霞始靆一景

春の雨

霞始靆一景

春の雨 ‐ 目次

霞始靆一景かすみはじめてたなびくのいっけい

 春の嵐が身の回りを騒がしくする。私は布団の中で家や外の木立の風に吹かれて鳴る音を聞いた。

 寝たり起きたりを繰り返す内に目が覚めてしまった。風は随分静まったと見えて、起き出した私の耳に入って来るのは鳥の声ばかりだった。雨戸から漏れる日差しの細い筋が埃の粒を浮かしている。

 薄暗い家の中を行ったり来たりしていると、表の戸を叩く者がある。

「あの。ご免下さい。……」

 女の細い声だった。私はみしみしと音を立てる廊下を早足で渡り、玄関へ向かった。ものがない家なので散らかると云った事はないが、何しろ古い家であるし、平生へいぜい自分のする事は寝起きぐらいのものだから、塵や埃、蜘蛛の巣と云った細々としたものをいつも掃除している訳ではない。こうして来客がある度にその事を後悔するけれど、だからと云って慣れ親しんだ日々の不精をすっかり片づけてしまうのも何だかさみしい気持ちがする。

「はい。只今」

 出て見ると矢っ張り乾さんだった。

「ご免下さい。……。あの、……。ご免なさい。あなたは、……。どなたですか」

 済まなそうにする顔は昨日と同じ様に美しいが、何となく勝手の変わった風にも見える。去年の暮に買った観世水の着物がよく似合う。どこか緊張しているらしく、腿の辺りで両掌を握り込んで固くなっている。

「日記をご覧になりましたか。あの通りです。どうかお気を確かに」

 私が応えるなり乾さんは口をつぐみ、大きな涙を続け様に幾つも零した。ご本人には申し訳が立たないけれども、その涙が余りにも清浄で、俄に身の回りが明るくなった様な心地がした。

「……。あなたの事を、少しお話しますと」

 高い所から失礼な事だと思ったので、私は土間へ降りて草履をつっかけた。

「お名前は乾春子いぬいはるこでございます。おん歳は十七」

 私は乾さんにゆっくりと云って聞かせた。

「こうして私の許へいらっしゃるのは、これでで廿一回目となります」

 泣くのを止めたらしく、私が話すのを黙って聞いている。涙で濡れた目には戸惑いの色が浮かんでいる。

「申し上げ難い事ですが、……。あなたは、私の知る限り、どうやら四半期毎に覚えた事をすっかり忘れてしまう様なのです」

 何遍この顔を見たか解らない。いや、数えた通り廿一回目になる。

「こちらもまた、申し上げ難い事ではありますが、……。ご親族は皆、既にお亡くなりに」

 慣れないものだと思う。廿一回目でも未だ慣れない。私はこの事を乾さんに伝えるのが一等嫌だった。これを以て乾さんは自分が天涯孤独の身である事を諒解し、私の様な人間に頼らざるを得なくなってしまった。

 そうして暫く二人して黙っていたが、やがて、

「そうですか。……。そうですか」

 涙を拭う様を見るにつけ、立ち居振る舞いのしとやかな所、言葉や着物の着方、また字の書き方やお箸の持ち方と云った身の回りの事はきちんと覚えているけれども、思い出と云ったものがぽっかりと抜け落ちてしまっている事が不思議だった。

「あなたは、いつもこんな遣り取りを引き受けて下さるんですね。いつも有難う」

 作り笑いを見て、無理をしなくてもいいのにと思う。乾さんは作り笑いをした折に笑窪が出来る。その事を知っているのは当代私のみと思われる。

一寸ちょっと、ひとりで考えて見ます」と云って去って行く後ろ姿を私は見えなくなるまで見送った。

  深い山々の隙間に収まった様な町で、朝の白けた空気の中で、静かな往来の先へに薄れて行く姿はさみしかった。きっとあの大きなお屋敷へ帰ってから日記を見返すのだろう。乾さんの記憶の代わりとなっている、あの日記を隅まで精読するのだろうと思う。日々の明け暮れの慰みに、また起こった事やその折に自分が何をしたのか、何を考えたのか、書き留めて見てはどうかと進言したのがはじまりだった。悪いとは思いながら、一度だけ中身を覗いて見た事がある。美しい字で、はじめて見た雪の事が美しい文章で書かれてあった。私の様な筆不精ではないらしく、直ぐに頁を使い果たしてしまうものだから、その都度私が新しいのを買って来て、渡す前に一頁目にこう記して置く様にしている。

