はじかみの子

はじかみの子

 過去にも幾度か、自分の許を訪ねて来る者はあった。何も山奥で隠居なぞやっている訳ではないから、そのつもりになれば容易い事ではあるけれども、随分遠い所から遥々やって来た挙句に、電話で済む様な話をしたきりで帰って行く者を見ると、何だか申し訳の立たない気持ちになって来る。直に会いに来てくれるのは有難いが、向こうには用事も何もないらしく、こちらとしてもやっぱり相手に用事はない。仕様がないのでそこいらの名所や産物を紹介してやると、当たり前に喜んだり珍しがったりする。古風な物云いかも知れないけれど、うつつに出会う、出会わないに関わらず、縁と云ったものは自然の成り行きに任せて結ばれるのであって、人が無理矢理にくっ付けたり離したりするのは止した方がいいと思う。しかし各々の考え方があるだろうから、自分の我儘を折角来てくれた相手に押し付けるのも、これも決していい事ではない。結局、譲歩と云うのも大袈裟ではあるが、向こうの期待する所をこちらで見当を付けて、交通費の分程は楽しんで頂ける様に努めている。

 春と云うにはもう遅く、そうかと云って夏にもならない、締りのない風が袖口や襟元から入り込み、肌に薄紙を纏う様な心地にさせられる頃、私が昔住んでいた所から人が来た。ふみと云う女で、女だが、ふみの恋人もまた女である事の多い、その様な女だった。新幹線の停まる駅で待ち合わせをして、無事に再会を果たした折にも、私の知るふみと何ら一切変わりのない事が直ぐに解って嬉しかった。男のする様な格好を好み、今もそうした格好でいる。女らしい格好も似合うだろうと思うので、確か一遍そう云った風な意味合いの事を話して見た覚えがある。ふみが外国の女と交際をしていた頃だった。

「女同士でも、男の役とか、そう云うのがあんの」

「どしたの。いきなり」

「男みたいな服ばっか着よるから」

「そう云う役割も、まあ、人によっちゃ、あるっちゃあるけどね」

 元々大きいものを化粧で更に大きくした目がこちらへ向けられた。もう少しばかり控えてくれれば丁度いいのではないかと思う。

「それこそ今のコとか。でもあんたが思ってるのと違うよ。あっちが男で、こっちが女。リードする方が好みなんだって。私はどっちでもいいけど」

「そんなら、そのカッコは何なん、只の趣味なん」

「うん」

「女装はせんのん」

「女装、てあんた」

 平生笑った顔を人に見せないから、その時のふみの顔はよく覚えている。

 駅を出ると、連立って往来をのろのろと歩いた。何もない所だがと云って見た所で謙遜にもならない程何もない。しかし私のこれまでの客は何か知ら見付けて帰る事が出来たらしく、余所の目を通せば何もないなりに何かが浮かび上がって来るのかも知れない。ふみは私の隣でそこいらを見回している。何もないのが珍しいと云った事もあるだろう。彼女もどうやらその口で、「田舎過ぎてテンション上がって来た」とひとりではしゃいでいる。

「新幹線が停まる町とは思えんやろ」

「うん。楽しい」

「楽しんで貰えて何よりだわ」

 あっちへ行って見たいと云うので、潰れかけた商店街へ入って行った。古びたアーケードの屋根を透かして飴色になった日差しが、肉屋の奥に引っ込んでいる老婆や看板を残して空になった本屋にかぶさっている。去年火事で焼けた楽器屋の前を通るともう更地になっており、芝生の敷かれた上に長椅子と灰皿まで用意されている。その一帯だけが可笑しな程真新しいけれど、勿論人影なぞない。私共は長椅子の所まで行って腰かけた。

