雨が降っている。

 土のにおいがした。

 こんな町の真ん中でおかしな事があるねと考えながら往来に出ている。信号や店先、ビルに灯った明かりが段々と雨に暈されているらしい。

 自転車の通り過ぎたのが何かの尻尾の引込んだ様に思われた途端、横からいきなりさやが出て来てどこ行くのと云った。一寸コンビニ行きよるだけと応えてやると、ではご相伴にあずかりましょうと云って横に並んだ。昔私がひとりで缶蹴りをして遊んでいた所、何の気なしに向こうの丘を見ると真白い入道雲がかぶさって白い葉をつけた大きな木が生えている様だった。その真白の中に影法師が立ち、丘の上からこちらをじっと見つめていると云うのが最初だったと思う。当のさやが覚えていないから確かめる術もないが、それから永年のつき合いになる。犬のとくろうが死んだ折、二人してべそをかきながら神社へ行って森のちいさい木の根許に埋めた。確か雨の降る日で、土のにおいがしたのを覚えている。

 コンビニまではこの通りを真直ぐ行って交差点を渡り、CoCo壱に突当たった所で左に曲がる。橋を渡って暫く行けば高架が見えて来て、その下にひっそりと佇んでいる。結構歩くよと云うとなんであんなとこにしかないんかねだりーねと云ってさやは腕組みをした。

 昨晩鰐の夢を見たと云うので聞いてやると、押入れの中でかるたをしていた所家の者がうるさいから叱ってやろうと思い出て行った。すると台所に父親の腕が落ちている。傷口も新しい様なので近くに鰐がいると考えるなり土間から母親が来て、さやちゃん早くお逃げなさいと云ったきり倒れてしまった。背中に穴が空いており、そこから身体の中身を皆食われてしまったらしい。背後で悲鳴がしたので振り返って見るとちいさいさやがいて、人の事を指差しながら震えていた。そうすると自分が鰐で、さやの両親を平らげてしまったのも自分であったと合点が行き、それならば仕舞いにこの子を片づけて帰ろうかと云った気になった。大口を開けてひと飲みにしてやろうと云った気勢でちいさいさやに迫ったが、不意に背後でもの凄い気配がしたので振り返って見ると家の壁や天井がそっくり鰐の口の中に変わっていた。入れ子と云った言葉が浮かんだ拍子に目が覚めたと云う。

 身体の温度と変わらないぼんやりとした空気を伝い、雨は静かに水溜りへ吸い込まれて行く。もう暗いので町の明かりを照り返すのを頼りに水溜りを避けていたが、やっぱり踏んづけてしまうものだからそうする度に靴の中に水が入って来る。やがて私の肌に温められて水と自分との境目がなくなって行くのを非常に不快に思う。昔の知り合いにいつも鉛筆を囓っている男がいた。ファーバーカステルの2Bが堪らんと確か小学校に上がった頃にはその様な事を云っていた様に思う。今も同じ様な事でもうどう仕様もないと聞いたが、何分それも数年前の事であるため今となっては覚束ない。それこそ小学生であった時分、私が鉛筆囓りと連れ立って歩いていた記憶がある。どの様な因縁でそうなったのかは定かではない。鉛筆囓りはその時もやっぱり鉛筆を囓っており、私は鉛筆を囓る趣味はないから俯いていたと思う。今の私ならばそうすると云う憶測で申し上げるが、当時も今も殆ど変わらないので差し支えはないと思う。鉛筆囓りは鉛筆を囓りながら、昨晩気の触れた女に追いかけ回されたから復讐をする。住処はもう突き止めてある。と鼻の穴を大きくしながら云った。俺関係なくねと応えて見た所、お前もその内追いかけ回される羽目になるかも知れんから、先手を打つに越した事はないと云った。いずれ盲腸が痛くなるかも知れないから先に切って置くと云うに等しい暴論に思われたが、当時は友人の厚意に胸が一杯になったのだろう、私もその女をどうにかしてやろうと云った気持ちが猛然と身内に宿るのが誇らしく感じられたものだった。

 見てみんとさやが云った。外灯の明かりを避ける様にして暗がりに立つ者がある。傘を持たず雨に降られるままとなっている。ルンペンかなと云うので気にすんなと応えた。さやと云う女はどうにも物事を深刻に考える事の出来ない質で、牙を剥く犬に平気で手を出すし蛇の尻尾も平気で掴む。止せばいいのに雀蜂を虫取り網で捕まえて、摘もうとした所案の定薬指を刺された。もう一遍刺されたらお仕舞いと云う重い宿命を背負って生きている。