 一、あなたの名前は乾春子である

 一、この文言より外のものは、すべてあなたが書いたものである

 一、この文言に見覚えがなければ、二軒隣のちいさい平屋を訪ねる事

 一、この冊子には何を書いても構わない。何も書かなくとも構わない

 一、以前のものは書斎の本棚に纏めてあるので、最後の頁まで書き終えたらその中に仕舞って置く事

 一、この冊子や、以前のものに書かれてある様にあなたは過ごして来たから、これからもその通りに過ごしても構わないし、過ごさなくとも構わない

 一、この家はあなたのものであり、財産もあなたのものであるから、思う様に使って構わない

 一、二軒隣の平屋に従僕が詰めているので、何を申しつけても構わないし、放って置いても構わない

 私は内へ戻ってまた中を行ったり来たりした。寝直す気にもなれないので、明るい内に平生出来ない様な細々とした雑用を片付けてしまおうと考えている。障子の破れた所を張り替えたり、土間に転がしてあるがらくたを納戸に仕舞ったり、湯呑の底にこびりついた垢を落としたり、茶釜の底にこびりついた垢を落としたり、風呂釜の底にこびりついた垢を落としたり、鍋の底にこびりついた垢を落とす中途で、自分は無心になったつもりでいたけれど、どうにも頭の深い所が落ち着かないらしく、先程から似た様な事ばかりを繰り返しているねと気がついて、観念した様な気持ちになって縁側の所まで行くと雨戸を開け広げて縁に腰掛けた。

 お日様の出ている間は何だか身体を動かすのがちぐはぐになる気がする。こんな時は何もせず、何も考えずにぼんやりとするのがよろしい。そう云えばこないだ外国の友人から頂いた煙草があった。仕事の折に大事に吸っているので、ここでその大事な一本を咽んでしまっていいものかとくよくよしていると箱柳が来た。

「あら珍しい事もあるもんだ。墓守が午間から昼行灯」

 藤紫の七宝で口許を隠す仕草はいかにもけものが人の真似をする様で、頭の上にくっついた大きな耳がぴくぴくするので、どうやら腹が減っていると見える。

「一寸煙草取って来る」

 私は茶の間の箪笥まで行って抽斗を開き、煙草と煙草盆を取って戻りかけた所で、今しがたきれいにした湯呑に茶を注ぐといっぺんに盆に載せて縁側へ戻った。

「退屈だろう」

 再び私が縁側に腰掛けるなり箱柳が云った。いつの間にか床に足を崩して坐っている。

「あ。ありがと」

 湯呑を差し出すと両手で受け取り、飲み口に顔を近づけてふうふうしている。

「お前がこんな午間に家に来るのも珍しいな」

 燐寸を擦り、煙草に火を点けた。煙草の作法が解らないので、好き勝手にぷかぷかやっているが、口から出る煙を眺めるのが思いの外面白く、近頃は煙を身体に入れても咳き込む事がなくなったので、自分が煙突になった様に思われて嬉しかった。

「んふ。散歩してたんだけど。んふ。やめなよそれ。くさい」

 どうやっているのかは解らないが、箱柳は姿勢を変える事なく段々後ろへ下がって行く。

「いやさ、あすこの灯籠に蛇がいたんだ」

 箱柳の指差す方を見ると、確かに庭の隅に古い灯籠が立っており、火袋の中を何か細いものが出たり入ったりしている。はてと思い行って覗いて見ると、中には去年焚いた線香の燃えさしが入っていた。

「蛇じゃないよ。線香だ」

「嘘だ。さっき私を噛もうとしたんだ」

「ご覧よ」

 こちらへ来て、一緒になって火袋を覗き込んだ。

「ほんとだ。おかしいね。真っ赤な舌まで見えたんだ」

「線香の幽霊だろう。お前は目がいいから」

 私はまた縁側まで行って腰掛けた。手許の煙草の灰が長くなっていたので、煙草盆に落とした。

「今朝、乾さんが来た」

「そう」

 箱柳は未だ火袋を覗いている。

「いつもの?」

「うん」

 私は続けた。

「さっき帰ったんだけど、今頃日記を読んでいるんだろう。そして今日の事を書くんだろう。もう何冊になるか解らない。あの人にとっては字引みたいなものだよ」

「お陰でお前も随分楽出来てるんじゃないか。字引と云うか、手引だろう。これから三ヶ月かけて三ヶ月前をなぞるんだから」

 そうして箱柳は、「哀れな女」と云ったきりいなくなった。乱暴な物云いだが、あれは誰にでもそうなので、そう云った質であると考えればこちらが気を悪くする筋合いもない。

 日が暮れ出したので、肩かけの鞄に色々の細かい道具を詰めて、雑巾や刷毛、また桶に鋏やたわし、雑巾、古紙など、大荷物を担いで表へ出て行った。玄関の戸に“留守にしております”と墨書きした張り紙をして、あちこちにぼんぼりの潤んだ様な明かりの灯る往来を歩いた。

 未だ暮れの早い時間だから、お神さんや子供の姿もあちこちで見られる。露店なぞはこの頃から商いをし出すので、生花や自分の食べるものを用意するのに大変都合がいい。今日は温かいものを食べたい気持ちだったから、人の少ない屋台に入って芋の蒸かしたのと牛蒡ごぼうの汁を頂いた。おやじが奥で焼酎の瓶に柄杓を潜らすのを見て、どうしようかと考えたが、世の大勢がそうである様に、夜の更けるに従い酔っぱらいばかりがそこいらを闊歩し出す前に、私は持ち場へ向かう事にする。

