ラウレッタ

ラウレッタ

 午后の空は冷たい。縁には雪雲をかぶっている。山の向こうではもう降り出しているだろうと思う。私はおおかみの毛皮を着て、右手に木苺を摘み、左手に双眼鏡を持って覗いている。

 もう四日目になる。目先には山があるけれども、低い山で、森の続きものの様な塩梅だから、木々に隠されて遠目からはその様にしか見えないが、本当はあの辺りにちいさい広場がある。広場の真中には石で出来た蓮と、やっぱり石で出来たてんとう虫がひとつずつ並び、どちらも人の倍もある程大きい。私はそれを見ている。

 女が来て石の前に坐った。田舎風の着物を着た白い女だった。私がここで見ている分には毎日同じ時刻になると現れる。石に何か花や食物の包みを供え、そうして暫く俯いている。祈りの手引は知らないが、そう云った類のものだと云う事は解った。

 女は起ち上がった。顔は見えない。やがて降って来る雪の先触れを直に見る様だった。高い所を飛ぶ猛禽が薄っすらとした影を地面に落とす。不意に風がそっと吹いてそこいらの草葉を鳴らす。雪雲は空の隅っこで烟りお日様の脚を散らす。

 生まれは北国の田舎だが、若い時分にはよく父親に連れられて方々へ商いに出ていた。ひげ根を洗って乾かしたものや、竹を編んで作った籠、根菜の干物と云った風なものを売って歩いた。何に使うものか自分でも想像の及ばないままに、色々の山の品は街の人々によく売れた。そうして満足の行く売上のあった日には決まって、父親は私を場末の酒場や古びた劇場、見世物小屋の様な所へ連れて行ってくれた。一遍だけ観たサーカスの様子なぞ今でも鮮明に思い出される。道化の笑いに見えた金歯や、踊り子のくせ毛を飾る汗、その小さな滴にきらめく松明の色まで、ありありと。

 漂泊の明け暮れを幾度も重ねた頃、砂漠の風が吹く街でその女と出会った。夜の酒場だった。荒くれ者の多い土地で、酒が入るともう大変な有様だった。あっちこっちで口や腕や脚を使った喧嘩が起こり、時には頭や酒瓶まで使い出すものだから仕様がない。しかし私はそう云った風情を眺めながら一献傾けるのが好きだった。

 父親が知らない男の髪の毛を掴んで怒鳴り散らすのを可笑しく思いながら、壁際のテーブルに就いてひとりで静かにしていた。酒は旨いが、飲み過ぎると直ぐに眠たくなってしまうので、ぬるい麦酒を少しずつ頂いている。

「まあまあ。あんな事して憲兵にしょっ引かれないか知ら」

 甘い香のにおいと一緒になって同じ卓に腰かけた。この土地にしては珍しく鼻筋の低い、しかし決して醜くはない顔の微笑みに非常な美しさを覚えたのは、薄暗い酒場にあって鮮やかな紅の色が浮かび上がっていたからだろうか。

「見るのが好きなんだ」

「変なの。でも、あなたはきっとそうだと思ってた。珍しい瞳の色ね。どこから来たの?」

 どこかぼんやりとした気持ちで、私は女と言葉を交わした。女の名はラウレッタと云った。葡萄のよく採れる所から流れて来た事、娼婦をやっている事、お手玉が得意な事、両親は硝子工だった事、巻き貝星を信仰している事、恋人を戦争に取られてそれきりになっている事、そう云った事を聞いた様に思う。教えて貰うばかりでは申し訳が立たないから、私も自分の身の上について云って聞かせた。ラウレッタは詰まらない私の成り行きを、お伽話でも聞く様に喜んだ。

「あそこで尻から火を吹いてるのが親父だよ」

「やだ、もう」

 人々の混雑や喧騒の隙間を縫って、私共は酒場を後にした。夜は未だ早く、往来を行き交う人波に後先はない。乾いた風が色々の街のにおいを運び、鼻先を掠めてどこかへ去って行く。ずっと向こうには夜空に懸かる月を背景にして高い塔が建っていた。あそこに殿様が暮らしていると云う。大層若く、大きなけものを何匹も連れているらしい。

