十五

十五

 背は低いが裾の広い山に通された細いトンネルに、もう随分永い事車を走らせている。古びた橙の頼りない明かりが行く先に並べられ、通り過ぎるに連れて暗闇は深くなる。ずっと向こうまで続くそうした景色を私はぼんやりと眺めている。

 その男は、母方の実家のある筋を突き当たった所にある、元は何かの商店だったのだろうと思われるが、今はもうがらんどうの土間が硝子戸の奥に広がっているばかりの廃墟の様な家の二階にいた。

 幼い時分、そこいらのお宅へ勝手に上がり込んだり、溝に潜って地下の水道を歩き回るのを日々のささやかな愉しみとしていた私は、当たり前に硝子戸を開けて、当たり前に男の住処へ入り込み、一階の隅に転がった椅子を立てて埃を払い、そうして腰掛けたなりで中から往来を眺めていた。人通りもまばらな寂れた通りだったが、私は日の暮れるまでいつまでも、浮浪者のごみを漁る姿や猫の垣根の上でじっとする姿、若い恋人連れの腕を組んで歩く姿に、面白い事なぞ何もありやしなかったし、また何を期待すると云った事もなかったが、映画でも観る様な心地でそこにいた。夜が来ると私を直に隠した。夜気が頻りに胸の辺りを暈すのを感じながら、帰ろうかと云う気になり掛けた所で、奥の上り框から物音がして不意に身の回りが明るくなった。

「うお。吃驚した」

 声のした方を見ると、身なりのだらしない痩せた男が突起っていた。男はこちらからすると吃驚している様には見えない、何でもない風な顔をして、

「さっさと帰れよ」と云ったきり土間を横切ると、そのまま外へ出て行った。

 自分が起きているのか、それとも眠っているのか、今でも解らないが、当時の私には一層解らなかった。つい先頃踏んづけた水溜りに残る波紋の筋を、どうしても信じる事が出来なかった。男の許へ通う様になってからそうした思いは日増しに強くなった。彼のいる部屋の、あの隅に引掛かる蜘蛛の巣や、灰皿に積まれた吸い殻、床に散らかされている衣類やよく解らないがらくたの類が、私の記憶にはっきりと残っているけれども、いつか夢に見た風物をそこへ仕舞い込んでいるだけではないかと云った気もする。あちこちから綿のはみ出した革張りの腰掛けに身体を預けていた。罅割れた革の感触を、今にも転げ落ちそうな坐り心地を、私はあそこでしか知らない筈だが、やっぱり無闇に信じる事が出来ない。

「本は読むんか。お前。暇ならその辺のやつ、勝手に読んで良いぞ」

 男は私の真向いにいた。安楽椅子に身体を沈ませ煙草を喫んでいる。男の姿は出会いの折を除けばこれしか知らない。私の訪問の際にはいつもそうしていた様に思う。外に何かをやっている所を見た事はないし、想像する事も出来なかった。

「読まん」

「そうか。ぼーっとするのが楽しいか」

「うん」

「云っとくけど、俺は読書家だからな」

「嘘つき」

「お前がいねえ時に読んでるんだよ。本ばっかり読んで、今まで生きて来た。本ばっかり読んでな。面白え本もあったし、下らねえ本もあったが、とにかく読みまくって、読みまくって、気がついたらこの様なんだけどさ。お前はこんな大人になるなよ」

「読まんかったら良いの」

「んなもん、好きにしろよ。読まなけりゃ馬鹿が治らねえと思い込んで、目につくもんに手当たり次第だったが、どうにも、読み過ぎるのも良くねえらしいな。最近になってやっとこ、そんな事が解ってな。で、今はやり方を改めたのさ。俺が一生の内に付き合う本の数を決めたんだ。一生読める本を探すんじゃあ、なくってな。一生は読めねえな、て本を全部捨てて行った。すると最後に、十四冊の本が手許に残った。俺はその十四冊に読書人生を捧げる事にした。メムガアノン、タングエルパリュ、ディドンカ、フレマンド、レンル・ペティスゲル、ルシェムフスキイ、ラジエペンテ、……」

