灰色の廟にて

灰色の廟にて

 お午の遅くになって漸く仕事をする気になった。

 私は自分の古びた営業車から外へ出て大あくびをした。

 滅びた様な色あせた青空が、どこから来るとも知れないお日様の明かりに白んでいる。

 音もなく転がって来た缶からが足許で光っていた。

 懐から煙草を出しかけた所で携帯が鳴った。

 知らない番号だったが、出て見ると病院からだった。聞くに志乃が病気をして担ぎ込まれたらしい。これで仕事を切り上げる筋が通ったので、私は威張って病院へ向かった。

 この町に病院はひとつしかない。本当は沢山あるのだろうけれども、人に聞いて答えが返って来るのはひとつきりだった。町の真ん中にある灰色の四角い建物がそうで、いつからあるのか解らない。私が子供の頃にはもう廃墟の様な佇まいだった。駐車場に車を停めて、立派な松の陰になった小径を歩いている。葉の掠れる音を耳に聴かせる内に磯辺にいる様な心地になった。今は春だったかと思う。いつ冬が終わったのか知ら。未だ冬は来ていなかったのかも知れない。では夏はいつ終わったのか知ら。

 待合の腰掛けでぼんやりとしていると看護婦さんに呼ばれた。

「本日はどう云ったご塩梅で」と云うので、

「松永と云う人間の見舞いにやって来たのですが」

「あら、あら。お見舞いはあちらの受付にございます」

 廊下の先から西日が差していた。鼻から下が熱いので、もう大分日が落ち始めているのだろう。自分の履いたスリッパのぱたぱたとした音ばかりが響いていた。志乃の名札が掛かった病室に入ると、六つ程あるベッドに寝かされいる人間はひとりきりだった。

「どうせ食中りかなんかだろ」

 志乃は半分眠っているような顔をこちらへ向けた。

「黄色い毬がさー」

「ん?」

 暫くぼんやりと人の顔を眺めていたが、やがて目を擦って身体を起こした。

「あーあ。よく寝た」

「おはよう」

「おはよー。いやあ、面目ない。みかんゼリー食べ過ぎたわ」

「マジで食中り?」

「心当たりがそれしかない」

「俺も。医者は?」

「わからん」

「そうか」

 平生する様な取り留めのない言葉を交わす内に夜になった。志乃は窓際のベッドに寝かされているが、外の患者や看護婦の出入りする気配はない。物音もしないので大方年寄りばかりが入院しているのだろう。

「まあ、また来るわ。その感じだと直ぐ退院出来るだろ」

「んー」

 目を瞑って首を回している。病人を無闇に疲れさせる訳にも行かないので私は病室を後にした。

 再び廊下に出ると足許に触るものがあった。見ると毬が転がっている。子供でもいるのか知らと辺りを伺ったが矢っ張り人の気配はない。向こうの壁際に車椅子があった。坐る者はない。

 真上からまともに差すお日様の明かりが私の影を小さくする。未だこんな時間かと思う。松の陰になった小径を歩いて灰色の建物に向かっている。足許で光る木漏れ日が、陰に空いた穴を見る様だった。先日は病人の受付に行って恥を掻いたが、本日はその様な事はしない。私は威張って見舞いの受付を後にし、志乃の病室へ向かった。連れの見舞いである。平日であった所で会社からのお咎めを受ける筋合いはない。強い気持ちで業務をないがせに出来る事が心地良かった。

