逃水抄

逃水抄

 婆様が畑に出ているのをぼんやりと眺めていた。この暑いのによくもまあと云った気持ちでいる。そうする内に腰の曲がった婆様の姿が逃水と一緒になって伸びたり縮んだりし出して、地面との境目が解らなくなった。お日様の光に当てられて倒れやしないかと心配になったが、倒れた所で自分が拾いに行けば済む話だと思い直した。座敷を開け広げて端居しているが、どれだけ待ってもそよ風のひとつもやって来やしない。婆様の野良仕事を手伝うなぞご免だけれど、そうかと云って自分だけ冷房を効かして涼むのも何だかお行儀の悪い様な気がする。だからこうやって婆様を見張る様な格好でいる。梁や鴨居に染み入る静けさがしんしんと鳴っている。頭から水をひっかぶった様に汗が吹いては乾き、吹いては乾きして身体中がふやけている。

 勤め先を辞してから、行く当てがないのでこの草臥れた田舎まで戻って来た。自分の知らない内に両親は死んでおり、婆様がひとりで家の面倒を見ていた。年寄りの一人暮らしは応えるだろうと思うけれど、本人の平然たる様は思いの外で、ともだちが多いから寂しかねえし不自由もしとらんと云う。暫く厄介になるけどと云うとええようにしと返って来たので、好きにさせて貰う事にした次第である。

 夕方になって、幾らか暑さもなりを潜めた様だったから、私は晩飯までの間そこいらをぶらぶらと歩き回る為に外へ出かけた。西日で紫色になった山を眺めながら、木々の影がかぶさって暗がりとなっている川縁をゆっくりと行く。この道のずっと先には古いお寺があり、私が最後に見た折には既に廃寺となっていたので、今もそうであるか、もうすっかり片付いてしまっているか、もしかすると新しい坊様が来てきれいにしてくれているかも知れない。ふと山から目を逸らして道を見ると、行く先を塞ぐ様にして非常に長い蛇が横たわっている。胴の両端は見えない。片っぽは川に浸かっており、もう片っぽは藪に紛れている。幼少の時分、遠足へ行った先で大きな青大将が出たが、年長の子供が尻尾を掴んでぐるぐると振り回していたのを思い出した。非常に面白そうだったのを憶えていたので、私もやってみようかと云った気になった。

 蛇に近付いて行って、掴む尻尾はどっちか知らと川の方を覗いて見た所、胴体は淵の中へ見えなくなるまで続いている。藪の方へ行って掻き分けて見たが、こちらも山の深くまで入り込んでいるらしい。そうする間にもぴくりとも動かないので、どこかへ進むと云った事もない。胴体を掴んで持ち上げて見ようとしたけれど、見た目よりも随分重さがあると見えて、中々地面から離れない。うんと力を入れて引張ると、蛇の腹から地中に向かって何か根っこの様なものが張っており、それがずるずると引き抜かれた。そうするとこれは蛇ではなく、蔓草の親戚なのかも知れないと考えたが、しかし西日を照り返す鱗の輝き、この冷たい手触りは、私は蛇のものより外には知らない。冬虫夏草の様なものか知らと思った所で、向こうから民生委員のおじさんが歩いて来た。

