お手本
買い物から帰ると、マンションの前で二人連れの女と擦れ違った。私の方へ笑いかけた様だったが、知らない顔だったので視線を合わせなかった。晩秋の空気が肩に染みる日暮れだった。
玄関へ上がる階段の隅に、毛羽立った様な丸いものが落ちている。見ると寝転がった鳩だった。ふかふかと、微かに息をしているらしかったが、鳥が地べたへ横になると云う事があるのだろうかと思う。
夜になり、煙草を買いに外へ出ると、夕べ見た鳩が未だ転がっている。蛍光灯に浮かされた身体がおかしな拍子で上下しているから、不整脈か知らと考えていると、階段を降りた所へ誰か起っている。明かりの届かない暗がりにいるので、細い脚が見えるばかりだが、靴からして女らしかった。女は鳩の方を向いている。彼女も鳩を気にしているのだろうと思う。
「夕方にはもう、そうやって寝てましたよ」と声をかけると、
「眠ってる様に見えますの」
「違うんですかね」
暗闇の中から嬉しそうに笑う声がした。
「こんなのはどうか知ら。その鳩を裏返してご覧なさい」
「裏返すとどうなるんです」
何となく女の云う事の道筋が解りかけたが、もしそうだとすると、私はこの鳩に触りたくはない。
「私、これをお手本にしていましたの」
「お手本にしてどうするんです」
「いやだわ」と云って笑った。
鳩の腹の下から、胡麻粒の様な蟻が一匹這い出て来た。
「きっと中にも詰まっていますわよ」
「すると、とっくに死んでしまってたんですね。なんだ。一杯食わされたな」
煙草はもういいから、早く部屋へ帰りたい気持ちになって来た。
「とってもいい着想ですわ。ねえ」
「あなたと鳩は違う」
「違いませんわよ」
女を覆う暗闇が、むくむくと膨れた様に思われた。果たしてそれが夜の色なのかすらも定かではないが、その中から女の脚を伝いちいさい蟻が出て来たのを見ると、もう私はこの場にいられなかった。(了)