「昨日さー。隣の子が死んだんだよね」

 何かの編み物をしながら志乃は続けた。

「小四ぐらいじゃない。男の子でさー。いっつも手がこんなんなの」

 急にこちらへ向いて招き猫の様な格好をした。

「それで、僕死ぬんですか。僕死ぬんですか。って。みんなに訊いて回ってた」

「小四ってえらい絞ったな」

「私のとこにも来て、僕死ぬんですかって云うから、知らんよって云ったらさ」

 志乃の寝ている足許までやって来て、ベッドに手を掛け顔を覗き込んで来たと云う。

「お姉さん。死ぬのってこわいんですか。痛いんですか。って」

 木乃伊に見えてちょっとキモかったと云って、志乃は編み物をする手を止めた。

「ねー。死ぬのってこわいんかな。痛いんかな。あたし解かんなかったから、死んだら解るけど、あたしもあんたも死んでないからねー、知らんよ。って答えといた。その子、不貞腐れてどっか行ったよ」

 その晩死んだと云う。

「で、あたしが寝るぐらいにその辺に来るんだよねー」

 志乃は向かいのベッドとの間を指差した。

「お前の回答に問題があると思うわ」

「出た出た。そっこー結論に持って行くやつ。ねえ。その子あたしに話し掛けて来るんだよ。なんて云うと思う」

 何が嬉しいのか解らないが、得意気な顔をしている。

「こわい、痛い、助けて。って云うんだろどうせ」

 志乃は人を馬鹿にした様な声で云った。

「木間君やっぱ凡人ねー」

 こわくも痛くもない。ただぽっかりと穴が空いている。どこに空いているのかは解らないけれど、確かに空いている。途方もなく大きな穴が、どこかへ流されて行く。身体はここに留まっていると云うのに、自分が動いているのか、自分でないすべてが動いているのか解らない。恐らく真空だと思う。千切れそうな身体が石の様に冷たく静まっている。

「死ぬのってヤバくない?」

「小四が?」

「小四が」

「ヤバいわ」

 こんな所にいるからオカルトに被れると云い掛けたが口に出すのは止して置いた。気が滅入るのも仕様がない。

「なんか食いたいもんある?」

「んー」

「みかんゼリー以外で」

「えー。カニ」

「金沢で吐くぐらい食ったろうがよ」

「もう貯金残ってないよー」

「じゃあカニカマで、いや、カニパンで我慢しろよ」

「カニパンかー」

 病院を後にする頃にはすっかり日も暮れ、私は松の小径をひとりで引退している。今夜も小四は志乃の許へやって来るのだろうか。訳の解らない真空の話をしに。少し許り心配になっている。おばけの様なものの事ではない。星々のきらめきが身の回りの風物を影にする。月の場所は定かではないが、外灯もない夜の道を照らすものは古来月明かりと決まっている。しかし一度道を逸れた足取りを辿るには覚束ない。

 家でじっとしていると、表の通りから拍子木を打つ様な音がした。夜の更け掛けた頃合いだった。篭った様なちいさい音で二三遍鳴るのが聞こえたきり、元のしんとした夜が戻って来た。

 私はその日の事について考えていた。カニパンを持って志乃の許へ行き、何事かを交わして、病室を後にした。また仏が出たらしい。夜眠っていた所表が騒がしいので目を覚ますと、開け放しにされた病室の扉から見える廊下を、幾つもの人影が行ったり来たりしている。犬の様な獣も一緒になってうろうろしており、かちかちと云った爪の床に当たる音が縮こまったり間延びしたりして、看護婦さんのペットか知らと考える内に再び眠ってしまったと云う。

「二軒隣の女の子」

「何歳くらい」

「さあ。中二ぐらいだったんじゃない」

「中二」

「うん。あたしののここでねー、あやとり一緒にしてた」

 志乃は自分の膝許を見詰めた。私には何も見えなかった。

 帰りに中二のいたと云う病室を覗いた。志乃の所と同じ様にベッドが六つ並んでいる。皆々きちんと片付けられており、もう随分永い事そうしたなりで放って置かれた様な佇まいをしていた。その内のひとつ、こちらから見て左側の奥から二番目のベッドの傍に花が生けてある。名前は解らないが、黄色い花だった。