「今日は。今帰りですか」と声をかけると、

「こらたまげた。古屋さんとこの坊か」

 おじさんは帽子を取って額を拭った。

「暑うて敵わんわ今日も。婆様はぶっ倒れちゃおらせんか」

「僕よりよっぽど元気ですよ」

「だろうな。結構、結構」

 私は足許の蛇を指して、

「これって、何なんですかね」

「うん?」

 二人してしゃがみ込んだ。

「おら珍しいな。みずちだみずち」

「みずちですか。何か、根っこみたいなのが生えてて」

「ん。みずちのこんくれえのはな、夏場に卵植えるもんだ」

「そうなんですか」

 おじさんは私が根っこを引き抜いた辺りを持ち上げた。

「ほれ。こん髭根ん中によ、卵がくっ付いちょる」

 目を凝らして見ると確かに、根っこのあちこちにちいさいつぶつぶが沢山くっ付いている。

「えらい多いですね」

「大体、虫や蜥蜴やらに食われてしまうからなあ」

 元に埋めてやんなと云われたのでその通りにした。

「親の方はこれ、全然動かないんですけど」

「死による。川に浸かっとる方が頭でな、そっから髭根に水を引きよるんよ」

「死んでるのに?」

「そう云うもんだ」

「これ頭の方引張ったら出て来るんですか」

「止しといた方がええ」

「どうしてです」

「頭見たらちんちん腫れるぞ」

 おじさんはそう云って笑った。藪の方から川へ向かって風が吹いた。湿った夏の風だが、そうしたなりに肌に浮いた汗を乾かして行った。向こうでぽとりと云った音がしたので目を遣ると、魚が跳ねたらしく小さい波紋が水面に立って、直ぐに見えなくなった。

 ごみを棄てに行って戻ると茶の間に婆様が居り、あんたに電話があったよと云った。誰からと訊いたが先方は名乗らなかったらしい。若い女だよと云ったきり婆様は畑へ出て行った。

 納屋に行って自転車に油を差している。錆を取るには時候が悪かろうと思うので、取らない。ペダルを掴んでゆっくりと回していると電話のベルが聞こえ出した。大急ぎで戻ったが寸での所でベルは止んだ。何だか力が抜けたので手を洗って畳に転がって、縁側の柱に止まったカナブンを眺める内に正午のサイレンが鳴った。

 帰って来た婆様と一緒にお昼の素麺を上がり、庭へ出て煙草を飲んでいる。後から婆様も出て来たので、一服するのか知らと思う間にそこいらの洗濯物を片付け出した。手伝おうかと云うと皆中に入れっちまいなとの事だったから、仰せの通りにした。どっか出るんかねと訊いて見た所、今日は雨だでもう出らんと返って来た。顔を上げると日差しの眩しさが私の目を細くする。大きな青空に向かって蝉の声が立ち昇る。声の抜けて行く先には真白い入道雲がぽっかりと浮かんでいる。

 遠くで雷の音がしたと思うと、たちまち辺りが暗くなって来た。しかし暗くなったは良いがいつまで経っても雨が降って来ない。暫くぼんやりと灰色の空を見上げていたけれど、仕様がないので家の中へ引込んだ。婆様は編み物でもしているのか、丸くなって手許を見詰めている。濃い夕立のにおいが茶の間にも満ちている。

 不意に電話のベルが鳴った。太く厚い雨の塊がまともに降り出した。私は受話器を取り上げた。

「はい。もしもし」

「もしもし。フルヤさんのお宅ですか」

 若い女の声だった。

「そうですけど」

「コウタロウ君はいらっしゃいますか」

「僕ですけど」

 稲光がして身の回りが暗くなった。表に誰か走る様な足音がした。向こうから段々と近付いて来る様子だった。気が付くと開け放された縁側に背広を着た初老の紳士が腰掛けている。軒を流れる雨垂れが滝の様にごうごうと音を立てている。婆様は紳士に気が付かないのか、相変わらず老眼鏡の奥で目をちいさくしながら編み物を続けている。受話器の向こうでは女が頻りに塀の上にあるささくれ立った様なものに巻き取られるけれど自分ではどうする事も出来ないと云った風な話をしている。湿気が上がって来たのか、身体中が蒸されて行く様な心地がした。

「少しお待ち下さい」と云って私は受話器を置いた。一時に物事が重なると困る。紳士の方へ向かうと、

「何かご用がお有りですか」

 紳士は私を見て愛想を作った。

「こうも突然降られると困るねえ。お孫さんかい? 暫く見ない内に大きくなったもんだ。ねえ、お婆ちゃん。聞こえる? お婆ちゃん」

 モップ売りの営業だったらしく、紳士は婆様と世間話を交わしてさっさと居なくなった。

 再び受話器に耳を当てたが、既に通話は切れていた。

 搾りかすの様な水滴が時折空から落っこちて来て鼻頭に触った。私は自転車を漕いでいるのだが、油を差したにしてはペダルが重たいし、ぎいぎいと云った音もする。先程の電話の主には心当たりがあった。折角なので訪ねて見ようかと云った気になっていた。

