初会
死に別れた女と橋の袂で出会い、連立って歩き出した。星明かりの眩しい晩だった。
私は何の気なしにいるつもりだったが、やっぱり内心ではそう云った訳にも行かないらしく、隣に静まる女の事を頻りに横目で覗ったり、微かに香るにおいを鼻先に転がしたりする内に、気がつくと見た事のない通りへ出ていた。
ここはどんなだいと訊いて見ると、あたし知らないわと云った。その声があんまり懐かしいものだから、私は女の手を握ってやろうと考えたが、考えれば考える程に却って総身が石の様に硬くなって行き、歩くのも余程の事に思われ出した。
何もない通りだった。古いお屋敷の屋根つき塀が向こうまで連なって、星の薄っすらとした光をかぶっている。そのせいで地面はこんなに真黒なのだと考えると、身の回りの気配が少しずつ沈んで行くのを感じた。
やがて通りの先に大きな門構えが見え出した。牛の胴程もある提灯がぶら下がって、明るいのか暗いのか解らないうつろな光を撒いている。
今はここへお仕えしておりますのよと隣で云った。そんな事はやめて俺の所へ戻っておいでと喉元まで出かかったが、湿った息が漏れるばかりで仕様がなくなった。
もう先へ進みたくなぞなかったが、女が歩くので私も歩いている。門を潜ると足許が嫌に硬くなって、靴音がそこいら中に響き出した。真暗な庭のあっちこっちでこだまがすると見えて、私共の外にも大勢の人々が混雑している様な心地がした。もう星は見えなかった。遠くの方で光っているのは、恐らく表で見た提灯と同じ物だろう。あれを目指して歩いている。
真直に来たと思っていたが、玄関ではなくにじり口の様なちいさい障子戸の前にいる。女がはじめて私の隣を離れ、戸の裾にしゃがむと音もなく障子を引いた。こちらを向き、お入りと云って笑った。
真暗なお座敷にようよう入り込んだ途端、突いた手の先にけものの毛並みが触った。吃驚して手を引っ込めると、奥の方へ微かな足音が駆けて行った。まるで別の見当からこっちよと云ったのを聞いたので、その方を見るともう女が燐寸を擦って行灯に火を灯している。
はじめの部屋を出て、狭く長い廊下を随分歩いた。時々傾斜がついて、前のめりになったりのけぞったりしながら、上へ行くやら下へ行くやら解らないなりで、女は私を主人の所へ連れて行くつもりなのだろうと考えていた。
洋風の扉がいきなり現れて、女が開くとその先もやっぱり真暗だった。女が先に入ってどこかの蝋燭に火を灯した。テーブルの上の燭台で、仄かな明かりが周りの物を浮かした。革張りのソファを指して、おかけになってと云った。云われた通りに腰かけると大層坐り心地がよく、何だか嬉しくなって来た。
それから女が次々に運んで来る洋酒や色々の小鉢を頂く内にすっかりくつろいだ気持ちになって、偉そうにふんぞり返っていると、真向かいの暗がりから急に物凄い気配がし出した。
「ちぎれの味もよかれよの。富士のご意向とあらば」
言葉の意味も、いつからそこにいたのかも解らなかったが、部屋を埋める様な立派な声に、この方がご主人かと思うともう恥じ入る気持ちでいっぱいになった。(了)