 私は近くまで行って花を眺めた。花瓶に水が入っていないのか、それとも花の方が水を吸うつもりがないのか知らないけれども、すっかり干乾びてしまっている。

「野芥子です」

 振り返ると入り口の所に看護婦さんが立っていた。花を見ているらしい。

「かなちゃんのご親族の方でございますか」

 中二の名前だろうと思う。

「いえ。……。知り合いの、知り合いです」

「そうですか」

 すたすたと歩いて来て、そのまま私の傍を通り抜けると花瓶を手に取った。そうして胸の辺りに抱いてこちらを向いた。

「それでは、ご存知でございますか」

 窓から差す西日が看護婦さんを真黒の影にしている。

「何をです」

「かなちゃんの事、……。利発な、可愛らしい子でしたけれど、やっぱり夜になるとこわいんですのね。犬ならまだ良い方ですわ。夜の病室は暗いでしょう。床を這って歩くものが何にしたって、見たくなんかありませんもの」

「失礼ですが、何のお話をされてるんですか」

「嫌ですわ。嫌な事ばっかり。……。松永さんだって近頃はあんまり具合が良くないみたいですし」

「志乃がどうかしたんですか」

「あら」と云って、初めて私の方を見た。

「そうですか、そうですか。お気になさらないで。お加減は大分良いそうですから」

 看護婦さんの言葉を聞くと、非常に嫌な気持ちがして来た。

「具合が良くないって」

「いえ、いえ。ご心配には及びません。病室での生活が続きますと、どうしても鬱ぎ込んだ気分になってしまいますから」

 私は直ぐ様病室を出て志乃の許へ向かった。暮れの薄暗がりに沈んだ廊下を進み、開け放しの扉を潜った途端に柔らかい風のひと塊が私の顔に当たってぼやけた。

 志乃は小さな寝息を立てていた。丸椅子に腰掛けて窓の外を眺めた。あの看護婦さんの様に、西日に透かされた町の建物が皆々影になっている。四角い建物があっちこっちに散らかって私共のいる所を取り囲む。古びた町だった。

「どしたん」

 見ると志乃と目が合った。

「忘れ物?」

「いや。……」

「元気なくない?」

「なくない」

「ふーん」と云って目を閉じた。

「変なの」

「寝てばっかでしんどくないか」

「別にー」

「退院したら、どっかぱーっと、……。そう云や、いつ退院するんだっけ」

「さあ」

「医者から何か聞いてないのか」

「んー。忘れた」

 私からすると、志乃には何も変わった所はない様に思われるけれども、やっぱり詳しい事を医師から聞いた方が良いのだろう。帰り際に受付へ寄って、医師と話がしたいと云う旨を伝えたが、

「申し訳ございません。只今往診に出ておりまして」と云って、先程の看護婦がぺこりと頭を下げた。

 応接に通されて、革張りの長椅子に腰掛けた。非常に柔らかく身体が埋まる程だった。そうして何だか浮ついた心地でいる内に、向かいの扉が開いて白衣を着た医師が入って来た。

「まあ、まあ。お掛けになったままで」

 私が立ち上がろうとするのを制すと、医師も傍の椅子に腰掛けた。

「もうすっかり夏も終わってしまいましたな」

 穏やかな疲れが顔に刻まれた、初老の男だった。

「時候の移ろいと云うものは。木間さん。仮に窓をスクリーンとした単なる映像だったとして、我々はそれを見て満足すると思われますか」

「いいえ」

「そうですな。見えるもの。……。人の目に映るもの。それだけですべてを語る事の出来るものなどありません。音だってそうです。においだって、味だって。肌に触れるものすら。それらの確証のない、……。不安の折り重なった何かを、我々は辛うじて信用している」