 泥濘んだ農道を出て、アスファルトの継ぎ接ぎになった様な細い道に入った。道は狭いが周りは開けており何もない。お日様の光が煙った雲を透かして仄白い脚を伸ばしているが、高い所で薄まってここまで降りて来ないと見える。空気は段々冷たくなり出しているが、どうにも水っぽくていけない。身体中に纏わり付くのが気持ち悪い。

 古い公衆電話の前を通り掛かった所でベルが鳴り出した。私は自転車を降り、受話器を耳に当てた。

「何遍もご免なさいね。だってあなたにはどうしても伝えて置かなくちゃいけないでしょう。云わなければ解らないんだから、云って置かなくちゃ仕様がないわ。それでね、大きな杉の木の下に、建具屋のおじさんがひとりで暮らしていたでしょう。あの人が布団の中で死んだ時、誰も気が付かなくって、ずっとひとりきりであすこに居たのよ。私はそれを毎日見に行っていたのだけれど。あら。何もしちゃいやしないわ。だって死んでからもひとりじゃない。可哀想でしょう。でもどこかへ報せなんてしやしないわ。そんな事しておじさんのひとりを哀れにしたくなかったから。で、朝の早くからおじさんの所へ行って、表には鍵が掛かっているからね、ちいさい明り取りから覗いているのよ。おじさんたら、はじめは身体の水が抜けて干からびて行くのだけれど、次の日も、その次の日も覗きに行く内に今度はお肌に艶が戻って来るのよ。吃驚したわ。本当は生きていて、私の気を惹く為にこんな事しているんじゃないか知ら、て思ったわ。でもやっぱり死んでいるみたいだった。死んでいるなりに、何だかおじさん、少しずつ若返って行くのよ。最後に見た時はもう私よりも若くって、きれいな男の子になっていたわ。若い頃は格好良かったのね。あなたに少し似ていたわ。けれど、このままどんどん若くなってしまったら、その内に赤ちゃんになって、赤ちゃんよりもしいさいものになって、仕舞いには消えてなくなってしまうでしょう。私はそれが凄く悲しかったから、もう見に行くのを止めたわ。あなたも一遍見に行ってご覧なさいよ。おじさんの何かが未だ布団の中に残っていれば、きっと気に入ると思うわ。おじさんの事、未だ誰も気が付かないのよ。信じられる? 馬鹿じゃないか知ら」

 建具屋のおじさんには一昨日の夕方に出会った様な覚えがあるが、私には女の事も自分の事も、同じぐらいに信じられなくなっていた。

 そうして色々の辻褄を考え詰める内に気が付くと通話は途切れていた。私は何を見るともなしに受話器を耳に当てたまま、いつまでも電話器の据えられている辺りを見詰めていた。

 目を覚ますと窓から何か入って来るのが見えた。月明かりが射すので陰になってよく見えないが、私の足許に来てごそごそやっている。どうやら人間であるらしく、私が目を覚ましている事に気が付いた様だった。

「俺だよ。クニトモだよ。そのまま横になっていると良い」

 クニトモならば心配には及ばないと思ったから、それきり目を閉じて眠りに就いた。

 目を覚ますと昨晩の事を思い出して非常に嬉しい気持ちになった。実在を疑われた友人が私の許へ訪ねて来てくれた。それでもういっぱいになって、朝から布団に顔を埋めて泣いた。

 表へ出て水を撒いていると、向こうからおそろしいものが歩いて来た。お日様の眩い光が、澄み渡る真青な朝の空から降りて来る細い風の筋を暖め、また木々の梢を透かして濃い影を作る。起き出して来た鳥や虫、ご近所様のいきれが微かに空気を伝って来る。私は柄杓を握ったまま濡れた地面を見詰め、みじろぎひとつ取れないでいる。