「折角だから、案内してあげるわよ」

 ラウレッタに手を引かれ、私は大通りや入り組んだ路地を行ったり来たりした。月や街の明かりが一緒になってそこいらの景色を浮かすから、まるで芝居か何かの舞台に立っている様だった。

 鷹の舌/銀の飴/更紗を羽織って

 日除け傘/ぼんぼり/旗の屋根

 酒と夜、異国の街やあまい風が夢とうつつとを混ぜこぜにする中で、私の耳に今も残る歌だった。ラウレッタの声はあの街の記憶を象徴していた。立ち並ぶ家々の高い所で窓から窓へ渡された紐にはためく色々の布切れを潜り、露天商が売り物の金のナイフで髭を剃るのを横目に歩き、身体に蛇を巻いた女が噴水の縁に坐って笛を吹くのを眺めた。

 やがて夜が更け、街に静けさが沈み出した頃合いに、私共は木の長椅子に二人して腰かけていた。星明かりは広く、雲の流れるのまではっきりと解る。

「戻らなくていいの?」

 暗い森に浮かぶわたぼうしの様な優しい声だった。

「お父さん、心配してるんじゃないか知ら」

 私はラウレッタをまともに見た。もうすっかり酒は抜けていた。

「大丈夫だよ。今頃宿に帰って寝てるか、酒場の床に転がって、やっぱり寝てる」

「そう」と云って少しばかり笑うと、

「これからどうするの?」

「どうしようかな」

「日がある内は全然違う所よ。あそこの通りに緑の暖簾がかかってるでしょう。歯が欠けるぐらい硬いけれど、美味しいパンを焼いてるの」

「有難う。明日行って見ようかな。今夜は楽しかった。未だ眠る気にもなれないし、何ならもう少し、ひとりでそこら辺をぶらぶらして見るよ」

「あら。よかったら、お客になってく?」

 何でもない風に云うので、

「いや、……。止しとこう」

「そう」

「ともだちでいたい」

 ラウレッタは吃驚した様な顔をした。そうして照れ臭そうにしながら懐から巻き煙草を出すと、燐寸を擦って火を点けた。焔の色が立つのを見て、初めて自分が夜の闇の中にいる事に気が付いた。

「ともだちですって。変な人。変な人ね、あなた」

「そんなに変かな」

「変よ。とっても変」

 不意に手を握られた。細い指の中から硬い感触が転がった。

「これあげる」

「何だい」

 透明な石で出来た、小さな蓮とてんとう虫だった。

「あたしの心臓と魂よ。あなたにあげる」

「そんな大事なものを人に渡しちゃいけない」

 ラウレッタの顔が近付き、

「いいのよ。あなた変な人だから。いいの」

 そう云ったきり起ち上がると、

「じゃあね」

 往来をゆっくりと歩いて行く姿を、私は見えなくなるまで見詰めていた。

 明くる朝、表が騒がしいので出て行くと、ちいさい家の前に人集りが出来ている。何事かと思い行って訊いて見た所、ひとり暮らしの娼婦が客に腹を割かれて殺されたと云う。

 鼻先に雪が触れた。間もなく永い冬が来る。一帯は深い雪に閉ざされ、人の往来もままならなくなるだろう。私は鹿の革で作った小さな袋を取り出した。中には心臓と魂が入っている。あの石像が何なのか、何故手許にあるものと同じ形をしているのか、世話をする女は誰なのか、何も解らない。しかし自分の古い記憶に関連があるにしろ、ないにしろ、その様な事はどうでもいい。

 今直ぐ駈け出してあそこへ向かいたい気持ちと、ここでいつまでも見詰めていたい気持ちとが一緒になって私の身体を硬くする。何遍も見直した筈だったが、行った先に何もなかったらどうする。蜃気楼の様に、近付く程に離れて行くものだとすれば、気が付かない内に偶然ここまでやって来る事が出来たに過ぎない。そう云った事をくよくよと考え詰めている。私の上に段々と雪がかぶさり、やがて埋もれてしまっても、双眼鏡の先には相変わらず同じ光景が見えるのではないか。

 不意に女がこちらへ振り返った。見られたと思った途端に私は自分の居所が解らなくなった。低い鼻筋。薄く微笑む紅の色。……(了)