんで、僕こないだ新しいカメラ買ったんすよ。それで、でも一人で行くのもちょっとあれなんで。一緒に行ってくれそうな人、つったら、先輩ぐらいしか居なくって」

「そんなら、じゃあ、行ってみようか」

 その様な会話を交わしたのが先週の事で、それから同じ様な日を茫々と繰り返す内に今日になった。駅に近いコンビニで待ち合わせているのだけれど、約束の時間を過ぎても中尾はやって来ない。時間の合わないのは仕様がない。中尾は関東で暮らしており、自分は九州の端に居る。それが近畿で落ち合おうと云うのだから、大変な事だと思う。

 自分が待つ分には一向構わないから、車の中から外を眺めていると、中尾からの着信があった。

「もしもし、先輩、すんません」

 何かの雑音が、只でさえ滑舌の悪い中尾の声に紛れて非常に聞き取り難かった。

「どんくらい遅れそうなん」

「あの、結構道混んでて、高速バスで来てるんですけど、あれ、先輩、聞こえてますか」

「聞こえるよ」

「運転手がなんか、ルート変えるみたいな事云ってるんすけど」

「そんな事あるんか」

「なんでちょっと、他の客と揉めてるみたいで、さっきも婆さんが、すげえ腰曲がってる婆さんなんですけど」

「どうなってんの」

 向こうの音声が一瞬、遠退いた。

「ああ、取り敢えず、いつになるか解らんので、先行っといて下さい。場所分かりますよね。現地集合、つう事で」

「ええけど」とこちらが云うなり、通話は途切れた。

 気にかかる所があるけれど、何がそうとも思い至らない様で、中尾と交わした会話の全てが始めから行き違いの様にも思う。廃墟は山の上にあった。直通のロープウェイが出ているが、廃墟の方へ行く者には監視がつくと云う事だから、別の道程を辿らなければならない。即ち自らの脚で以って山を登って行くのだけれど、そちらも先達によって順路が確立されていると云う。

 暫く車を走らせていた大通りを外れて、新しい家の並ぶ住宅地に入り、恐ろしく勾配の急な坂を登って行く。坂が終わると山へ入る道があり、そこから先は徒歩となる。

 山に沿った暗い道に車を停め、外へ出ると、自分が考えていたよりも随分と多くの人の姿があった。山を見ると、住宅地の方へ向かって渓流が出ており、古びた小さな堰堤が水を止めている。渓流を挟んでこちら側に山への入り口があり、向こう側には広大な墓地があった。

 ハイキングコース図と題された案内板を眺めていると、横を子供がすり抜け、山の中へ走って消えた。入り口からは色々の人間が出たり入ったりしている。登山用の衣服を着た者も居れば、背広を着たのも居る。口を開いている者は少ないが、辺りは無闇にざわついている。山の音かも知れないけれど、山の音にしては生臭い様に思う。

 山へ入ると、渓流に沿って奥の方まで長い人の列が続いているのが見えた。皆が皆、お行儀よく順番になって並んでいる。吃驚して、自分のすぐ前に居る女性に「何かあったんですか」と訊くと、「今日はこれでも静かな方ですわ」と澄ましている。

「えらい混んでませんか」

「だってハイキングコースでしょう」

「聞いた事ないな、こんなの」

「変な事仰いますのね」

「この奥には何があるんです」

「奥と仰いましても、ねえ。それも良いんでしょうけれど、変な人だわ。そら、あそこらをご覧なさい」

 女性の指差す方を見たが、薄暗い山の中に木々が立ち並ぶばかりだった。

「やっぱり変だ」

「あら、あら」

「何もないじゃないですか」

「嫌だわ、子供だって居るんですから」

「子供だって。こんなとこに何の用事があるんですか」

「あら、何ですって、そんな事」と云って女性は微かに笑ったきり、前を向いて喋らなくなった。非常に嫌な気持がした。

 人の列はゆるゆると進んでいる。自分もその中に居るのだけれど、行列であるとか、その様なものが苦手だから落ち着かない。入り口で中尾を待つべきだったのかも知れないが、これから引返すのも億劫に感じる。携帯電話を見ると、圏外とあった。どこかで赤ん坊の泣き声が立って、直ぐに止んだ。

 恐らくここだろうと云う所まで来たので、列を外れて、細い獣道の様な所へ入った。ハイキングコースを外れ、山の斜面を登って行く道で、目的の廃墟へ通じる道である。どれだけの人間が並んでいるのか解らないが、列から抜ける自分を気にする者はひとりも居なかった。

 人が居なくなり、急に寂しくなった中を黙々と進んだ。木の根を掴み枝を足場とする様な険しい道だった。頭の上が開けた所に出たので上を見ると、ヘリが何機も飛んでいた。街の方からサイレンの音が響いて来た。騒がしいと思ったが、色々の音が耳に入る限り、実際には届いているのだろうけれども、山の中には外の音が入る事はない。辺りは静まり返っている。