 おそろしいものは私の前まで来るとお早うと云った。お早うございますと返したつもりだったが、口の奥に聞こえるばかりで相手には届いていないだろう。

「どうかしたかね。顔色が随分悪い様だが」

 地面を見詰めているから、おそろしいものの足許が見える。丁度先程撒いた水で濡れて黒くなっている所に起っているのだが、その辺りが段々と柔らかくなって行くらしく、おそろしいものの靴が少しずつ地面に沈み出した。

「さては、悪い夢でも見たのだろう」

 おそろしいものはゆっくりと喋った。こうしている間にどっぷりと沈み込んでしまえば良いと思ったけれど、そうすると自分は下を向いているから、このままでは沈んで行くおそろしいものの顔ををまともに見てしまうのではないか。

「困った物だね。未だ慣れて貰えないらしい」

 とうとうおそろしいものの胸の辺りが見え出した。

「出会った頃からではないかね。コウちゃん。私はいつだって君の事を案じている。どうもこわがりでいけない。男の子なのだから、しっかりしないと。……。いや、違うな。こんなに気持ちの良い朝なのだから。……。これも違う」

 不意に脇の下に手が差し込まれた。そうしておそろしいものは私を軽々と抱え上げた。既におそろしいものの身体は殆どが沈んでおり、私を抱えた両腕と首から上を残すのみだった。向かい合う格好となってしまったので、今はおそろしいものの顔がよく見える。おそろしいものは笑っているらしかった。おそろしいものには目があり、鼻があり、耳があり、口もあった。

 目を覚ますと正午のサイレンが微かに聞こえた。仰向けに転がったまま天井を眺めていると、

「とん、とん。しん、しん。ばく、ばく。びょう、びょう」

 子供の声だった。私の見る先から聞こえた様に思う。

「嫌だよ」と応えた所、天井からがたがたと云った音がした。

「どうして? ともだちじゃないの?」

「友達、たって、良い感じの距離感がなければ駄目だよ。そうでないと付き合えない。べったりはご免だよ」

「そっか。ならもう、あえないかもね」

「そっちが妥協してくれる事はないのかい?」

「またあえたらいいね」

「そうだね」

「またあいたいね」

「うん」

「ばいばい」

「ばいばい」

 それきり天井から声がする事はなかった。

 目を覚ますともう辺りは暮れ掛けていた。茶の間へ行くと婆様が洗濯物を畳んでおり、何しよったと云うから寝よったと応えた。

 時の経つに連れて段々と薄まり消え掛かっている、空想や思い出と絡まってあやふやになった人達について、じっと考えて見るけれど、どれも遠くへ滲んで覚束ない。日に何遍も目を覚ますのが不思議なのではない。現されているのは私の方であって、彼らはそう云った一切を承知しての事であろうから、こちらもその心積もりで居れば済む話ではないか。

 晩になったが眠れないので外を歩いている。自分の足が砂を踏む音がよく響いた。空の一等暗い所へ散らかった星々の瞬きが、昨晩よりも硬くなっている様に思われた。

 庭に出て飛び石を拭いていた所玄関の方から声がした。出て行って見ると黒い背広を着て大きな鞄を提げた男が突起っている。

「呼ばれてお伺いしたのですが」と云って名刺を出すので見ると調律師との肩書があった。

 二階の遊んでいる部屋に二本ペダルの古い縦型ピアノがあったのを思い出したので、その部屋へ通すと男は慣れた手付きでピアノのがわを外し出した。顕になった中身が、何か恐ろしく静かな生き物の筋骨の様に思われた。

 炊事場の土間へ降りて麦茶を注いでいると、二階からぽんぽんと云った音がする。鍵盤を叩いているのだろうと思う。何となく耳に聞かせる内に音は段々と間延びして行き、境目がなくなって行くのが解る。

 音が止んだので茶を持って上がると、調律師はばらばらになった鍵盤のひとつを手に取って眺めながら煙草を吹かしている。

「どこか悪い所がありますか」と訊いて見た所、

「ここの所に何か書いてありますな」

 渡されたので見ると、鍵盤の腹の辺りに下手くそな字で私の名前が記してあった。

「僕の名前ですね」

「弾かれるのですか」

「いえ全く。触った事もないですね」

「では、このピアノはどなたが」

 考えて見たけれど、私や婆様は勿論、死んだ両親が触る所も見た事がない。ピアノがこの部屋にある事は知っていたけれど、何の為に置いてあるのかは知らない。しかし私が物心付いた頃には既にあった様に思う。

