看病

看病

 冷たい風の尾ひれが鼻の下を通り過ぎた。目を開くと部屋の天井が見えた。あちこちに雨漏りの痕が薄っすらと残り、古い墨絵の掛け物を広げた様になっている。

 顔の表ばかりが熱く、底の方は暗く冷たい。未だ私は風邪を引いているらしい。起きたくなぞないので起きはしない。しかしもう眠る事も出来ない。熱の所為で少しばかり自分の身体の筋が合わない心地がするが、そうしたなりに段々と頭は冴えて来た。

 眠る前と変わらない薄暗い部屋を、私はぼんやりと目に映している。朝か夜かは定かでないが、カーテンの隙間から細い明かりが流れ、細かな埃の粒を浮かしている。目を覚ますきっかけは何だったろうかと考える。この蟠った空気の切れ端が、どこかへ引っ込んだ様な気配を感じたからではなかったか。どうせ何でもない事だろう。どこかへ引っ込んだからと云って、代わりが頭を出す訳でもなし。そうだね、例えば、誰かが来たのか知ら。来るのは一向構いはしないが、誰が来たのかと云う所は、これは非常に気に掛かる。誰であろうと私を気に掛けてここへやって来たのだから、私もその事を気に掛けなければ具合が良くない。それじゃあ、誰が来たんだろうね。母君か知ら。いいや、母君は随分前に死んだから違う。違いはしないのかも知れないが。兄はどうか。兄は、私が生まれて直ぐに死んだ。顔もよく知らない。ならば昔の女だろうか。これも少し前に死んだと云う事だから、違うね。友川でもない。奴もつい最近死んだ。ミーコ、ミーコは本当に利口な犬だった。昨日庭に埋めたのだ。金木犀のにおいに包まれて。そうすると差し当たって思いつく者は居ない。老境と云った風な歳でもないが、こうやって思い直して見ると周りには死者の影が濃い。彼らがお迎えにやって来てくれたのであれば、これ程有り難い事はない。

 不意に隣の部屋に気配が立った。そうして私の居る部屋との境目まで来た。扉を開くのだろうと思われたので、あわてて目を閉じた。

 ピアノを弾く際に中身のからくりが鳴る様な、ごきごきと云った音がする。気配は直ぐ側まで来ていた。金木犀のにおいがする。私の好きなものばかりだった。私の好きなものばかりを継ぎ接ぎにした何かが私を覗き込んでいるとしたら、それは果たして何者だろうか。

「母さん?」

 目を閉じたまま訊いた。先方も私が起きている事なぞ承知しているだろう。しかし私は未だ目を開きたくない。開いた所で何も居なければどうする。それが私には一等おそろしい。

 気配は暫く黙っていたが、やがて「そうだよ」と云った。母君の声とはまるで違った。

「兄さん?」

「そうだよ」

「ユキ?」

「そうだよ」

「友川?」

「そうだよ」

「ミーコ?」

「そうだよ」

 やっぱり誰の声でもなかった。違うと云う事だけが解る。私にはもう元の声も思い出せない。連想の内に現れた人々の名前を呼んだのは、本当に私の声だったか。

「目を開けてご覧」

「嫌だ」

「きっとそれで腑に落ちるよ」

「嫌だ」

「なら、お眠りなさい」

 額に掌が当てられた。柔らかく、冷たい。

「こんなに熱があるんだもの」

 目を開こうとしたが、もう開かない。私はそのまま、どこか深い底へ沈んで行った。(了)