毬藻
お午間から家が揺れる様な大風が吹いていた。自分は部屋でじっとしていたのだけれども、家のあちこちが風に押されて音を立てる度に腹を小突かれる様な心地がした。そうする内にいきなり夜になった。森閑とし出したので外へ出て見ると、あんなに吹き荒れていた風もどこかへ去った様子である。代わりに大きく分厚い空気の塊が空から垂れて、辺りの山々を伝い一帯に満ちている。雲はなく、星もない。月だけが細い輪郭を闇夜に浮かし、こうこうと光っていた。
コンビニへ行って煙草を買い、その足で県道の脇を歩いている。途すがら人に出会う事はなかったが、お午間でも人を見る事なぞない。年寄りとちいさい生き物ばかりが息をひそめる土地である。そう思うと、自分は先程のコンビニで誰から煙草を買ったのであろうか。手許で火が灯っているから、実際に誰かから買ったのであろうけれども、あそこに人が居る所をどうしても思い起こす事が出来ない。
県道を逸れて山へ続く小径に入った。行く先にはちいさい集落がある。しかしどの家にも明かりはなく、大方皆寝静まっているか、どこかへ出掛けているのであろう。向こうにひとつだけ外燈が灯っているが、冷たいアスファルトをうつろに照らすばかりだった。暗闇にぽっかりと白い穴が開いている様に思われた。
集落を抜けると道も荒れ、細い林道だったと記憶しているが、随分永い事この辺りを訪れた事がないので、もしかすると全く様変わりしているのかも知れない。ぱたぱたと云った水の音がするので、小川が脇を流れているのであろうと思う。そうするともう暫く歩けばその小川に橋が架かっている筈であるから、それを渡りいよいよ山の中へ入って行く。
月明かりに周りの風物が薄っすらと浮かんでいる。土を踏み締めただけのけもの道、柱の様に立ち並ぶ背の高い木々、伸び伸びになった草葉や、その間を縫って音もなく飛び回る赤や青の蝶々が、電燈なぞ持って来てはいないから、はっきりと見える訳ではないが、私の身体をすり抜けて行くのが解る。どこかを流れる渓流の音を聞くに連れて、却って辺りは段々と静まって行った。
ふらふらしていた足許が急にはっきりとし出した。いつの間にか地面が土からコンクリートへ変わっていた。目の前を苔や罅の走る大きな壁が塞いでおり、これ以上先へは進めそうになかったが、この壁を見に来たのであるから一向差し支えない。旧貯水池の堰堤であり、大正の昔からここいら一帯の水源として使われていたが、今はもう役目を終えて山の中に紛れつつある。上へ登って見ると、欄干には市松に組まれた赤煉瓦が使われており、どこか西洋の城を思わせる造りとなっている。
堰堤の向こうを眺めると、草むらが遠くまで広がっていた。嘗ては水が並々になってお日様の光を照り返していたのであろう。今は風の渡るに任せて草が靡き、月明かりを散らしている。
自分は堰堤の端に起っていたのであるが、私の居る所とは反対側の端っこから、不意に球の様なものが転がって来た。おやと思って近づいて見ると、西瓜程の大きさをしており、苔や草で覆われているので、大きな毬藻の様に思われた。足許に落ちていた木の枝を拾い、突いて見た所、球は音もなく割れて、たちまち中から仄かに光る金平糖の様な菜の花色のつぶつぶが溢れ出した。その量が思いの外で、暫く眺めているのだけれども、ちいさいつぶつぶが皆一緒になって、何か大きな毛虫が動く様に波打ち、欄干の隙間を潜って後から後から草むらの方へ流れ落ちて行く。
「長谷か」
声のした方を見たが、誰も居なかった。直ぐにもとの森閑とした気配が立ち込めた。相変わらず毬藻からは金平糖の波が溢れているが、物音一つ立たないのが不思議であった。
「長谷か」
思わず違うと応えた。
「そうか」
再び声のした方を見たが、やっぱり誰も居ない。そうして毬藻の方へ目先を戻したのだけれども、あれだけのものがいきなり消えてなくなっていた。
あの金平糖の流れ落ちて行った先を覗いて見ようかとも考えたが、止して置いた。先程の声は確かに長谷と云っていた。母親の旧姓が長谷であるから、何かしらの因縁があるに違いないのであろうけれども、だからと云って私に何かを求めるのは筋違いである。(了)