「この字は女の子の字ですな」と云って調律師は私を見た。

「どうして解るんです」

「絵を描くように字を書くのですよ。ちいさい女の子はね」

「さてはロリコンですか」

「職業柄、ちいさいお子さんからお手紙を頂く機会が多いものですから」

 この様な紳士に女の子は憧れるのか知らと考えていると、調律師はピアノの奥へ腕を突込んで何か細々とした作業に取り掛かった。

 

 茶の間で洗濯物を畳んでいた所、二階からピアノを弾く音が微かに流れて来た。曲名は知らないが、恐らくブラームスだろう。上がって見ると調律師がピアノに向かっている。静かな手付きでゆっくりと弾くので、暫くの間聴いていた。そうする内にやがて私に気が付いたらしく、

「おや、おや。この通り、無事に終わりましたよ」

「止めてくれなくても良いのに」

「いえ。いえ」と云って、

「随分永い事そのままだった様ですから、調律のし甲斐がありましたよ」

「誰があなたを呼んだんだろう。婆様かな」

 調律師は穏やかに笑うと、

「このピアノには今も弾き手が居られる様ですから、大切にされて下さい。美しくご成長なさっておられる様ですから」

「家には僕と婆様しか居ないんですよ。婆様は弾かないですし、美しくもないですし」

「ええ。ええ」

 調律師が帰ってから、私はきれいになったピアノの許へやって来た。椅子を引いて蓋を開けると、鍵盤の上にフェルトの赤いカバーが掛かっている。それを取って、音を立てないようにそっと鍵盤に触れた。

 横から細い手が伸びて来て、ゆっくりと指を運び出した。私を導く様な素振りを見せたので、打鍵の心得なぞまるでないが、滑らかに進む指の後を私は人差し指で辿々しくなぞった。部屋に先程調律師の弾いていた曲が響き出した。大まかに形を囲う様に、辛うじてその曲である事が感ぜられる程度のものだったが、段々楽しくなって来たから夢中になって弾いた。そうして曲の仕舞いまで弾き終えると、不意に手が引込んでそれきりになった。

 生まれなかった姉について婆様から聞かされたのは、それから暫く経った後の事だった。

五の一

 勤めに出ていた頃の知人がこの草臥れた田舎までわざわざお出で下さっていると云う。折角だから会わないかとの連絡が入ったから、行きたくなぞないけれど行く事にする。

 土間の上框に腰掛けて靴紐を結んでいると、座敷の奥に坐った婆様がこちらを向いてじっとしている。どしたんと声を掛けたが、返事はない。坐ったまま眠っているのか知らと思ったが、どうやらその様な風でもないらしい。

 表へ出ると、遠くの山々の尾根に残った西日の色がおかしな程白々としている。辺りは暮れ掛けているが、もしかすると山の向こうは未だお午間なのかも知れない。そうして往来を歩き出したが、青紫の様な色をした山の影がここいら一帯までかぶさっているから、足許がどうにもふわふわとして頼りない。もうひとつ、余り気を付けて見ない様にしているけれど、道脇の藪の中から犬程の大きさをした黒い影が往来へ出たり入ったりしている。

 知人は腓浅く広い川に架かった橋を越えた先にある蕎麦屋に入っていると云う。その蕎麦屋は私も知っているが、あそこは確か朝の早くからお午までしかやっていなかった様に思う。暗い店先で途方に暮れる知人の姿を想像すると、少しだけ面白くなった。