「何の話をしてるんです」

 医師は気がついた様な顔をして、

「いや、いや。お恥ずかしい。申し訳ありませんな。歳を取るとどうにも、……。今の話はどうか、お忘れ頂きたい」

 手に持った、カルテだろうと思われる白い紙を捲りながら、

「松永さんのご容態ですが、すこぶる順調に快復へ向かっておりますな。このまま行けばもう少しで退院されても良いかも知れません」

「結局、何が原因だったんですか」

「主には疲労と、栄養も多少なり不足していた様ですな」

 やっぱりみかんゼリーばかり食べていたのがいけなかったらしい。

「若い女性にはよくある事です。黒い斑点が見えたり見えなかったり。まあ、お気になさる事はない」

「黒い、……。今何て」

「おや」

 医師は自分の目許を人差し指で下へ引張った。

「木間さんには見えませんか」

「いえ、……。何の事やら」

「今度、鏡でご自分の目をよくご覧なさい」と言って、先生はにっこりと笑った。

 医師との話の一部始終を伝えると、志乃は「ふーん」と云ったきり黙っている。

「何か変なもんとか見えるのか」

「んー」

 目を瞑って頻りに首を傾げている。

「変なもん。変なもん。……。こないだねー、死んだ爺ちゃんとか、変な人だったなー」

 午后の明るい光が部屋に満ちているが、休日なので辺りは静かだった。しかし恐らく平日であった所で変わらない。病室には私共より外には誰もいない。廊下を歩く者もなく、外へ出ている者もない。

「朝起きてから夜寝るまで、いっつも決まったとこでお店開いてたのよ。あっちの廊下のねー、突き当りのとこ。ござ敷いて、フリマみたいにさー、小さい本いっぱい並べてた。これはなあにって訊いても、爺ちゃん下向いてむにゃむにゃしてるばっかりだし。変だけど可愛かったな」

 志乃はベッドの脇にある机をがたがたさせて抽斗を開けると、本当にちいさい、火事で焼け残った様な煤けた本を取り出した。

「またえらい年代物だな」

「五十円で買ったー」

 渡されたので頁を捲って見た。所々染みになって判り難いが、千一夜の古い訳だろうと云った当ては付いた。

「腹腹時計とかだったらどうしようかと思ったよ」

「何それ」

「何でもない」

 所々へばり付いて離れない頁があったが、その様な所を飛ばして捲っていると、不意に鉛筆で走り書きのされた箇所を見付けた。

「どうやって亡くなったの」

 志乃は私の手許にある本を眺めた。

「話し掛けてもねー、むにゃむにゃしなくって。下向いてるんだけど。動かないのはいつもの事だからさ、寝てるんかなって思って。ねえねえって揺すって見たのよ。そしたら」

 私は走り書きを指でなぞった。脂を吸った古い紙の感触は年寄りの肌を思わせた。

金無垢の息

   あしくび

   見ず知らず

 何の事だかまるで見当も付かなかったが、その老人がむにゃむにゃと呟いていた言葉かも知れないと思うと、砂漠の砂が風に削られて行く様な静けさが私の中へ入り込んだ。

 こわい夢を見た。私は自転車を漕いでいた。夜の深い町の中を、子供の私はどこかへ向かって一心になっている。

 何の用事があるのかは知らないけれども、そうやって外灯の頼りない明かりが続け様に過ぎて行くのを眺めていると、不意に蜘蛛の巣が顔に引掛かったらしい感触がした。

 自分の汗と細い糸の幕が一緒になって、非常に不快な心地にさせられたが、足許が妙にふにゃふにゃとしている為に手を放す訳には行かず、私は我慢して自転車を漕ぎ続けている。

 目を覚ますとレースのカーテンが顔に被さっていた。払おうとした手がおかしな塩梅なので見ると、点滴の針が刺さっている。辺りの様子から、恐らく病院のベッドに寝かされているらしいが、後先が解らない。午后の柔らかいお日様の脚が胸の辺りに乗っかっている。

