春の雨
弥勒
春の雨 ‐ 目次
弥勒
お彼岸の間は墓所への立入が出来なくなる為、持て余した時間を読書に充てる事となる。曽祖父の代から受け継がれるちいさい畑が町の外れにあるが、どうにも私はものを育てると云った事が不得手であるらしく、何を植えても直ぐに駄目にしてしまう。南瓜なぞは丈夫でいいだろうと思っていたけれども、皆土に栄養を取られ萎びてしまった。この頃になると墓所の周りを光り物が漂い出してきれいだが、皆あれをご先祖様のお印だの霊魂だのと云うのが気にかかる。あれはその様な有難いものではなく、単に山くらげが一斉に湧いたに過ぎない。夜になると光るので、遠くからだと見間違う事もあるかも知れないけれども、墓所へ入ってはならないのは、くらげに刺されると腫れがひどいからであって、ご先祖様や何かに触れるからではない。
そう云った事を考えながら、私は例年通り山に入って庵を結んだ。広い湖の畔で、向こう岸にはないけれども、こちら側には非常に大きな白く四角い石が幾つも積まれている。恐らくにれ山から切り出して来たものだろうと思われるが、自分の思い及ぶ所はそこまでで、誰がいつ何の為にそうしたのかはさっぱり解らない。段々になった所や、石の表に穴が開けてあり、そこから中へ入る事の出来る所があるので、そうするとこれらは窓や扉で、昔の人の住処だったのかも知れない。勿論、仮にそうであったとしても、昔の偲ばれる様な物は皆風化してしまい、石の遺構を残すのみとなっているので、高い所から湖面を眺めるのに丁度良い塩梅である事より外に、この場所に纏わる因縁なぞ今となっては何もない。
私は未だお日様の高い内からそうやって石の縁に腰掛けて本を読んでいる。遥か眼下の汀に水が溜まり、風もないのに匙で崩した寒天の様に揺れている。
脚の長い鳥が飛んで来て、私の隣に止まった。暫く自分の翼の裏を啄んでいるらしかったが、やがて石から飛び降りる様にしてその場を離れると、湖の擦れ擦れの低い所を辷って行った。
“弥勒”と題字された恐ろしく難しい本に目を落としている。何の事やらまるで解らないが、美や目醒め、その他聖なる事柄に関連する所見が記してあるとの大方の見当で読み進めている。元々私は字の読み書きが出来なかった。父も祖父も、恐らく母もそうだったのだろう。こうして解らない本でも解らないなりに読む事が出来る分には、随分恵まれたものだと思う。
魚の跳ねたのが目の端に映ったので、その方を見た。細い波紋が水面を渡り、消えた。先程よりも少しばかりお日様が傾いた様に思う。夕飯はそこいらの林で探そうか、或いは町に戻って買って来ようか知らと考えながら凝った首を回していると、あちらの石の上に立ち、私と同じ様に湖の方を向いている人影を見つけた。いつからそこにいたのかは解らないが、本を読み出す前にはいなかった様に思う。知り合いならば挨拶をして置かなければ具合が悪いので、近づいて行って見ると知らない男だった。
「ご旅行ですか」と声をかけた。男はこちらへ振り返り、微かに目を細めた。
「ええ。乾酪を売って歩いています。この辺りでは余り伝わっていないと聞いたものですから」
男は傍に置かれた大きな鞄に手を入れると、石臼を平たくした様な円盤を取り出した。ちりめんの風呂敷に包まれており、それを解いた所すべすべの白けたものが出て来た。
「これをどうするんです」
「普通は、切って食べます」
私は吃驚して、
「え。これを食べるんですか」
「これが大変美味しい」
「何で出来ているんです」
「山羊や牛の乳で出来ています」
「変わった趣ですね」
「味も中々変わっていますよ。どれ、おひとつ」
今度はちいさい袋を取り出し、中から先程の円盤を砕いたものだろうと思われる欠片を摘むと私に寄越した。
「確かに乳の面影がありますね。うまい。酒に合いそうな」
男は微笑むと、
「よかった。酒屋にでも売りに行くとしましょう」
私共はそこいらの石の上に腰掛けて暫く話をした。近頃は外国の殿様方が挙って流れ星を捕まえようとしている事や、港町に非常に大きな牛の脚が流れ着き大騒ぎになっている事、蜃気楼を食べる女が銀の風の砂漠で何かを捜している事、盲目の老人がならず者共を率いて極北の王国にいくさを仕掛けている事等、男は珍しい話を沢山知っており、皆永い旅の間に見聞したものだと云う。私なぞはこの町から出た事がないから、男の話は皆面白く、夢中になって聴いた。
