朔日

朔日

第一夜

 風邪を拗らせて咳ばかりしている。自分の狭い家では咳の音が随分響くらしく、自室や茶の間に居ては家の者に迷惑がかかると思い、風呂場に来て閉じ籠っていた。咳をする度にあっちこっちでこだまがしてうるさかったが、うるさいのは自分だけだろうから良いと考えていた所に母親が来て、八釜しいから出て行けと云った。その時分は家の周りも今程拓けておらず、山や森ばかりが鬱蒼とする中にちいさい神社があった。私には外に行く当てがなかった。秋の深まりつつある時候にあったと記憶している。

 大鳥居の下に蹲り、遠くを走る車の微かな音を聴いていた。辺りにはすっかり夜が落ちているけれど、ここに来てからどれ程の時間が経ったのかは解らない。神社の暗がりの中でひとりでごほごほやっている。熱と鼻水が私の頭を暈していた。頬に当たる夜風が心地良かった。

 不意に人気がしたので振り返って見ると、奥の境内の方から知らない女が歩いて来た。鳥居の傍にひとつだけ灯っている外燈がからからと鳴った。女は明かりの下に起ってこちらを見た。

「今晩は。ぼく、こんな所で何やってるの」

 よく通る美しい声だった。

「こんな遅い時間に。ひとり? お母さんは? 早く帰らなくちゃ、人さらいに取られてしまうわ」

 私は二三遍咳込んだが、女に返事はせず黙って地面を見詰めていた。

「まあ。風邪引いてるの? 寒いもの。駄目よ。お家に帰らなくちゃ」

 女が傍にしゃがみ込む気配がした。飴色のパンプスと小花柄のスカートが目に入った。微かに香のにおいがした。

「大丈夫?」

 遠くで大風が吹いたらしく、木々がさざ波の様な音を立てた。

「お姉ちゃんは、何してたの」

「お散歩に来てたのよ」

「金槌なんか持って散歩してるの?」

「うふふ」

 私は女の顔を見た。長い髪の毛が風に靡いて絡んでいるが、それでも人に好感を懐かせる優しい笑顔をしていた。

 夜が更け、風も止み、辺りが段々とどこか深い所へ沈んで行くらしい気配の中で、私は女と取り留めのない話をした。

 家へ帰ると家の者は皆寝静まっている様だったから、出かける前に鍵を開けておいた窓から忍び込み、急いで自分の部屋へ行って咳の音が漏れないように布団へ潜り込んだ。

 女とはそれきり会っていない。どうなったのかも解らない。

第二夜

 幾日も大雪が降り続き、漸く上がったと思うともう辺りが真白になっていた。

 学校から家へ帰る途すがら、雪の凍ってつるつるになった所が面白いので辷ったり止まったりを繰り返しながら歩いていた。学生服の上に分厚い外套をひっかぶっているが、そんなものはお構いなしに鋭い空気が私の身体を冷たくする。西日が向こうの山の尾根に重なりあちこちに紫色の影を作っていた。

 往来から裏道へ入って行く折にちいさい踏切を跨ぐのだが、その踏切の辺りが何やら混雑している。近くまで行くと大勢の警官が集まってブルーシートを広げ、踏切が見えないようにしているらしかった。私はそこいらの警官のひとりに向かって、

「何かあったんですか」

 警官は何でもない顔をして振り返ると、

「事故だよ。悪いけど、ここは通れないから迂回して」

「人身事故ですか」

「忙しいから、悪いんだけど」

 それきり仕様がないので真白の往来を歩き直している。暫くすると土手へ上がる小径があったので入って見ると、そこから細い筋が続いていた。両脇に木立が鬱蒼として、歩き出すと木々の隙間から川が見えたが、波の調子がおかしな感じがして、どちらを向いて流れているのか解らない。

 気がつくと私の前をカラスが一羽歩いている。細い脚をぴょこぴょこと跛を引く様にしてこちらの歩幅に合わせるので、一本道なのに道案内でもする気か知らと思った。よく解らないが、嘴に何かの切れ端を咥えているらしかった。

 そうする内にとうとう日が暮れて、たちまち夜気が降って来るのが感じられ出した。辺りは真暗になってしまったが、道の筋や木立の梢、カラスの羽根が微かな明かりを帯びて浮かんでいる。今歩いている道はどこへ繋がっているのだろうかと、頭で考えては見るけれど、本当はその様な事なぞどうでも良かったのだろうと思う。

第三夜

 大学へ通っていた頃に下宿していたアパートは灰色のコンクリートで出来ており、外から見ると大きな墓石の様だった。その上内廊下だった為、友人なぞを招く度に監獄の様だねと揶揄されたものだった。私はどちらかと云えば先程述べた通り墓石であると考えていたが、部屋にひとつだけある明かり取りから明け方になると青黒い光が差し込んで来て、水底の様な色となった身の回りを眺めながら、成る程確かに監獄の様だと感心したのを思い出す。