 身を起こした所あちこちが痛んだ。動きたくないのでじっとしていると、窓から黄色い蝶々が入って来て、私の目先を掠めてどこかへ流れて行った。

「お加減はいかがでございますか」と云って看護婦さんが来た。

「ぼちぼちです」

「そうですか」

 それきり看護婦さんはこちらへ背を向けて、お向かいのベッドへ向かった。やっぱり「お加減はいかがでございますか」と声を掛けている。少しばかり遅れて、「んー。普通ー」と眠たそうな声で応えた。

「あら。新しい人が来たのね」

 お向かいさんはこちらへ向かって手を振った。

「昨日からでございますよ」と看護婦さんが脈を取りながら応えた。

 無為に彩られた明け暮れを幾度繰り返したか解らない。お向かいさんや、診察に来た先生や看護婦さんと何事か交わしたり、足繁く見舞いに通ってくれる甚野と取るに足らないやり取りを重ねるより外には、私には何もなかった。

 しかし近頃、窓の外を見ると時折知らない人がこちらを眺めている事がある。自分は三階の病室に居るのだけれども、背の高い男だったり、小さい女だったり、或いはそのどちら共が一緒になって、難しい顔をして私共の病室を見詰めているらしい。一遍声を掛けて見ようかと云った気になったが、

「止めときなよ。可哀想じゃない」とお向かいさんが云うので、控える事にした。

 そうして夜になると決まって辺りが騒がしくなった。病院だから仕様のない事だが、昨日まで当たり前に寝食を共にした者に先立たれるのは矢っ張り寂しい。そうでなくとも、何もない夜は何もないなりに、影の最も深い所、静けさの最も厚い所から、何か出たり入ったりする様な気配を感じる事がある。物音を立てる事はないが、それで良い気になっていると見えて、私が寝ているベッドの擦れ擦れの所まで来る事もあった。

 その日も陽の暮れ掛けた頃合いに甚野が来た。旧い付き合いだが、これ程までに私を気に掛けてくれる事を有難く思う。

「最近物騒だからね、あんまり外へ出ない方が良いよ」と云うので、

「云われんでも出る気にならん。引き篭もるのが楽しいわ」

「木間君も、寝てるの好きだもんねー」

 お向かいさんが云った。

「今日は起きていらっしゃるんですね。ご無沙汰しています」

 甚野はお向かいさんに挨拶をした。この男はもしかすると、私ではなくお向かいさんを目当てにここへやって来るのではないか。

「そうそう。物騒と云えばね、今日も来る時、変な人に出会ったよ」

「どんな?」

「男女の二人連れでね。表の中庭から、丁度この部屋の辺りを眺めていたもんだから、どうされましたか、て声を掛けて見たんだ。すると男性の方が、どこ行くつもりですか、なんて真面目な顔をして云う。どこも何もあったもんじゃないだろう。おかしな人達だったな」

「それ、俺も見た事あるかも知れん」

「本当かい」

「ああ。たまに窓の外見たら、今云った様な二人連れが居る事がある」

「君を狙っているんじゃないのかい」

 甚野は苦笑しながら、

「いずれにしても、関わらない方が良いだろう」

「身に覚えはないんだけどな」

「そう云うものさ。こちらが幾ら気を付けたって、どうしようもない事だってある」

 不意にお向かいさんがくすくすと笑った。

「ほんとそうね」

 笑った所を見たのはこれが初めての様に思うが、解らない。私はこの人の名前も未だ知らない。

 こわい夢を見た。私は知らない人と一緒に、狭い部屋の中で胡座をかいている。黙っている様にも思うし、何事か言葉を交わしている様にも思う。相手は男だった様にも思うし、女だった様にも思う。そう云った事は問題ではないのだろう。

 やがて部屋の扉を叩く音がしたので見ると、先程までぴったりと合わさっていたのが、僅かに隙間が開いている。こちらが返事もしない内からお行儀が悪いねと思っていると、それ以上扉は開いていないと云うのに隙間からいきなり青い顔をした大きな女が生えて来て、ふかふかと頭を揺らしながら溶けた様な目でこちらを窺っている。