「しかし、中でも一番不思議だったのは、やはり貘でしょうか」
「貘と云うのは、あの目つきの悪い」
「そう。あの目つきの悪くて、手足の短い」
「あれがどうしたんです」
男は暮れの湖面に映る曖昧な色をした空を見下ろしている。
「黒唇と云う名前の歌手が、……。ご存じありませんか、素晴らしい声を持った有名な方なのですが。彼女と懇意にさせて頂く機会がありまして、方々で見繕ったと云う色々な蒐集品を拝見したのです。その中にちいさい箱がありました。何かと訊いて見た所、貘が入っていると」
胸の前で両手を開き、何か物を持つ様な仕草をしながら、
「これくらいかな。大きさは。私の思っていた分よりも随分ちいさいものですから、子供ですかと訊くと、それで大人だと美しい声で仰りました。硬い箱で、隙間もないので中は見えない。こんな所に仕舞って置いては可哀想ではないかと考えたのですが、煙の様な躰をしているから、そうして置かなければどこかへ逃げてしまうと云うのです。ですから姿を見せて頂く事は叶いませんでしたが、代わりに悪い夢を食べて貰いました」
「やっぱり夢を食べるんですか」
「ええ。寝床に絹の天蓋を吊って、中で白檀を焚くと貘を箱から出しても逃げませんから、私が眠っている間に黒唇が段取りをしてくれたのです。あの不思議な夜の事は、今でもはっきりと覚えております。室を照らす薄明かり、白檀の香り、黒唇の指先。しかし残念ですな。肝心の、貘の餌になった悪夢の事は、すっかり忘れてしまったのです」
魚の跳ねる音がした。音の聞こえるばかりで、目に映るものは何もない。西日が私共の影を無闇に伸ばしている。
「考えて見れば当たり前の事です。思い出したくなんかないから貘に食わせる訳であって、何とも歯痒い話ではありますが、忘れる事によってしか、貘に夢を食われたと云う顛末を認める事が出来ない。食われた悪夢そのものも同様に」
「しかし、そうするとどうして悪夢を見たのが解るんです。もしかすると、そもそも悪夢なぞ見ていないかも知れない」
男は私の方を向いて、微笑んだ。
「解りますとも。夢は忘れてしまいましたが、その夢がとんでもなくおそろしいものだった事は、はっきりと覚えておりますから」
夜が来ると、男は大荷物を担いで町へ出て行った。その姿を見送ったなりで、ぼんやりと自分の仕事場を眺めていた。ここからだと随分遠いが、麓から天辺まで山くらげの青々と光るのが蛍の様でここからでも眩しい程だった。ああ見えて中々に奥ゆかしい質で、もう半月もするとさっぱりと消えてなくなるのだが、私はあれの死骸の様なものを見た事がない。死ぬ前に森へ潜ると父親からは聞いている。掃除の手間がないのでそうした都合の上では大変有難い。しかし墓所ばかりに湧いてここいらにはひとつもいないのはどうした事だろうか。
男の去って行った方からこちらへ歩いて来る者がある。覚束ない足取りで、慣れない林道をよく通って来たものだと思う。手許の明かりが大きく揺れる度に、私はその人が転んでしまいやしないかと心配になった。
「今晩は」
先方も私の姿を見つけたらしく、気安い調子で声をかけて来た。
「お家へ伺って見たら、あんな張り紙がしてあるでしょう。お仕事には行かれないってお聞きしてたし、折角だから夕飯でもご一緒にと思って。そしたら丁度箱柳さんが垣根に坐っていらっしゃって、こちらだって教えて頂いたんですの」
色々の事を続け様に云い連ねると、乾さんは大きく息をついた。
「しかし、危ないですよ。こんな夜になってから林へ入って来ては」
「んふふ」
乾さんはこちらへ笑いかけたなりですたすたと歩いて来ると、私の横を擦り抜けて湖の方へ向かって行った。
「月明かり。水面。飛ぶ鳥。風の囁き。花びら。あなたがここへいらっしゃる理由が解る気がします。気持ちいい。家にひとりでいるよりも、よっぽど」
麻の葉の着慣れた浴衣が風に靡く姿を眺めながら、