 お午過ぎに目を覚まして、顔も洗わずに布団の上に坐っていると、廊下の方から人の怒鳴り声が聞こえた。よく解らない事を喚き散らしながら行ったり来たりする者があるらしかった。その声を聞くともなしにぼんやりしていたが、やがて部屋の扉を無闇に蹴ったり殴ったりする様な音が響き出した。大層な主張があるのは承知するけれども、余所でやってくれれば良いのにと思う内に私の部屋の前まで来た様だった。

「八方随喜の涙を滲み、断ずべくして断ずんば却ってその乱を受く事になるぞ。解っているのか。おい」

 そうして扉が烈しく音を立てた。拍子を取っている様な感じもしたが、人の家の扉で拍子なぞ取るものではない。

 暫く音が鳴り響いたが、気が済んだらしくやがて声はゆっくりと遠ざかって行った。私は扉をそっと開けて外の様子を伺った。廊下の向こうを桃色のスウェットの上下を着た下駄履きの大男が禿げ散らかした頭を左右に揺らしながら歩く後姿が見えた。

「うるせえばーか」と声をかけた途端に男はこちらへ振り返った。男の顔は目鼻があべこべにくっついている様に思われたが、急いで扉を閉めたので詳しい所は解らない。

 それ以来彼は度々このアパートへやって来るが、私の部屋の前に居る時間が段々と伸びている様だった。

第四夜

 いつ頃からだったか定かではないが、酒に酔うと暗い方へ行く癖がついてしまった。自販機の裏であったり、路地、橋の下、倉庫、墓地と云った具合に、暗い所ならどこでも良かった。そうやって暗い所へ入ると、その中の更に暗い所へ入って行く。入られなければその方へ腕だけでも突込む。突込んだ先にあるものに触れると漸くちぐはぐになった気持ちが落ち着くらしかった。その為素面に戻ると見知らぬものを握っている事が度々あった。最後に手に触れたものを持って帰ってしまう様で、工具や空き缶、蝉の抜け殻のと云ったがらくたばかりだったが、そうしたものは木箱の中へ大事に仕舞ってある。

 上司から大目玉を食らった晩に大酒を飲んだ。目を覚ますと家の玄関に居り、掌にもこもことした温かいものを感じたので見ると狐の子供を握っていた。

 大変な事をしてしまったと思い、急いで母親を捜しに出かけたが、一体こんな町のどこに狐が住んでいるのかまるで見当がつかない。思いつくままにそれらしい店や役所へ行ったり、金持ちの家を訪ねたりして見たが、何の手がかりも見つからなかった。どうしたものかと考えながら、手許の狐におまえはどこからやって来たんだいと話しかけると、ちいさい鼻を私の鼻に擦りつけてすんすんとちいさく鳴いた。一番暗い所に居たばっかりに私に捕まってしまったのだろうから、真白いその狐をくろと名づけて身許が解るまで世話をする事にした。

 会う人会う人に恋人が出来たんだろうと云われ出した。居ないよと応えてもそんな筈はないと相手も聞かない。婚活でもする時間があれば良いんだけどと曖昧に躱して終わるのが毎度の事だった。

 くろもひとかどの立派な狐となったが、その姿が非常に美しい。家に居ると私の傍を離れず、よく懐いてくれている様だった。近頃はくろが居るから外で飲む事はなくなり、変なものを拾って来る癖もなくなった。その代わり晩酌が増えたがどうした訳かこれが楽しくて仕様がない。自分は黙って酒を飲み、それをくろが見ているだけだが、何だかお膳が明るくなる気持ちがする。彼女は人の食べる様なものを好んだ。以前酒を椀に注いで出して見た所、二三遍ちいさい舌で舐めただけでもう回ったらしく、直ぐに寝入ってしまった。

 くろの身許は相変わらず解らない。そこいらを連れて歩いても彼女の興味を引く場所は未だ見つからない。仲間や家族が居たら会いたいだろうと話しかけて見ると、切れ長の目を細めて尻尾を優雅に揺らした。

 物音がしたので目を覚ますと、私の寝ている横に包丁を持った男が起っている。賊だと思ったので、何でもお渡ししますので命だけは勘弁して下さいと云いかけた所で、男の様子がおかしな事に気がついた。変な方を向いたまま震えているらしかった。おやと思ったが、こちらも身じろぎが出来ないから黙って見ていたけれど、やがて男は何やら喘ぎながらゆっくりと後退りをして、いきなり外へ逃げ出して行った。

 落ち着いたので気を取り直して男の見ていた方へ顔を向けると、寝床から首をもたげたくろの姿が、窓から差し込む外燈の明かりに薄っすらと浮かされている。尻尾をゆらゆらさせ、その目は明かりを照り返して仄かに煌いていた。

「くろ。くろ、大丈夫か」と声をかけながら近づいて見ると、くろは私の頬をぺろりと舐めて、「ふふ」と云って笑った様な声を出した。聞き間違いか何かだったとしても、馥郁とした非常に美しい声だった。(了)