 辻へ差し掛かると、道を少しばかり外れた所の草むらに人が起っているらしかった。何となく会釈をして通り過ぎようとした所、

「こんな時間にどこへ行くの」

 いつか聞いた事のある様な声だった。

「きっと立ち行かない事になるわよ。引返した方が良いんじゃないか知ら」

「知り合いに会って来るだけだよ」

「そんな事をするくらいなら、私とお喋りをした方がずっと良いわ。ずっと良い」

 女は細い木の枝でそこいらに生している茅草の先をひらひらと払う様な仕草をしている。私は女とお喋りなぞしたくはなかったから、

「こないだ会ったよ。建具屋のおじさん。元気そうだった」

「そう。生き直しているのね。素敵だわ。海月みたいで」

「それだと辻褄が合わないんじゃないかな」

「あら」と吃驚した様な声を出して、

「辻褄だなんて、あなたの口からそんな科白が出て来るのね。ふふ。おっかし」

「ちょっと解らないな」

「解っている癖に」

「もう行くよ」

「そう。行ってらっしゃい」

 家も疎らな筋を通り抜けると川の流れる音がし出した。向こうに橋が見えており、その更に向こうに蕎麦屋の影が立っている。やっぱり明かりはない。

 橋の上に差し掛かる頃にはすっかり辺りが暮れてしまった。遠く空に残る西日の脚がゆっくりと引いて行くのを眺めている。不意に足許から何か呼ぶ様な声がしたので、欄干に手を掛けて下を覗き込んで見ると、川の真中に起ってこちらへ手を振る人影があった。

「おうい。フルヤ君。久し振りじゃないか」

 と大声で云うので、

「蕎麦屋、閉まってたでしょう」

「そうなんだよ。いやはや参ってしまってねえ。腹が減っていけないから、こうして魚を獲っている次第さ」

「魚なんて獲ってどうするんですか」

「止してくれよ。焼いて食うに決まっているじゃないか」

「幾ら田舎だからって、大の大人がそんな事やってたら通報されますよ」

「何をおかしな事を。これ、魚を獲ったら、あそこの小屋で焼いて食わしてくれる、て話じゃないか。知らないのかい」

 指差す方を見ると、川縁にちいさい小屋がある。

「ちょっと降りますんで、待ってて下さいよ」と云って私は川まで降りて行った。彼は相変わらず川の真中で両腕を水底に向かって突込んでいる。

「見たまえよ。流石に活きの良いやつばっかりだ。ちっとも捕まりゃしないが、今に見てろよ。全く、童心に還った気分さ。こんなに楽しい気持ちになった事なんざ、ここの所なかったなあ。はは。こいつめ。そら。あはは。……」

 暫くそうやって愉快にしていたが、やがて脚が縺れたらしく川に尻餅をつくと、そのままじたばたと転がり出した。その声は笑いとも叫びともつかないが、どちらにせよ非常に楽しそうにしているので放って置く事にする。

 私は小屋まで行って引戸を開けて見た。床一面に梔子の花が咲いていた。むせ返る様なにおいをまともに受けたので、俄に胸焼けのする様な気持ちになった。

 知人の許へ戻ると真面目な顔をして川の中に突起っている。

「あの小屋。誰も居ませんでしたが」

「そうか」と気の抜けた様な声で云うと、

「あの四つ足も?」

「四つ足?」

 頭からずぶ濡れで、顎の先からぽつぽつと水が滴っている。

「ここは長閑で、良い所だな」

「何にもないだけですよ」

「今日は帰るわ」

「そうですか」

「またこっちに出て来る事があったら連絡くれよ。飲みにでも行こうや」

「そうですね」

 そうして彼は町へ帰って行った。どうやって帰るのかは知らないが、私の家へ招くのも嫌だから黙って見送った。

五の二

 家は真暗だった。勝手口から土間へ入り、上り框の所まで来て明かりを点けると、私が出て行く前と変わらない様子で婆様がじっと坐っている。置物の様にぴくりとも動かない。何しよんと声を掛けるが返事はない。それきり二度と返事が返って来る事はなかった。

 齢を考えるとそろそろかと云った所ではあったけれど、あれだけそこいらを動き回っていた事を思い返すと些か不思議に思われた。もしかすると、とっくの昔にそうなっていたのを、誰にも気が付かれないまま当人も気が付いていなかったと云う事が、或いはあったのかも知れない。婆様のふとした隙を私が突いてしまったと云うのなら、幾らか申し訳ない気持ちになって来る。

