水面

水面

 梅雨のしとしとが一週間も続いたが、漸く上がったので近くの洋食飯屋へオムライスでも食べに行こうかと云った気になった。

 お午過ぎに家を出ると一帯がまるで鏡の様だった。道や何やらに水が張っているらしく、晴れ晴れと澄み渡る空の色、そこから射す明かり、往来の家並みや木々の姿を曖昧に映しながら眩しい程に輝いていた。あれだけ降ったのだから仕様がないと思うけれど、今から家に戻って長靴を出して来るのも億劫であるから、取り敢えずそのまま出て行く事にした。

 水面から縁石が突き出ている所をふらふらしながら歩いている。家々の軒先や商店の看板が水明りに揺れるのを見て、港町にいる様な気持ちになった。犬や猫がそこいらをぱしゃぱしゃと云った音を立てながら闊歩している。随分偉そうな顔をしているので、鬼の居ぬ間にと云った風情だが、よく見ると亀や水鳥なんかもいる。もう自分の見知った場所ではなくなってしまったと思うと、段々面白くなって来た。下水や何かの不備でこうなったのだろうけれども、この儘直してくれなくても良いのにと思う。坂を上がって遠くを見渡すと、やっぱり地面は大きな鏡になっている様で、山や建物が逆様に映って自分が宙に浮かんでいる様に思われた。

 洋食飯屋に到着し、やれやれと思いながら入り口へ向かったのだが、扉の前に鰐が四匹もいる。大きいのと、中くらいのと、小さいのと、小さいのであった。大きいのは犬程もある。皆々お行儀良く顎を水に浸けており、身じろぎ一つしない。周りの人は気に留めていない様だったから、自分も習って鰐を跨いで店に入った。

「ああ云う趣向にして見ましたの」と云って、馴染みの給仕は微笑んだ。「誰かに噛み付きでもしたら不味くないかい」と返した所、

「まあ」と目を丸くしたと思うと、「良い物をやっておりますから、今更生の物になんて見向きもしませんわ」

「餌付けしてるのかい」

「ここのメニューと同じものを」

「げ。俺よりエンゲル係数高いんじゃない」

 給仕は口許を銀の盆で隠して笑った。

「朝の早くですと、まるで人が喋るような声で鳴きますのよ」

「何を喋ってるんだい」

「近頃は、聖書のお言葉を少しずつ憶えている様ですわ」

 勘定を済まして外へ出ると、鰐共は来た時と変わらない様子で静まっている。どうにかして声を聞きたくなったものだから、大きいのに近付いて顔を覗き込んで見るけれど、こちらを見るともなくぼんやりとしている。

 鼻頭を弾いてやろうと手を差し出した途端、いきなり大口を開けたので吃驚して飛び退いた。自分の手を擦りながら鰐の方を見ると、開いた口をゆっくりと閉じながらぱちぱちと瞬きをした。どうやらあくびをしたらしかった。(了)