 大層こわかった上に、それで目を覚ましたのが夜の深い頃合いだった為私は非常に心細い気持ちになった。夢に見た女の顔が今でもはっきりと思い出される。不意にお向かいさんが身を起こして、それがあの女だったらどうする。闇に隠されて見えないが、帳の向こうに居るのが誰であれ、もうこの場には居られなかった。

 壁に手を突いて真暗な廊下を渡り、階段を下りた。外を少しばかり散歩でもして、頭を冷やそうと考えていた。自分は三階から地上へ向かって下りて行くつもりだけれども、段々を踏むに連れてもしかするとこのままどこか地下の深い所へ潜って行ってしまうのではないかと云う気になって来た。星を見なければならないと思う。星を見なければ、本当に私は二度とこの暗がりから出て来られないのではないか。

 階段を途中で抜けて、やっぱり真暗な廊下を歩いた。足許が細々としたもので散らかっているらしく、爪先や足裏にそう云った硬いのや柔らかいのが一緒になって混雑する様な感触があった。どれも開け放しにされている病室、廊下の隅に転がった台車、人形の頭、錆びた缶から、黄色い鞠。私の目に映るものがあるとすれば、それらを浮かす明かりが流れて来ていなければならない。

 窓を見付けた。これも開け放しになっていた。縁に手を掛けて顔を出した途端、刺す様な冷たい星々のきらめきが、遠過ぎる程に遠い上天の寂しい所から私を照らした。痛みを感じる様な烈しい光だった。彼方から犬の遠吠えが聞こえた。町のいずこからか、或いは周りの森に野犬が居るのかも知れないが、その声を聞いて初めて私は、自分の総身が水を引被った様な汗にまみれている事に気が付いた。

「木間さん」と声がした。振り返ると白衣を来た男が立っている。

「どちら様ですか」

「非道いな。主治医の松浦です。どうなさったのですか、こんな夜更けに」

「私は何の病なのですか」

「偏向性かまいなつるです。安静になさって下さい」

「出鱈目を云わないで下さい。あなたは一体誰だ」

 男の顔が伸びた様に思われた。この頃は頭が曖昧であったから、自分の正気が疎かになっていた。今は違う。私はどこで何をやっているのか。思い出さなければならない。ここに居てはならないと思う。私はこの町で生まれ育った。私が物心ついた頃にはここはもう廃墟だった。何遍も探検に入ったではないか。ここは病院ですらない。

「木間さん」

 男は穏やかな口調で云った。

「木間さん。あなたは疲れている。疲れたら休まなければいけない。口を開けたセキレイは舌を震わせる。紺碧のヴェールが雫となって肩に注ぐ。母は蹄鉄を抱き締める。水面に映った衣擦れの、声を潜め語られるヤマカガシの厳かなる遊泳」

 大した文学だと皮肉る程度には頭が冴えている。男を押し退けて私はこの場を後にした。後先が解らない。誰かの見舞いに来たのがはじめではないか。どこまで遡れば行き当たるのか、誰かに何かがあって、私は口に出さないが本当は心配性だったから、寝ても覚めてもその事ばかりを気に掛けていたのではないか。私の名前は何と云ったか。先程の男が云っていた様な気がするが、どうしても思い出せない。矢っ張り病院の世話になった方が良いのかも知れない。

 覚束ない足取りで中庭を渡り、松の陰になった小径を歩いている。振り返ると星明かりに浮かんだ建物が夜よりももっと暗い色でぽっかりと佇んでいる。

 すすきの伸び伸びになった河原をひとりで歩いている。空気よりも少しばかり冷えた風が袖口に入り込んで来る度に、また彼方から運ばれて来た甘いにおいを吸い込む度に、自分が空と一緒になって暮れて行く様な気持ちになった。土手を駆けて行く子供の二三人が手に持った、細長いすすきの尾花が種を飛ばしながら揺れる様を眺めた。後を追う様に辷って行くとんぼの姿を最後に、土手には薄暮れの空と筋雲だけが残った。