 荼毘に付した後、どこからか親類が沢山やって来て、家にある先祖伝来のがらくたや怪しげな品々を皆持って行った。なくなって困るものなぞなかったので、やりたいようにさせて置くことにした。

「ピアノは」

 私は玄関の壁に凭れて、最後に家を出て行く所だった遠い親類であろう年増女に声を掛けた。

「あのピアノも持って行って良いんですよ。二階にあったでしょう」

 振り返った年増女は何か汚いものを見る様な目で私の顔を見たが、不意に視線を外し、今度はどうやら私の更に奥の方を見ているらしい。見る見る怯えた様な顔になって行くのが解る。

「あら嫌だ。コウちゃん。仕様がない事なのよ。怒っちゃ駄目よ」

「怒ってないですよ。誰も」と応えるなり、

「ひっ」と云って足早に車へ乗り込んで帰って行った。

 晩になったので縁側へ出て煙草を飲んでいると、いきなり秋の虫が鳴り出した。本当はもっと早くから鳴っていたのかも知れないけれど、気が付かなければ居ないのと同じである。しかしそれは向こうさんにも同じ事が云える。

 婆様は生前、嫌で堪らないから夜の生垣は見ないようにしていると云った。わざわざ夜に生垣を見る事なぞあるものかと思ったものだったが、こうして縁側を開け広げていると庭の向こうに生垣がよく見える。背の低い生垣なので、表を何か嫌なものが通るのが見えるのか知らとぼんやりと眺める内に、月の冷たい明かりと辺りを流れる雲の塩梅で、生垣の影が変な風に捻くれ出した。そうして魚と獣の一緒くたになった様な形となると、風に吹かれてそれはゆっくりと身じろぎをした。

 四十九日を迎えるまでの間に色々の来客があった。

 皆々婆様を訪ねて来たもので、友達が多いと云ったのは本当だったと思うと嬉しかった。その人なりの文化を持つ紳士淑女ばかりで、弔いの作法もそれぞれだったが、故人を偲ぶ気持ちからそうしてくれていると云う事は勿論承知しているから案ずるには当たらない。中には困った事があれば頼って来て欲しいとの申し出を頂戴する事もあった。連絡先として伝えられたものの中には有名な神社や聞いたことのない地名もあったが、そうした親切が私には非常に有難かった。

 暫くの間はそうやって忙しくしていたが、落ち着いて見ると知らない内にまた夏が来ていた。この頃はどの季節が好きと云った気持ちもないけれど、そうかと云って年中同じ季節と云うのもやっぱり味気ない。春はあけぼの、夏はよると云った風情を楽しむ様な教養もないが、夏に思い出す冬や秋に思い出す春は懐かしい。私はどうやらその様な懐かしさを好むらしい。

 半年に一度の周期で調律師がピアノを見に来る。顔を合わせる度に上達している私を見て大層驚いてくれるが、楽曲をひとつ満足に弾く事の出来る様になるのだこれ程難しいとは思わなかった。折角だから解らない所を訊いて見るけれど、あなたの先生に怒られてしまいますからと云って笑うばかりだった。私の先生にも解らない所が出て来てしまったらどうすれば良いのだろうかと、今から少し不安な気持ちで居る。

 調律師の外にも訪ねて来る者がいる。以前電話を寄越して来た女で、玄関から真当に入って来る事もあれば、私が畑から帰って来ると茶の間であやとりをしている事もある。言葉を交わす事は余りないが、女は自分のものを少しずつ持ち込んでいるらしく、その内この家に住み着くつもりなのだろう。好きな様にするが良い。

 身の回りが段々と薄らいで行って、透明な煙の様に立ち昇って行く夢をよく見る様になった。何かを暗示しているのか、解らないが、私はその夢を見るのが楽しみだった。あの遠くに見える逃水の中に自分が居るのではないかと思われて来るからだった。