 上へ登って行くに連れて、蔓草が鬱蒼として来る。道を間違っていたらどうしようかと思っていると、不意に大きな鉄塔が現れた。鉄塔の足許にはごみ袋の様な人間が蹲っている。薄手の雨合羽を頭からひっかぶっているらしい。男性の様だが、歳は解らない。放って置く訳にも行かないだろうと思い、

「お怪我でもされたんですか」

「いや」

 喉に何か支えている様な声だった。

「そんな事ではないのですよ」

「体調がよろしくないとか」

「いや、いや。そうではないのです。どうぞお構いなく」

「そうですか」

 いい加減に脚の疲れが来ていたので、手頃な岩に腰をかけた。

「摩耶観光ホテルと云うのは、ここからどれぐらいなんでしょうか」

「あすこに行かれるので」

「ええ」

「そうですねえ、ここらで半分と云った所でしょうね。私はねえ、あすこから来たのですよ。本当、良い所でしたよ」

「ああ。それじゃあ今からお帰りになる所なんですね」

「いや、帰るのではありませんよ。帰ると云ったら、あすこへ帰る事になってしまうではありませんか。来た道を帰るなんて、滅相もない。そんな」

 そう云うと、体を揺すって笑った。

「え。もしかして、住んでおられたとか」

「いや、いや。住むなんてそんな。私なんかが」

「ちょっと僕には、どう云う訳だか」

「ええ、勿論、存じ上げておりますとも。しかし、行くならば急いだ方が良いかも知れませんね。お友達が待っておられるのでしょう」

「何を云ってるんです」

「いや、どうかお気を悪くなさらないで頂きたい。ちょっと小耳に挟んだだけですから」

 男性は起ち上がり、「それでは」とこちらに会釈をしてからゆっくりと引摺る様な足取りで山を下りて行った。何だか馬鹿にされている気がする。あの男性にではない。理由は解らないけれど、周りの景色が段々と余所余所しく感じられ出した。

 晴れ間のはっきりとしない薄曇りの空が、木々の梢を暈している。鳥が飛ぶのが見えたが、どの辺りを飛んでいるのか見当がつかない。ずっと高い所に居るのかも知れないし、或いは頭の直ぐ上に居るのかも知れない。長い首をした黒い鳥だった。小さな窪みや大きな窪みが道いっぱいに広がっており、その上に落葉が積もっているから、歩を進める度におかしな感触がする。木の枝が蔦に絡まってぶらぶらしているのを押し退けると、目の前にコンクリートの建物が見えた。

 歪んだ階段を上り、扉のあった所を潜ると、小さい犬が足許に纏わりついて来た。小さい鼻をくんくんと鳴らしながら、靴に顔を押しつけて来る。犬は嫌いではないから撫でてやり、辺りを見ると、どこから射すのか解らないが、青い様な明かりに染まった壁や天井が森閑として、埃の一粒、瓦礫の一欠片までが、きちんと定められた場所に収まっている様に思われた。船舶を模した風な窓や壁は皆ささくれて、褪せて、元々がどの様なものだったのかは解らない。腐った床板を踏み抜かないように、静かに歩いた。壁や扉のあちこちに記された落書きには風情を感じさせられる所があり、

 “昭和35年8月24日晴 某13才”

 だの、

 “302号 コスプレROOM!! ナース セーラー服 女王様 ミニスカポリス モンペ”

 と云った軽率な言葉が、却って品格を高めている様に思われた。

 大広間に入ると、海を出て街を渡りここまで吹き上がって来たと思われる風の一陣が、山の明かりと一緒になって割れた窓から染み出して来た。ぼろ布となったカーテンが揺れるのを眺めていると、隅に何か転がっていたので近づいて見た。錆びた手廻しの氷砕器だった。

 涙がぼろぼろと眼窩から溢れた。ひとりだから良いだろうと思った途端に、溺れてしまうのではないかと云う程に後から後から涙が流れた。

「お客様、いかがなさいましたか」と云って、奥から仲居さんが出て来た。

「いえ、何でもないんです」

「そんな事仰って、お体が震えておりますわ。お気の毒な事」

 咄嗟に顔を隠したので、嘔吐しそうなのを我慢していると思われたらしい。背中をさすって貰った。

「ご不浄までご案内差し上げましょうか」

「いや、いいんです、部屋に戻りますから、大丈夫です」

「それでは、お連れ様にお伝えして参りましょう」

 それも困ると思ったが、仲居さんの気配は足音と共にぱたぱたと遠ざかって行き、やがて元の森閑とした空気になった。

 辺りを見ると、窓の下に散らかった硝子の破片が、外から来る明かりを受けて刺す様な白さで光っていた。

 中尾が現れる気がして、じっと身構えた。

 何を身構える必要があるのか解らないが、今もそうして、広間の入り口を見詰めている。(了)