「ふみちゃん、こんなとこまで何しに来たん」

「別に」

 ふみの顔は日の光をまともに受けて真白になっている。

「会いたい人に会って回ってるだけよ」

「ほうかね」

「あんたにはいないの?」

「会う気になったら会える人には、今はあんまり会いたくないよ」

「私にも会いたくなかった?」

「うん」

「正直でよろしい」

 誰に対するものと云った事はないが、近頃私は四半期毎にある取り決めを拵え、それに従って暮らしている。そうすると面倒事が少なく済むので気に入っている。この度の取り決めは、人の誘いは決して断らない事、及び嘘を決して云わない事、この二本立てだった。云うは易しとは本当で、これらを実際にきちんと守るのは非常に難しい。難しいが、頑張って見ようと思う。

「行こか」

「どこに連れてってくれるの」

「どこがいいかね」

「変なとこ」

「ここより?」

「おんなじぐらいでいいよ」

 ふみは嬉しそうな顔をして自分の足許を眺めている。青々とした真新しい芝生に彼女の赤いブーツが沈んでいる。鼠程の大きさをした牛が二三頭、鼻を鳴らしながら丁度ブーツの先っぽ辺りを掠めてゆっくりと歩いて行く。

 城下町にしては行き止まりの少ない道で、周りはお屋敷ばかりだから高い漆喰の塀がずっと向こうまで続いている。庭を抜けて塀にもたれた様ななりで往来へはみ出した椿が、行く先に点々と花を落としている。大きいのもちいさいのもあった。幼い時分に祖母に連れられて来たきりだが、何の用事があって来たのかはもう忘れてしまった。あの時もこう云った風情を見た様に思う。

「椿三十郎ね」

 きれいな水の流れる道端の水路を、時折椿の花が辷って行った。

「また渋いもん知っとるね」

「父さんが好きで、一緒に観てた。昔」

「どんな人だったの」

 ふみは立ち止まると、身を屈めて水路を覗き込んだ。

「あんたにちょっとだけ似てた」

「ほうかね」

「もう死んじゃった」

「ほうかね」

「この魚は何?」

 指差した辺りを見ると、小さな魚の二三匹が非常な速さで流れの中を行ったり来たりしている。

「ハヤだよ」

「台風の日に渓流釣りに行って、それきりよ。馬鹿な人」

 何でもない風に云うので、

「ファザコンかね」

「うん。今も好きよ。ああ云う所が好きなのよ。父さんらしい死に方。自分勝手な人。大好きだったわ」

「ほうかね」

 水路に架かる橋を渡り、大きな鳥居よりもうんと大きな松の並ぶ神社の通りへ来た。少し入った所にあるまん丸の広い池の傍に立つと、水を透かして底の方まではっきりと見えた。松が高い所にかぶさって日差しを隠すから、辺りは少しばかり暗いけれど、池の水は明るく、縁のいっぱいまで満ちている。

「潮の満ち引きに付いて、水が増えたり減ったりするんよ」

「へえ」

「若い人が見て面白いもんでもないと思うけど」

「あんた同い年じゃない」

「時々海の魚がおるんよ」

「ボラとか?」

 ボラがどこから来たのか私にはさっぱり解らなかったが、魚の事に関しては全くの門外漢なので、仮にここでボラとやらの姿を見た所で判別なぞ付かない。

「ハヤとドンコしか解らん。タガメは魚だっけ」

「虫よ。たぶん」

「昔はキリンもおったんと」

「キリンが入ってたの? この池に」

「首だけ出してたんやない」

「かわいい」

「ラクダやったかも知らん。忘れた」

 松の鳴る音がすると、頭の上から風が降って来た。あぶくの粒が混じった様な触り心地のする風だった。私共は池を後にして境内へ続く小径を歩いた。人が手を入れるまでもなく、好き勝手に時候の草木が行く先を飾っている。鳥居を潜り、吹き抜けの小さな拝殿が見え出したと思うと、風が背中を渡って向こうへ吸い込まれる様に過ぎて行った。

