災厄

災厄

 お客さんの所へ行って来ますと云って、事務所を出たのが午后の七時過ぎになる。

 それからお客さんの主催する合同コンパへ出席して、散々に飲んだくれた挙句、妙齢のご婦人からのお誘いを丁重にお断りしたなりで、再び事務所へ戻って来たのが明くる日の午前一時頃だった。

 真暗な事務所には勿論誰もいやしないが、いやしないからと云って自分の仕事が消えてなくなる訳ではない。私はきちんと机に就いて、パソコンの電源を入れた。

 私は嘘を云うのが嫌いだから、正直にお客さんの許へ行くと報告をして出て、また正直に帰って来た。上司は私の帰りを待つのが筋だろうと思うけれども、事務所のどこを探しても一向見当たらない。これは職務を放棄し、家へ帰り風呂に入って寝たと見て差し支えない。そうするとこちらも残りの仕事を片付ける筋合いなぞないのではないかと云った気になって来るが、私は上司とは違い真面目な人間であるから、ひとりで仕舞いまでやって帰って見せようと思う。

 色々の入力を行いながら、酒気を出す為にお茶を飲んでは小用に立ち、また飲んでは立ち、飲んでは立ちを繰り返している。

 明かりを外に漏らすのは事務所の沽券に関わるので、パソコンの画面が光っているのだけが頼りだが、勝手の知れた事務所であるから、仮に目を瞑っていた所で席と便所の往来に不自由はない。しかし人が気持ちよく用を足している間中、外から馬鹿に騒ぎ立てる音が聞こえて来て非常に不愉快だった。何だかぽこぽことした太鼓の音や、ぺらぺらの笛の音、ふにゃふにゃに間延びした謡声が混ぜこぜになって耳の中へ闖入して来る。

 間取りからして、事務所の入ったビルの路地裏だろうと当てを付けたが、一体こんな時間に何事かと思う。私はお茶を飲むのを控えて、仕事に集中する事にした。

 余り気にかけるのはよくないと解ってはいるのだけれども、ここにいても先程の騒ぎの音が微かに聞こえて来ていけない。どうも路地裏を行ったり来たりしているらしく思われた。

 そうする内にとうとう頭に来て、一遍怒鳴ってやろうかと便所まで行って窓を開こうとしたが、その際に聞こえた歌の内容が、間抜けな音調と比べて嫌に物騒だった為、尻込みしてしまった。

 時計を見ると四時に差しかかろうとしていた。気が付かない間に眠ってしまったのかも知れない。ブラインドの隙間から薄っすらとした朝の光が流れている。大方の事務は済んでおり、後はこの報告を支社長に宛てて送信すればいいだけなので、私は威張って送信し、威張って便所へ向かった。

 便所の戸を開こうと取っ手を掴んだ所で、戸の直ぐ向こうからいきなり大騒ぎする音が聞こえ出した。

 びっくりして後退ると、太鼓や笛の音はもうそれとも付かない程滅茶苦茶に鳴らされ、歌の代わりにげたげたと云った笑い声が響いた。

 向こうから戸が叩かれているらしく、薄い板の表が震えたと思うと、今度は真中辺りがしなった。今にも蹴破って出て来そうな気勢に、私は段々おそろしい気持ちになって来た。

 その場にはもういられなかったから、静かに自分の机まで戻って、荷物を纏めた。

 相変わらず便所の方から聞こえる騒ぎに怯えながら、去り際にパソコンの画面を見た。支社長からの返信が来ていた。私にはそれが何よりおそろしかった。(了)