 本の名前なのか、著者の名前なのかも解らなかったが、私は黙って聞きながら部屋の中にある本らしきものの数を数えた。

「お前も、どれでも良いから一遍読んで見ろよ。どれも凄え本だ。それで面白くなかったら、それはそれで良い」

「十五ある。一冊多いくない?」

 私は丁度男の直ぐ傍にある机を指差した。外の色褪せたものとは違う、真新しい紙の冊子が開かれていた。

「近頃の餓鬼は」と云って、男は笑った。

「これは十五冊目になる予定の本だ」

「予定?」

「自分で書いてんだよ。お前がいねえ時にな。これにはちょっとした仕掛けを施すつもりでいる。未だ下書きの段階だが、言語や活字の塩梅を整えて、例えば一頁にひとつの視覚効果を仕込む。行を追えばそれなりの意味を読み取れるが、全体を一度に眺めると別の解釈が仄めかされる。つう具合いにな。尚且つ、次の頁との重なりも考慮する。紙を透かせば裏の頁が薄っすら見えるだろ。重なりが暗示を引き締め、また暈す。そう云った仕掛けが総体を取り巻く様に、極端な話、本を開かず手に取って眺めるだけで、何かを察する事が出来る様なからくりだ」

 私には男の云う事がさっぱり解らなかったが、その言葉に聴き入っていた。

「出来たら見せてやるよ」

 そう云ったのを聞いたのがもう二十八年も昔の事になる。私自身、本の蒐集を日々の明け暮れの糧として生きる身となり、彼の云っていた十四冊も、版は違うだろうが、自分なりに考えられる最良のものを手許に置いている。未だ人生を共にする数冊は決めかねていた。尤も彼の様な事をするつもりは、今はまるでありやしない。しかし十五冊目のあの本の事が気に掛かる。その様な仕事を完成させられるとは思わないけれども、読書道の先達である名前も知らない男の辿った筋道を私はどうしても確かめたかった。

 この辺りはもうすっかり更地になっている。母の生家も今となっては誰も住む者はいない。朽ちたものが朽ちたなりに風化し、ひとりでに消え去る様に、実際にそう云った事ではないのだろうが、あの建物ももうなくなってしまった。細い夜の風が頭の上から降って来る。往来の隅に起ち、草の生した空き地をぼんやりと眺めている。無駄足だが、私はもう幾度もこうして無駄足を踏み、その度にこの何もない空き地の中に何かを見出そうとした。硝子張りの戸を開き、がらんどうになった一階を過ぎ、二階へ続く階段を上る。部屋の戸をいきなり開くと、彼が安楽椅子に埋もれて煙草を喫んでいる。

「来たな」

 私は確かに声を聞いた。記憶の内に残されたあの建物が声を通じてこの場所に繋がった様に思われた。

 木と針金で出来た柵を乗り越え、空き地の中へ入って行った。そうして彼の部屋のあった辺りへ向かい、星明かりを頼りに本を探した。メムガアノンは丁度この石ころの所にあった。タングエルパリュは乾いた水溜りに、ディドンカは木板の切れ端、フレマンドは錆びた空き缶、……。息を切らしながら私は部屋の中を行ったり来たりして、とうとうあの安楽椅子を見つけた。ビニールの人形だった。そうすると直ぐ傍に机がある筈なので、私は地面に這いつくばって見回したが、まっさらの地面が広がるばかりで草一本ない。諦めがつく筈なぞないので、近くの手頃な石を取り地面を掘った。彼ならばやりかねないと、彼の事なぞ何も知らない癖に彼を信じた。

 暫く掘り進めると硬い感触に行き当たった。私は石を投げ捨て自分の手で土を払った。たちまちブリキの缶が現れた。額から流れて来る汗が目に入り気持ちが悪いけれども、そんな事にはもう構っていられない。地中から缶をすっかり取り出して蓋を開いた。信じられない事だがそれが十五冊目である事は忽ち了解された。私の双眸から勝手に涙が溢れ出し、本に触れる事も出来ずに、缶にかぶさる様にして蹲ると、もう何も解らなくなった。(了)