「ここには何があるの」

「とりあえず拝んどき」

「うい」

 平日の午后だから人がいないのにも合点が行くが、仮にお休みの日だった所で尚の事だろう。この静けさが却ってもっと深い所へ沈んで行くのではないか知らと思う。

「拝んだ」

「よろしい」

「ここには何があるの」

「別になんもないよ」

 何でもない風な顔をしているが、その様な顔をしたなりで頬を膨らすふみを目の端に見ている。私が空でここへやって来たのは、ここへやって来たのが初めての事ではないからだろう。後ろの小径も、祖母に手を引かれて通り過ぎた様な覚えがある。キリンだかラクダだか、どちらでもいいけれども、ああ云った話もその折に祖母から聞いたものだろう。当時の私がどうした因縁でここへやって来たのか気にかかる。死んだ祖母に訊いて見る訳にも行かないから、身体の覚えているなりに道筋を辿った次第だが、拝殿を前にした所でそれも途切れてしまった。

 ちいさな拝殿だった。暗いが、洗われた空気の中に取り残されている。古びた影のかぶさる床の奥には格子の戸が閉じていた。伝来のがらくたなぞが仕舞ってあるのだろう。こうして眺めるのははじめての事の様に思う。私はここで拝んだ覚えはない。

「手え貸して」

 ふみの手を取って見た。細い上に冷たいのでびっくりしたが、祖母がそうして私を連れた様に、拝殿の裏手へ回った。落ち葉や苔で足許がふかふかになった。

「どこ行くの」

「わからん」

 背の低い木立が頭の擦れ擦れで鳴った。ひとつの音はちいさい人いきれと変わりはしないが、一帯の森と一緒になるともう波の打ち寄せる様な大騒ぎだった。野良の椿が花を落としている。風に流れて地面を転がった。

「お墓?」

 森に少しばかり入り込んだ所で、苔にまみれた石の丸いのがぽつねんと立っているのを見付けた。随分永い事放ったらかしにされていたらしく、周りの風物の中へ紛れかけている。

「これだわ。これこれ」

「誰のお墓?」

「知らん」

 私は傍へしゃがむと、手を合わせて拝んだ。拝む祖母の背中を思い出していた。真似をして拝もうとする度、祖母は私を制したものだった。理由は解らなかったし、教えて貰う事もなかった。今でも解らない。解らないが、もう祖母はいないので、こちらの思う様に出来る。

「私も拝んだ方がいい?」とふみが云うので、

「駄目だよ」と応えた。

 そうして私共がお墓を背にして帰ろうとし出した折に、よっちゃんは死んだかねと云った声を聞いた。あの子もふらふらっといきなりやって来て、頼みもしないのに人の事を拝んで行くもんだから、変わった子がいるなあと思っていたが。そうする内にちいさいお前さんやちいさいお前さんの親父さんやら、今度はまたえらい別嬪を連れて来たもんだ。

 吃驚して振り返ったがお墓はもうどこにもなく、代わりにちいさい水溜りが出来ていた。薄い水面を見詰めていると、椿の花が上からぽとりと降って波紋を作った。

 うどん屋に入ってお昼を上がった。舌で噛める程の柔らかい麺だった。

「うまいかね」

「ん」

 四人掛けの席に二人が向かい合わせで腰かけている。外には同じ様な席が二つと、窓際に沿って備え付けられたものがあるばかりの、ちいさい店だった。客は私共しかいない。お昼の遅くであるし、余所様の事だが、これでやって行けるのか知らと不安に思う。

 私の方が先に食べ終わったので、窓から射す白い日差しの筋をぼんやりと眺めている。ふみの麺を啜る音に混じって、時折奥でざんぶりと云った水の音が聞こえた。店主の爺様が洗い物か何かをやっているのだろう。

「おほふえごえんえ」

「気にせんどいてええよ」

 本当に気にしていない様子だったが、私の方でも本当に気にして欲しくないので構いはしない。しかしのんびりと行くのはいいが、一体ふみの今後の予定がどうなっているのか解らないから、私の方が何だか落ち着かない気持ちになって来る。