「気持ちいいですか。たまたま潜めそうな所を見つけたものですから」
乾さんが云ったので気がついたが、いつの間にか月が出ていた。明るい月で、一帯の石段や湖面の波を薄っすらと光らせ、乾さんに影を作っている。
「私がここへ来るのは初めて?」
「ええ」
「そうですか」
乾さんは石の縁に腰掛けると、昼間私がそうしていた様に、湖を眺めているらしかった。
「そうだ。乾さん、ここまで来る途すがら大荷物を担いだ男の方と擦れ違いませんでしたか」
「大荷物? ……いいえ。お知り合いの方?」
「おかしいな。遠くの国から来た物売りだったのですが」
「余所の国から? いいな。……。どんな人だったのか知ら」
男から聞いた話をそっくり乾さんにすると、彼女も大層珍しがっていた。私も得意になって尾ひれをつけてしまったかも知れないが、しかし貘の話だけは話すのが憚られた。関連なぞありはしないと頭では解っているけれど、仮に貘が乾さんの夢を食っているとすれば、日々の明け暮れが悪夢だと云う事になってしまう。
「そんな人にとっても、あれは珍しいものだったんでしょうね」
詰まらない事を考えていた所に、乾さんが呟いた。
「近くで見られたらもっときれいなんでしょうけれど。毒があるなら仕様がないわ」
遠くに光るあの墓所を眺めている。
「吃驚していましたよ。彼も近くへ行って見たいと云っていましたが、刺されると大変なのでどうにか引き留めましたよ」
乾さんは少しばかり笑うと、
「くらげですもの。お彼岸の間にあそこで何かをして、気が済んだらお空へ落っこちて行くのね。きっと。浮かんでいる様に見えるけれど、本当はゆっくりと落っこちて行く。私達とはまるで反対の理屈なのね」
「何だか詩的な云い回しですね。お洒落です」
「う」と云って乾さんは袖で口許を隠すと、
「今のは聞かなかった事に。……。何かの本で読んだ事とまぜこぜになっちゃったみたいで……。恥ずかし」
それきり黙り込んでしまった。私も一緒になって黙っていた。湖の波の音も、草葉や虫の鳴る林の音も、耳を澄ませば聞こえて来るけれども、どこか余所事の様に感じられるのは、恐らく明るい夜だからだろうと思う。私は乾さんの隣に腰掛ける様な身分ではないので、突立ったまま何の気なしに辺りを見回していると、不意に足許にちいさいものが纏わりついて来た。吃驚して後退ると、合わせてちいさいものもついて来る。黒い子犬だった。暫く私の履物に鼻を押し当ててくんくんやっていたが、やがて思い出した様に顔を上げると、こちらへ背を向けて跳ねる様に走り出した。行く先を見ると、昔の人の住処だろうと当てをつけていたあの石の表の穴から明かりが漏れている。
子犬が入り込んで行った穴から中を覗いて見ると、やっぱり石の遺構より外にものはなかったが、明かりの元だろうと思われる所に子供が一人後ろを向いて蹲っている。そこへ子犬が尻尾を振りながら近づいて行き、子供と同じ様な格好をして坐った。
「どうした?」と声をかけて見た所、子供は振り返って私を見た。知っている様な気のする顔だった。
「あ。お墓のお兄ちゃん」
「どこの子だっけ」
「鵲の夫婦亭」
「ああ。お前、店の手伝いしなくていいのか」
「どうしたの?」と云って乾さんも来た。
「見て。これ」
子供は立ち上がると、両手に光り物を抱えてこちらへやって来た。青々とした山くらげだった。私は自分の血の気が引いて行くのを感じた。幼少の時分、あれに刺された折に三日三晩寝込んだ事を思い出したからだった。
「まあ。触って大丈夫なの?」
「うん」
自分の嫌な記憶は一先ず仕舞って置くとして、確かにそれだけ触って何ともないなら、もう何ともないと云う事になる。
「死んでるから大丈夫」
死んでいようが生きていようが私は嫌なので、乾さんが恐る恐る指で触ろうとするのをこちらも恐る恐る眺めている。その間にも段々と光が弱くなって行く様に見えたから、やっぱりもう死んでしまっているのだろう。そうして乾さんの指先がくらげの傘に触れた途端、興奮したらしい子犬が吠えて、私は飛び上がって驚いた。
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