 家に残った数少ない婆様のものを片付けていると、桐の箱の中から鼈甲のかんざしが出て来た。電灯の明かりに透かして眺めると、かんざしの表に何か動くものがある。模様か知らと考えるけれど、模様が動く事はないだろうと思い直した。暫く見ていると、鼈甲の暗い黄色を沢山の細い帯が流れて行ったり、丸や点が膨らんだり縮んだりして騒がしい。そうして色々の形は大騒ぎしながら段々とどこかへ消えて行き、最後に残った帯の尻尾がかんざしの端に流れて行った後で、嘗てこれを挿していた人の景色なのかも知れないと思った。

「それなあに」と女が云うので、

「見てみ」と応えて渡した。

 女は私がした様に電灯に透かしたかんざしを見詰めると、両目を大きく見開いてから、ぱちぱちと瞬きをした。

 電車に揺れる内に眠ってしまったらしい。目を覚ますと真白の大きな布を頭からかぶった子供が私の前に起っている。首を縛っていないてるてる坊主を見る様だった。車両には私共の外に人影はない。向こうの窓を眺めると、開けた海がきらきらと光っている。しかしこちらの窓は真暗で、半分隧道に入っているのか、或いは崖の下を走っているのだろうかと思う。

 子供は私の方をまともに向いている。布が透けて向こうからは私が見えているのだろうかと考えていると、不意に布を掬う様にして子供の手が出て来た。そうして私の顔の前に掌を差し出した。見ると黄色い飴玉が乗っている。貰って口に入れた所濃い桃の味がした。

 そうして飴玉を転がしていると子供が私の隣に腰掛けたので、二人して向こうの窓に映る海を眺めている。何だかふにゃふにゃとした塩梅の波の上に、三艘程のちいさい船が引掛かる様にして浮かんでいる。時折真黒の細い柱が音もなく窓の端から端まで辷って行くので、それで電車が走っている事が解る。

 隣の車両へ渡る扉が開くと、熊の様な大きな男が身を屈めながら入って来た。男は私に気が付いたらしくお辞儀をすると、

「奇遇ですな。こんな所で」

 見た事のない男だったので、

「済みません。どこかでお会いしましたか」

 男はゆっくりとした足取りで私の許までやって来ると、空いている方の隣へ腰掛けた。

「何でもない退屈な旅でしたが」

「旅をなさっていたのですか」

「左様」と云って深く頷いた。

「かっぱ道場からここまで」

 どこだか解らないし、そもそも私はこの男を知らないけれど、丁度話し相手が欲しい気持ちだったから海を眺めながら相槌を打った。

「今頃夜通しの宴会でしょうな」

 はてと思ったので、

「随分離れた所なのでしょうか」

「白夜と云った事もある。その反対だって勿論」

「そうすると、戻るのが楽しみでしょうね」

 男は笑うと。

「居残っているのは私の弟子達ですからな。弟子とは云っても、見込み違いかも知れんが」

「何をお教えなさっておられるのですか」

「何、ほんのひとくさりですよ」

「成る程」と相槌は打つけれど、幾ら考えても何の事やらさっぱり解らない。

 急に子供が席を立った。そうして向こうの窓の所まで行くと、枠に手を掛けて勢い良く開け放った。潮のにおいのする風が吹き込んで来て、子供のかぶった布を強くはためかせた。

「止さんか」と云うなり男も起ち上がった。額に玉の様な汗を浮かしている。

 男は子供を捕らえようとするらしく、手を伸ばすけれど、そうする度にひらひらと躱されてしまう。しかし身体が大きいので、やがて車両の隅まで子供を追い込むと、

「この餓鬼」と云ってにじり寄った。

 子供は今度は真暗な方の窓を開けた。そして窓を潜って真暗の中へ飛び出した。

「逃がすか」

 男も窓枠に手足を掛けると、大きな身体を窓に辷り込ませるなり直ぐに見えなくなった。

 私も後を追う事が出来るのか知らと思い、自分の真後ろにある真暗の窓を開けて顔を出して見ると、やっぱり真暗だったが非常に広いらしく、遥か眼下にどこかの町の明かりが点々と散らかっているのが見えた。(了)