 表の引き戸が開いて、若い奥さんが入って来た。店の奥へ向かって何事か声をかけると、こちらの方へ会釈をして窓際の席へ向かった。

 人の事を云えた身ではないけれども、変な時間にやって来るものだねと思う内に、また表の戸が開いた。今度は山高帽をかぶった紳士だった。やっぱり先程の奥さんと同じ様にして、四人がけの席へひとりで着いた。私は戸の方を見た。奥からざんぶりと云った音が頻りに聞こえて来る。戸が開いた。鼻の長い男だった。その様な塩梅で、幾らも経たない内に店の中はいっぱいになった。

 ふみを見るともう箸を置いてお茶を啜っている。そうして湯飲みを置くなり、「食った食った」とくつろいだ調子で云った。

「これからどうしようか」

「どこ連れてってくれるの」

「ふみちゃんの都合とかあろうよ」

「ん」

「いつ帰るんかね。それによる」

「帰んない」

「え」

 ふみは何でもない風な顔をしている。

「困ったな」

「別に、あんたのトコから離れない、てワケじゃないよ」

 いつの間に運んだのか解らないが、周りのお客は各々箸を取ってうどんを啜り出している。大きな声でお喋りしている訳ではないけれども、私共の声は器と箸のかち合う音や、相変わらず奥から聞こえるざんぶりと云った音、衣擦れや腰掛けの軋みと云った細かい音に暈されて立ち消えになってしまう様に思われた。

「旅にでも出るんかね」

「それもいいかもね」

 戸が開いた。

「色んなものを見といでよ。面白いもんがあったらおせえて」

 大男が入って来た。身なりや立ち居振る舞いの悠然とした事に人柄のよさが窺われるが、猫の頭をしていた。灰色の猫だった。

「また会いに来たらいいの」

 戸を閉めると奥へ向かって手振りをした。黄八丈の袖口から灰色の毛がふさふさになった手頸が覗いた。

「インスタにでも上げといて」

 猫男はこちらを向いて会釈をした。

「まさかあんたの口からそんな言葉が聞けるなんて」

 もう空いた席がないので、猫男はそのまま私共の所までやって来た。どうぞと声をかけると、ふみの隣に腰かけた。身体が大きいので少しばかり席からはみ出している。

「アカウントだけ作って放置しとるんよ」

 時折ぴくぴくと動く細長い髭の下で、ふみの顔は見る見る緩んで行った。私が話の続きをしようとしても上の空で、そうする内にとうとう我慢ならなくなったらしく、

「あ。あの」

 猫男は大きな猫目でふみを見た。

「ご立派ですね」

 感極まったのだろうと云う事は解るが、何が云いたいのかはさっぱり解らなかった。

 薄暮れの夕明りが山を陰にする。私共は後先の解らない開けた道を歩いている。文句ひとつ云わずに付いて来てくれるふみには申し訳が立たないが、私は家に帰ろうとして道に迷ってしまった。その事をいつまでも云えないでいる。

「今日は楽しかった。ありがとね」

「そらよかった」

 気味の悪い程整然とずっと向こうまで並んだ外灯が、明かりを点けずに佇んでいる。道を縞々にした影を通り過ぎるに連れて、何かおそろしく大きな生きもののあばらを潜る様な心地がし出した。

「楽しかった。本当よ」

「嘘でもええよ。俺に出来る精一杯をやった。悔いはない」

「何それ」

 ふみの笑う声がした。それきり二人で黙って歩いた。声が消えるともう何も聞こえない。家の周りは虫や蛙がうるさいから、やっぱりどこかで道を間違えてしまったのだろうと思う。しかしどこで間違ったのか見当が付かない。間違える所なぞあったろうか。