 森は深い陰を落としており、入り込んだ私も真黒になっているのだろうと思う。紅いのがあちこちに混じった葉の擦れ合う音が頻りに聞こえる。頭の上から大きな黄色い葉が降って来て足許に落ちた。嘗ては石畳か何かだったのだろう。土に埋もれ掛けた道はその名残を僅かに偲ばせるに過ぎない。

 錆の浮いた鉄格子の門を開き、中庭へ入った。玄関までの広々とした敷地には、所々小さな茂みが散らかっている。からすがやって来て、その内のひとつの傍に降りた。そうして茂みの中へ嘴を突込んでは何かを啄んでいる。倒れた長椅子、よく解らない鉄の棒、硝子の破片、松葉杖、病衣、皆々色あせた上に暮れの色を被っているから、私には元がどんなだったかまるで解らない。動くものはからすと、歩き出した私の影ばかりだった。

 落書きだらけの玄関を擦り抜け、ひび割れた廊下を進み、猫の昼寝しているのを避けながら階段を上った。硝子のない窓から外の空気がまともに流れて来る。私はその部屋へ真直ぐ向かった。開け放しにされた外の部屋を覗いて見る気にはなれなかった。

 部屋の前で俯いて、足許ばかりを見ている。自分の靴の周りを、薄っすらとした染みと小さな硝子の破片や花びらが飾る。認めたくないなぞと云った事ではない。私にはもう顔も思い出せない。部屋を見回した所で、そこへ居なければどうする。しかし居た所でどうすると云うのか。

「何してんの」

 私は顔を上げなかった。

「そんなとこで、……」

 それきり声はしなかった。しかしこちらを窺っているらしい気配を感じる。恐らく部屋の中の、窓際のベッドに居るのだろう。部屋の中から滲んで来た風が、足許の花びらをほんの少しばかり動かした。黄色い花びらだった。動く気にも声を出す気にもならず、それきり私は石の様に立ち尽くした。

 やがて辺りは暗くなり、夜が来た事が解った。もう随分永い事同じ格好で居たので、身体の感覚が覚束ない。

「俺の、……」

 ようよう云い掛けた所で声が喉に引掛かった。私は咳払いをして、

「教えて欲しい。俺の、……。俺の名前を、呼んでくれないか」

 返事はない。

「それで済むんだ。一言、俺の事を、呼んでくれれば良い」

 どこかで星が瞬いた。相変わらず足許ばかりを見ているから、見えはしないが、その様な音がした。

 自分の靴の輪郭も解らなくなった闇の中を、何か床を這って行ったり来たりするものがある。脚に触れるか触れないかの所を前から通り過ぎて、今度は後ろからやって来て向こうへ行った。あの看護婦さんや主治医の先生ではないかと思うと、総身のささくれ立つ様な心地がした。

「何て呼んだら良いの」

「何でも良い」

 ベッドから身を起こしてこちらを向く姿を思い描いたが、その顔はのっぺらぼうだった。

「んー。……。ねえ、木間君」

 木間と云った言葉の響きが、私には余所余所しく感じられた。

「あなたの名前は何て云うの。あなたがあたしに云って欲しいのは、木間なんて言葉じゃないんでしょ」

 段々と、自分が何かおそろしい思い違いをしているのではないかと云った気になって来た。

「あたしがあなたのまぼろしだったとしても。あなたがあたしのまぼろしだったとしても」

 私は顔を上げて声のする方を見た。

 月明かりが逆光になって、その人の影を浮かしている。ぼんやりとした光に縁取られた形が、思った通りにベッドから身を起こしている。

「そんなのどうでも良い。どうだって良いのよ」

「思い出せないんだ。自分の名前が」

「ハモンドオルガンみたいな名前よ。ショーケースのおもちゃを見詰める子供みたいな。ここにはそんな人ばっかりが来るわ。色んなとこに行ったんでしょ? あたしはちゃんと覚えてる。あなたが忘れてしまっても、あたしがずっと覚えてるから」

