夜道
夜の往来をひとりで歩いていると、自分の後を付いて来る者がある。テレビの砂嵐がかぶさっている様な夜だった。交差点の点滅信号が路面を照らすのを眺めた。濡れている訳でもないのに赤い光がぬらぬらとだらしなく伸びている。
「もし」と声がした。背後からだったので、「何ですか」と応えたがそれきりだった。遠くで踏切が鳴ったと思うと、電車の走る音が微かに聞こえた。
「もし」と声がした。今度は応えなかった。
「今、向こうで電車が通ったでしょう」
山羊の鳴く様な声だった。
「あれにねえ、轢かれて死んだ子が居たのを憶えてお出でですか。もう十年も前の事だから、もしかするともう、誰も憶えていないかも知れない。向こうに居るお母さんの所へ、早く行きたかったんでしょう。あはは。向こう、て、線路の向こう側と云う意味でございますよ。此岸彼岸の話をしている訳じゃあ、ない」
車のひとつも通らない様な道で信号待ちをしていた。路地裏の酒場から微かに人いきれが立つのを見て、幾らかほっとした。
「その子が死んだ折、ちいさい犬を連れていた。寸での所で犬だけは助かった。ちいさい、茶色の犬だった。名前は何と云ったかな。そう、子供が轢かれて死んだ折、手に持っていた綱が離れて、犬は一目散に明後日の方へ飛んで逃げた。それきりさ。母親はいつまでも泣いたり喚いたりして、手に負えない有様だった。いつまでも、いつまでも泣いたり喚いたり」
陸橋に差し掛かったので、階段をゆっくりと上った。両脇の柵が無闇に高い。目の前の段段と、真上の夜空しか見えなくなった。
「ところで、犬はどこへ行ったんだと思われますか」
犬の名前はチョコと云った。柴犬のちいさいやつだった。
「捜しに行ったんでしょう」と応えた。
「一体何を」
「轢かれた子ですよ」
しいしいしいと云った具合の、押し殺した様な笑い声が聞こえた。これ以上付き纏って来る様ならばこちらも放って置く訳には行かない。振り返ろうとした所、
「おや、おや。お止しになった方が良いのではありませんか」
「なぜ」
「振り返ったって、どうせ誰も居やしないんだから」
そうなのだろうと思い掛けたが、このまま付いて来られるのも嫌だから、やっぱり振り返る事にした。
「蝶は菜種の味知らず、菜種の蝶は花知らず。あはは。いひひ」
声の云った通り、振り返った先には誰も居なかった。ずっと向こうまで伸びる道が、外燈の明かりを吸って少しばかり膨れている様に思われた。(了)