「暇でしょ。話してあげる」

 背中の後ろでふみは云った。

「私が最近まで付き合ってたコ。ミト、て云うんだけど。ヘルス? みたいな、風俗で働いてたコでさ。ちっちゃくてころころしてて、可愛かった。ミトの家に私が転がり込んで、同棲みたいな事してたんだけど、働いてる時間が私と全然合わなかったから、私が起きたらもう仕事に出た後、て感じ。いっつもまんまるのおにぎり作って、部屋のテーブルの上に置いてってくれてた。それがまた可愛いのよね。『あさめし』て書いたメモが一緒にあって、よく解んない、毛むくじゃらで角が生えた生きものが描いてあって、気になって後から訊いて見たら、『ひつじ』だって。変なクスリとかやってたみたいで、辞めた方がいいんじゃない、て云ったんだけどね。いっつも笑ってた。笑って誤魔化してたんだろうけど、私はその顔が好きだったから、何も云えなかったのよ。それで、そんな感じで、だらだら暮らしてたんだけどね。ある日、仕事に出たっきり、ミトは帰って来なくなった。何日も待ってたんだけど、帰って来なかった。心配だから色々当たって見て、でもてんでさっぱりだった。普段から殆ど会う事なんてなかったけど、本当にいなくなっちゃうと、寂しかった」

 私はそこいらに落ちていた棒切れを拾った。そうして道端の草を何の気なしに払った。丁度草に止まっていたらしい虻がくるくると回りながら出て来て、また奥へ引っ込んで行った。

「未だ見付かってないんかね」

「ううん。見付かった」

「そらよかった」

「あんたの次に、会いに行く予定」

「ほうかね」

 空に何かが映った様な気がしたので、その方を見た。雲ひとつない薄暮れが澄み渡っていた。

「ふみちゃんがそうしたいんなら、そうするのがええよ」

「あんたならそう云うと思った」

 ふみは子供の様な声で云った。

「あんたの事。好きよ」

「ありがと」

「男の中じゃ一番好き」

「ほうかね」

 上着の裾を掴まれた。

「襲ってやろうか知ら」

「アオカンは堪忍」

 家と云ったので思い出したが、私共は家まで辿り着けるのかどうかも定かではない。祖母の残した古い家だった。私が引き受けてから随分経つ。日々の暮らしに差し支える所は成る可く修繕する様にはしているが、その内に朽ちてなくなるのだろう。願わくば共にそうありたい。それが供養になるのだろうと思っている。祖母の供養ではない。自分の総身を取り巻く解る事や解らない事を、そっくり受け入れたつもりになっているに過ぎない。

「おや」

 道が途中でいきなり枝分かれしていた。ひとつは今まで歩いてきた道の続きもので、もうひとつは私のよく見知った、草の伸び伸びになった石垣に沿って家まで続く細道だった。

「どしたの」

「こっちに行ったら俺んち」

「お」

「こっちに行ったらどうなるんか解らん」

「ふむ」

「どっちがいい」

 私はふみをまともに見た。小さい子供だった。ふみが見る私も、恐らくちいさい子供なのだろう。はじめて見る顔だが、懐かしい面影を見た様な気にもなって来る。私共は突っ起ったまま、暫く言葉を交わさずにいた。暮れるまでこうしていようかと考えたが、一向日の落ちる様子はない。ここでこうしている限りは日の落ちる事はないのではないか。それで片付く訳ではないけれども、私は外に手立てを持たない。

 内心に色々の馬鹿げた事を思う内に、やがて子供のふみが口を開いた。

「帰らなくちゃ」

 その顔を私は終生忘れない。

 そうして家に着いたのはいいが、人に自分の家を見られるのは何だか恥ずかしい。碌に掃除もしていないものだから、あちこちに埃が溜まっているし、障子も張り替えないまま放ったらかしにしている。土間に水を撒かなければいけないし、風呂の薪を割るのも欠かせない。そう云った事を今更の様にせかせかと行う私を見て、ふみはやっぱり笑っていた。

