近頃はもう触る事の出来ないものや、出逢う事のない人々ばかりが気に掛かる。目の前を掠めて地面へ降りて行く木の葉や、水溜りに細い波紋を広げる雨の雫と云ったものが、記憶の内にはいつまでも残っているけれど、目の前に同じものは二度と現れない。まち子も同じ様なもので、その顔を忘れる事はないが、もう見る事もない。
だから私はこの女の事なぞ知らない。顔は確かにまち子のものだが、私の前にいる以上は別の女でなければならない。
静かな秋を空が映した様な午后だった。やっと決心がついたので、冬の気配の微かに混じった風を頬に吹かせながら、私はまち子の墓前にいた。細い茅と少しばかりの吾亦紅に、故人の生前好んだ焼き菓子で以って手向けとし、目を瞑って拝んだ。何を拝むと云った事はないが、そうしたなりでじっとしているのが私には心地良かった。
目を開くと、墓石の下段に女が腰掛けているので非常に吃驚した。目を瞑る前にはいなかったし、人いきれも感ぜられなかった。女はまち子に瓜二つだった。
「君は誰だい。そんな所で何をしている」と訊いて見ると、
「誰かいるんですか。解らないんです。なんにも」と云って辺りを見回した。私の事が見えていないらしかった。
「どこから来たんだい」
女は俯くと、
「解りません」
「名前は何て云うんだい」
「済みません。解りません」
その顔には不安や悲しみの類のものはなかった。ただ見知らぬ人間に突然声を掛けられた折に浮かぶ余所余所しさがあるばかりだった。
「そこから何が見えるんだい」
「解らないんです。真暗で。ああ、でも」
女は続け様に、
「誰かに云って置かなければいけない事が、あったんです。良ければ、聞いて頂けませんか。私がここでその内に忘れてしまうよりは、誰かに聞いて頂いた方が良いと思うんです」
「云ってご覧なさい」
「有り難うございます。……多分、私が迷惑を掛けてしまって、もしかすると、今も辛い思いをしている人が、いるかも知れないんです。どんな人だったのかも、もう憶えていないんですけれど。その人に、私は元気に、楽しくやってるから、って。どうぞあなたも、あなたの人生を、あなたなりに楽しんで来て欲しい、って。それが私の願いだと思うんです。この事の外には、なんにも憶えていないから」
そこまで云うと女は瞳を潤ませたが、何故自分の目が濡れるのかも解らないらしかった。馬鹿が。ならばどうして私がここへ来たと云うのか。女の云った言葉をそのまま、墓前に奉ずる為ではなかったか。それが嫌だから、私はここへやって来るまでにこれだけ時間を要したのだ。目を瞑って手を合わせた折にさえ、その祈りまで心が及ぶ事はなかった。それで何もかもが済んでしまう事がおそろしかったのだ。私がその決心を、やっとつけて来たと云うのに、そっちの方から申し出るとは何事か。この女が誰であろうと、その様な事をさせるのには私は断じて承知出来ない。
「確かに聞いたよ。縁があれば、伝えて置こう」
「有り難うございます」
「しかしね。君がそうやって、誰かの思い出になってはいけないよ。君が言葉を伝えたいその相手も、やっぱり同じ事を思っているんだよ。もう言葉を交わしたり、顔を見たりする事は出来ないかも知れないけれど、それで良いなんて事はないんだ」
女は顔を上げた。膝の上で、握り込んだ右の掌を左の掌で包んでいる。まち子の昔からの癖だった。
「それじゃあ、どうすれば良いんですか」
「どうか、逢いたがって欲しい。その人に。相手の事情なんて考えちゃいけない。君の思う様に思うんだ」
「でも。もう、思い出せないんです」
「……。それで良いんだよ。覚えていなくたって良いんだ」
「良いんですか」
「良いんだよ」
そうして暫く二人共黙っていたが、やがて女は幾らか和らいだ顔で、
「解りました。そうして見ます」と云った。
不意に強い風が吹き、辺りの木々が鳴った。私はその方を見た。葉は動いていない様に思うが、擦れ合う音がはっきりと聞こえる。
次に女の方へ振り返った所で、もうそこにはいないのだろう。(了)