 私共が暗がりに立つ者の前を通り過ぎた折に「のののののの」と云った声が聞こえた。永い事云い続けているのだろう。私はそんなお行儀の悪い事はしないが、さやは遠慮なく顔を覗き込んだらしく、意外と女の人だったと云って鼻を膨らませている。水溜りを踏んづけてしまった。締まりのない水が辺りに散らかって、往来の光を照り返してきらきらと光った。私だけではない、恐らくこの場にいる全員が同じ光景を目にしたに違いない。長靴一杯に白い水を汲み、胸に抱えて表を走った。水と一緒に糸蚯蚓が二三匹入っていた。私は何とかして家へ持って帰って金魚鉢で飼おうと考えていた。この前の朝、起きて見ると金魚が水面に浮かんでいた。ビー玉だけではさみしいからと云って使い終わった電池を入れた明くる日の事だった。私は父親から大目玉を食らっておいおい泣いた。もう住む者もない金魚鉢に水だけを入れて、私はいつまでもビー玉の照り返しが水面に揺れる様を眺めていた。しかしその内に飽いてしまったので今度は糸蚯蚓を招待してやる事にしたのだった。金魚は縁日にしかいないから滅多な事ではお目にかかれない。糸蚯蚓であれば心当たりがある。いつも洗剤のにおいの立つ溝へ行って白い水を汲むと白いなりに赤い紐が何本か見えた。それで満足して金魚鉢へ流し込むと、煙の様になった白い水から糸蚯蚓と一緒に蝉の蛹の様なものが出て来た。顔の半分もある大きな目が飛び出していて、私をじっと見詰めているらしい。そうして暫くの間私共は見つめ合っていたが、やがて口の辺りをもぞもぞと動かし「みして」と云った。母親が来て金魚鉢を引っ掴むと直ぐ様壁に投げつけた。粉々になった硝子と中の水とが散り散りになって西日の色を映した。あれが何であったのかは今も解らないが母親も何年か前に鬼籍に入った為もう確かめる術はない。

 不意に私共の脇を原付が走って行った。赤い尾灯が線を引いた様に向こうまで残っている。傘を叩く雨粒の大きさが変わったと見えて、先程まで涎かと思われる程締まりのなかったものが、今はもうちいさく硬いつぶつぶが続け様に私の頭の上で踊るのがはっきりと感じられた。この前身体があんまり痒いものだからとうとう我慢ならなくなり病院へ行った。待合の入り口まで来た所、こちらへ向いて黒いマスクをした爺様が長椅子に腰かけていた。紺絣に龍の刺繍のされた黒いスカジャンを羽織っており、山高帽をかぶっている。随分洒落た爺様だねと思ったが目を見るとロンドンパリであったため、一体皮膚科に何の用事があるのか知らないけれど、ここの先生はどんな患者の話でも辛抱強く聞いてくれる名医だと云う事だから、ファンの様なものなのかも知れないと思う。隣へ腰かけると爺様は見なさいと云った。恐らく私に云ったのだろうから爺様の見る方を見てやった。今私の歩いて来た廊下が向こうまでぬたぬたと延びている。ただひとりの為にこの廊下は続いていると云った。彼方からやって来るただひとりは今も中空を旋回しながら火花を散らし、星のきらめきや獣の寝床を作っているのだ。信仰しなければならない。位置エネルギーの突端から掻い摘む祝詞。客体を装い鉄格子の間を行ったり来たりするボールペンの嘲り。不定形を本尊とするからくりが飲めや歌えやの大騒ぎ。あやしげな弟子共は暁の袖に隠れ、尚もアンティーク牛歩の夢を見る。私は爺様の顔を見たが、向こうを向いて呟くばかりでこちらの事など気に留めていない様子だった。廊下から何が来るんだいと話しかけて見たが、大脳新皮質と返って来たきり口を開く事はなかった。

 こんな日は思い出すよねとさやが云った。何をと応えて見た所人の顔を大きな瞳でまともに見詰めている。雨は色々の姿で傘を叩いたり、水溜りに入ったり、またさやの頬を伝い町の明かりを映し、私の目の前で一帯を暈す。今はさあさあと云った音を立てながら降り止む気配を見せず、もしかするとこのまま雨が上がる事はないのではないかと云った気にさせる。こんな日には思い出す。雨に纏わる事ばかりではないけれど、町の明かりとさやの顔、外灯、電柱、車、傘、花屋の店先、欄干、向こうのコンビニ、各々が勝手に浮かび上がっているその目に見える景色の間を埋める暗闇に、透明な雨が頻りに私の記憶を取り繕っている様に思う。最後にさやの言葉を聞いてから私共は既に立ち止まっていた。

「おまえ、こんなとこで何やってんだ」

 自分の所在のまるでお留守になっていた事に吃驚している。急に雨の音がはっきりと聞こえ出した。

「あらー」とさやは舌を出し、

「練習してた」

 しなを作って目を細めている。

「コンビニまで保たなかったけど、寝坊助は変わんないね」

 わざわざ実家まで帰って来て、先祖伝来のがらくたの中から染付の花入れを持ち出し、浜昼顔を入れて床の間に直に飾った。私は正面に坐ってじっとしている。障子の微かに震えるのや、空気の尾ひれが出たり引っ込んだりするので家の者が行き来している事が解るが、身の回りは森閑として自分が少しでも動けば忽ちそこいら中に罅が入って水が漏れて来るのではないかと思われた。頭の中で縺れ合った情動の成り行きも、今はただ水底に溜まった澱の様に静まっている。そこの障子を開けると縁があって、ちいさい庭の向こうには竹林が続いている。昔から用もないのに縁側へ出て行って私はいつまでも竹の風に吹かれて揺れる様を眺めていた。苔にまみれた手水鉢の水面へ葉が音もなく落ちる。ゆっくりとどこかへ向かおうとするが、その内何かに引っかかったきり動かなくなった。

 後ろでことりと音がしたので振り返ると、僅かに開いた襖の隙間から女が覗いている。(了)