 いつの間にか晩になって、いつの間にか自分の布団に潜っている。居間にはふみが寝ている筈だが、今日の事が果たしてうつつに起こったものか解らなくなって来る。これから居間に行って見たとして、ふみがいなかったらどうする。そう云った事を考える内に段々と頭が冴えて来た。

 縁側へ出るとふみが坐って庭を見ていた。祖母の浴衣を充てがっていたので、はじめ私には祖母が生き返った挙句若返ったのかと思われて、腰が抜ける程吃驚した。

「今晩は」

「今晩は」

「ちょい小便して来る」

「行ってらー」

 動揺を気取られまいと努めて平静を装い、台所へ行って水を飲んで落ち着いた。そうして再び元の所へ戻ると、ふみは未だ坐ったなりで庭を眺めている。

「面白いもんかね」

「何も見えんよ。暗くて」

「昔は鯉やら飼いよったんやけどね。もうおらん」

「どこ行ったの」

「その辺の沼とかやないの」

「沼って」

「もう俺しかおらんよ。随分永い事」

「ひとりは寂しくないの」

「結構楽しいよ」

「そっか」

 戸を叩く音がした様に思う。耳を澄まして見た所、表の戸を静かに叩く音がする。

「誰やろか」

「お客さん?」

「解らん」

 私は土間まで降りて行って、戸越に声をかけた。向こうから夜分恐れ入りますと云った声が返って来た。

「どちら様でしょうか」

「はい。先日近所へ引っ越して参りました。特牛と申します。中々お目にかかる機会のなかったものでございますから」

 戸を開けると、歳の解らないまん丸の目をした白い男が起っていた。

「ご丁寧にどうも。まあ、入って下さい。こんな所では何ですし」

「いえ、いえ」と云って、

「こちらで結構です。直ぐにお暇致しますので。しかし、あの平さんの元のご主人が、こんなにお若い方だったとは驚きました。やはり嘗てのご奉公先ですから、気になるのも仕方のない事だろうと思うんです」

「平さん?」

「ええ。手前の世話を沢山に焼いて頂いて」

 特牛さんは照れ臭そうにしながら頭を掻いた。

「平さんと云うのがちょっと解りませんが。今後共宜しくお願いします」

「若旦那もお好きだ事。参ったな」

 急に慣れ慣れしい口調になったと思うと、

「そうそう。土産を持って来たんです。奥様とご一緒にお上がり下さい」

 風呂敷包みを差し出されたので、

「いいんですか。済みませんね。しかし僕は未だ独り身ですよ」

「やっぱり。人をからかうのがお好きな様だ。もうあっちこっちで皆噂してますよ。何でもえらい別嬪さんだとか」

「困ったな。それは、その、勘違いと云うか」

 もうさっさと帰ってくれればいいのにと思う。

「まあ。その話は、いずれ」

「そうですな」と云って、特牛さんはへえへえと笑った。

「それでは。失礼致しました」

「お気を付けて」

 姿が闇に紛れるまで見送った後、私はふみの所へ戻った。目を細めて庭のどこかを一心に見詰めているので、

「どしたん」

 ふみは吃驚した様子でこちらを向いた。

「ううん。別に」

「ほうかね」

「誰だったの」

「この辺に越して来たんと。ほれ」

「なあに」

「お土産」

 風呂敷包みを縁側に置いて、結びを解いた。漆塗りの重箱が出て来た。

「おせち?」

「んな阿房な」

 蓋を取って見ると、茶色い小さな木切れがいっぱいに詰まっていた。

「うお」

「かつお節?」

「沈水やね」

 よく解らない人だったが、いいものをくれたので私は特牛さんの事が好きになった。

「燃やしたらええにおいがするんよ」

 燃やさなければ何のにおいもしないけれども、ふみは沈水のひとつを摘み、鼻の所へ近付けてくんくんやっている。(了)