花描き

花描き

 隣に越して来た夫婦のご主人が絵を描くそうで、描いたものを一枚頂いた。絵画の技法はよく知らないが、白地に淡い水彩の花が海月の様に漂っており、目蓋に薄く沁み入る様な美しさだった。

 居間に飾っていると、来客のあった際に「この絵は香るね」と云われる事があった。中々味な物云いをすると感心したものだったが、ある晩その絵の前を通ると、微かに柔らかな花の香りが鼻先を掠めた。

 家の前で隣家のご主人に出会ったので、失礼に当たると申し訳ないのだけれど、あの絵には花の香りのする何か細工でも施してあるのかと訊ねた。

「今となっては、気にかけてはおりませんのですが」

 ご主人はそう云って照れくさそうに笑った。

「私のアトリエなんか、それはもう」

「何か謂われのある事なのですかな」

「いや、いや。私はただ花が好きで、好きでずっと描いているものですから。昔から一心にカンバスへ向かっていると、まるで自分が花になった様な心地がするんです。それが私には随分いい気持ちだから、そうなるまで描くのを止めない。絵に、花の魂なぞと云った風なものが宿るのか、私が花になった時に匂いが移るのか、それは存じ上げませんが、どちらでもいい事ですから」

 お気に召さないと云う事でしたら、今度は匂いの少ないものを差し上げますよと云って、済まなそうに頭を掻いた。その時にご主人の方から花の香りが流れて来た。彼の人柄と相俟って、辺りを穏やかに静めるいい香りだった。

 近々個展を開くと云う事なので、少しばかり離れた土地だけれど行って見ようと思う。