 町の中心へ近づくに連れて段々と暗くなって行き、露天や何かの明かりが届かなくなり出す所まで来ると、もうこの辺りは午間でも薄暗い。何故かと云うに、真上を見上げると大きな木の葉っぱが空を覆っているからで、ここいら一帯は元々高台ではあるけれども、この先には塔の様に迫り上がった高い森があり、余程晴れた日でなければ天辺には雲がかかっている。森自体がまるで一本の木の様に、皆々一緒になって高く伸びている。麓にちいさい小屋が見え出したが、あれが私の第二の棲家で、先祖伝来のがらくたが仕舞ってあるより外には、せんべい布団が敷いてあるばかりだった。

 荷物を下ろし、桶だけ持って近くの小川まで水を汲みに行った。明るい夜で、どこかに月が出ているらしく、森に遮られた光の筋が木漏れ日の様に足許を斑にしている。そうした明かりを小川の流れが静かに照り返し、隠された星々を川の中に見る様だった。光苔の見られる事もあるが、今はない所を見ると冬眠から覚めた亀や蜥蜴とかげの大きいのが皆平らげてしまったのかも知れない。桶を浸し、水を掬った。時折烏賊いかやかわうそが入って来る事があるので、そうした時はまた川に放してやる。

 小屋へ戻り、カンテラを出して火を点けると、水の張った桶に生花を入れ、また大荷物を一緒に担いで裏手へ回った。昔の人が森のぐるりをらせんの形に足場で囲って、高い所まで上れるようにしたのが今も残っている。途すがら木々のうろや、なければ幹をくり抜いて、亡くなった人を棺ごと埋葬すると、いずれ木々の伸びるに伴い、人々の亡骸は段々と森に紛れて行く。いわば途方もなく大きな墓塔であり、私はその守りをしている。

 ぎいぎいと云った音を鳴らしながら、ゆっくりと足場を上って行く。幼い時分、父親について回った折にはこの音がこわくて仕様がなかったが、今は愛着の様なものを感じている。どこに誰が弔われているのかが解るように森の地図が代々受け継がれており、平生それを頼りに奥へ入って行く。上へ行く程古く、今は新しい所を主に見ている。去年の暮れに亡くなった野伏さんなぞは未だ棺が丸々表へ出ているから、藍で染めた幕をかぶせて隠してある。それを捲って見て、鳥に啄かれていないかを確かめると、傍の行灯に油をさし、花入れの中身を取り替えて、香を焚き、少し拝んだ。目を瞑ると緩い風が吹いて来て、私の頬を撫でて行った。こうして一年かけて順繰りに検めて回る。

 行灯の明かりを絶やさないようにとの仕来りであるので、その日の割当を大方終えると、後は火の塩梅を見て回る。そうやって森の中腹に差しかかった所で私は足場の縁に腰掛け、眼下を望んだ。真暗の中にちいさい明かりが団子になっている所が町なのだろうと思う。遠くに稜線が黒いぎざぎざとなって立っており、その上に星々が瞬いている。昔あの山々を越えて、雲呑うんどんと云う名の大きな熊がやって来たと云う。しかしこの森が自分よりも背が高かったから、こわがってまた山の向こうへ逃げてしまったと云った話を、誰から聞いたか、忘れてしまった。先程の屋台で包んで貰ったお握りと沢庵漬けを上がり、煙草を喫んだ。午間よりも勝手が解った気でいるが、今度くれた友人に訊いて見ようと考えている。どこかで「んふ」と云ったのを聞いた気がした。こんな高い所までよく来たものだと思う。それはそれとしても、森であるから色々の動物が現れるのは当たり前で、鹿や狸なら可愛いものだが、ついこの間なぞ豹に出会った。丁度石英さんの所を片づけ終わった折に、ふと上に目をやると、木々の絡み合った中から枝の長いのが横に迫り出している所に、豹が寝そべってこちらを見ていた。結局何事もなくやり過ごしたが、今でも思い出す度に身震いがする。

 乾家は相当に由緒ある家柄らしく、地図に拠ると最も古い段の足場の末席に位置する。この界隈まで来ると足場の古びも甚だしく、何年かごとに人を呼んで修繕させるが、どうも今の工法では追いつかない程洗練された組み方がされているらしい。今も家系が途切れていないのは乾家を残すのみで、外の家々は地図に名を残すばかりだった。墓標らしきものも残っていない為、私の方で地図を頼りに行灯を立て、花を供えるようにしている。下りる頃には夜が明けるだろうと思われるが、私は乾さんがものを忘れる度に霊前に参じ、息災を祈るようにしている。他人の私がご先祖様にお願いをするのもおかしな話であるので、祈願ではなく報告だろうか。私は勝手にこの様にお祈りしておりますので、しなに。と云った風な具合に、最後にここへ埋葬したのは乾さんのご両親で、それも五年前の事であるから、再び森へ紛れつつある乾家の墓標を前にして、あの人が平生そうする様に、私は深々と頭を垂れた。

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