「俺は君に呼ばれたのか」

「わかんない」と云って、微かに笑った様な気配がした。

 何か応えなければいけないと考えた途端、我慢ならない程の眠気に襲われ、私はその場に臥せてしまった。

 古物屋の軒先にくたびれた肘掛け椅子が二脚あった。これも売り物か知らと思いながら、私は使い込まれて来たらしい鈍く光る木目を手でなぞった。その冷たさは思いの外で、軒先に出してあるのは、恐らくお日様の光で温める為だろうと馬鹿な事を考えている。

「どしたん」と云った声に気が付くと、志乃はもう椅子に腰掛けている。

「おいおい。売り物だろこれ」

「そなの? 値札付いてないし、休憩用よ。ほらほら」

 志乃が空いたもう一脚の座面をぺちぺちと叩くので、辺りを気に掛けながら私も腰掛けた。

 人波の疎らな往来に差す午后の明かりが照り返して、横に居る志乃の顔を白々と浮かしている。軒に下がった風鈴が風に吹かれて揺れるが、一向音の鳴る様子はない。石畳を挟んだお向かいにはお屋敷があり、連子窓に巻き付いた蔓が花を付けているのが見える。ちいさい花だった。

「寂しかった?」

 優しい声だった。外国の歌手に、この様な声の人があった様に思う。

「変だな。そんな事」

「嬉しかった?」

 もう随分前の事になる。私は周囲の移り変わりにどうにか食らい付いて行く事に必死になっていた。

「でもおかしいな、病院なんぞ。俺達が病院で会った事なんかあったか」

「さあ。知らない。先生を見た事ある? 看護婦さんは?」

「そこが気になってるんだよな。あの先生の顔、……。確かに、どこかで見た気がする。看護婦さんも。あの甚野、て人もそうだ。だから余計に解らない」

「先生のお面をかぶってるのよ」

「お面か」

「うん」

 そうすると合点が行く様な気になって来た。お面の下はやっぱり私の知らないものだから、顔ばかりを知っていた所で思い出す事なぞ出来やしない。

「楽しかった?」

 この女が志乃のお面をかぶった何やらで、私はまんまと化かされていたとするのが正しい作法に思われるけれども、その様な事は断じて承知出来ない。

「悲しかった? 教えてよ」

「別に。普通だな」

「普通なんだ」

「普通だよ」

 本当に普通なので、そう応えるより外ない。

「んー。何で普通なの」

「何で、たってなあ」

 志乃は私の顔を眺めている。

「口開いてるぞ」

 涎が垂れているとまでは云わないが、志乃は私の言葉を受けるなり慌てて口許を拭う素振りを見せた。

「そんなんお前、アレだろ。餓鬼じゃないんだからさ、今更会うのに一々気分が変わってたまるか」

「んー」

 暫く首を傾げていたが、

「それもそうね」

「うむ」

 それきり志乃は往来の方を向いて、行き交う人の流れやお日様の脚、空の青、風の筋と云ったものに目を細めているらしかった。その横顔から目を離す事が出来なかった。志乃を通して、志乃の見ているものを一緒に見た気になっている。私がものを見たい時は、いつだってそうしていた。

「済みませんね」

 不意に近くで声がしたので見ると、古物屋の入り口の所に大きな男が立っている。

「お客さん。そちら売り物なんでございます。あんまり永い事居られると、……」

 私共は直ぐ様椅子から飛び退いて、ご免なさい、ご免なさいと代わる代わる頭を下げながら往来へ逃れた。(了)