青雨

青雨

 家が揺れた様に思われたので目を覚ましたが、天井の隅や飾り棚の陰が黒々として、身の回りには分厚い空気が詰めている。

 夕暮れと云うには未だ塩梅がおかしな心地がするが、そうすると空が曇っているのだろう。開け放しにしてある縁側の向こうに木立が緑青色の葉っぱを茂らせ、その大きな塊が一緒になって右左に揺らいでいる。風の音は聞こえない。

 身を起こして坐り直した途端、外がぴかぴかと光り、重たい雷がゆっくりと地面を打ち鳴らしながら転がる音がした。

「侑莉」

 返事がないのでもう一度呼んだが、雷の余韻が消えた家の中は森閑としている。一服しようか知らと盆の湯飲みを取ると随分軽い。中はからからで何も入っていやしない。

 風が変な所から吹き流れた思うと、やっぱり大雨が降り出した。仕様がないので煙草に火を点け、軒から落ちる雨垂れが見る見る縁側を濡らして行くのを眺めた。

「ひどい大雨で」と襖の向こうからいきなり云った。

「どこ行ってたんだい」

「ずっとここにおりましたですよ」

「そうかい。さっき呼んだんだけどね」

「あら。あら。そうでしたか知ら」

「昼寝でもしてたんだろう」

「そんな事ありませんです。だなさまじゃあるまいし」

 侑莉は寝るのが好きなので、自分の見当で大方違いはない。

「辺りが段々青くなって来たね」

「方々から雨が入って来るからですわ。今日の雨は青いのね。だなさまのお顔だって、真青よ」

「襖を透かして見えるものかな。真赤かも知れないよ」

「見なくたって解ります」と云って、微かに衣擦れの音がした。居住まいを正したのだろうと思う。

「こんな雨の日に家を広げてたら、小さいお坊さんが入って来ますわ」

「雷が鳴ったからね、お前に空の具合を見て貰おう思ったんだが。はて、そんな話は聞いた事がない」

 襖の向こうで口を開き掛ける気配がしたが、侑莉はそれきり黙ってしまった。

 雨は上がる気振りを見せず、はじめの頃よりも幾らか落ち着いた様子で降り続いている。軒を伝う雨垂れのびたびたと云う音が耳につく。

「今日はもうこれで仕舞いだね」

 誰に云うともなく、自分に云ったつもりなので、返事がなくとも一向構わないが、つい今まで言葉を交わしていたものだから、急に一人になった様に感じる。こうして静かに雨の音を身体に聴かせていると、さっき侑莉とした会話は夢の続きであったのかも知れないと云う気がして来る。一体何の夢なのかは解らないが。

 玄関の方から音がして、直ぐに止んだ。お客だといけないので、

「侑莉」

「はい」

 襖の直ぐ向こうから返事がしたのでびっくりし掛けたが、

「ちょっと見て来てくれないか。お客さんだったら、乾さんでなければお通しして」

「はい」

「ああ。牛田君も駄目だ」

「はいです」

 乾さんは私のお茶の先生だけれども、今はお金を借りているので成る可くなら会いたくない。牛田君は侑莉と好い仲になろうとしている節があり、家へ足繁く通って来るが、そんな事は断じて承知出来ない。

「だなさま」

「誰だった」

「お坊さんです」

「小さいのかい」

「いいえ。中ぐらいのお坊さんでいらっしゃいます」

 中ぐらいの坊主が何の用事があるかと云うに、恐らく侑莉の事だろうと思う。

「出ようか。お前は奥へ引込んでなさい」

「はい」

 襖を開けると、もうどこかへ行ったらしく、暗い内廊下が青い明かりを薄っすらと照り返すばかりだった。あれも可哀想な娘で、私に拾われるまでの永い間、山の中に棄てられた墓の傍にずっといたと云う。いつそうなったのかも憶えておらず、それまで誰といて、どの様な暮らしをしていたのかもまるきり忘れてしまっていた。

 墓石に腰掛けて、黄色い蝶が舞うのをぼんやりと眺めていた所を見つけてから、家で女中の様な事をさせている。ご用聞きと私の話相手ぐらいのものだが、言葉遣いを覚えるのが楽しいと云ったのを聞いて、未だ人様の前に出すには覚束ない言葉遣いではあるけれど、私は非常に嬉しかった。

 客間を覗いた所誰もいなかったので、玄関の方へ回ると、上り框に坊主が腰掛けていた。袈裟に水が染みて真黒になっている。こちらに背中を向けている為、顔は見えない。

「どうも、お待たせ致しました。大変な時に来られて」

 外から来る明かりが、青いままそこいらの影を広げ、青いなりに深くなって行くのが解った。

「こんな所でお風邪を召されてはいけませんから、どうぞお上がり下さい」

「いえ、いえ。お気遣いだけ、有り難く頂戴します」と云って、坊主はこちらを向いた。

「こちらで結構。ほんの、雨が上がるまでの間でございますから。表の軒を勝手にお借りしようかとも考えたのですが、やはりご挨拶をと思いましてな」

「それはご丁寧に、どうも」

 もうこちらから話す事なぞ何もないが、私まで奥へ引込んでしまってはお行儀が悪いだろうと思う。近くの寺を教えて、そっちへ行って貰おうかとも考えたが、今度は追い出す形になってしまい尚更お行儀が悪い。

「娘さんですか。それにしてはあなたも随分とお若いが」

 玄関の櫺子戸には硝子板が填め込んである。透明の硝子なので、表の門から玄関までの通りが水溜りでひたひたになっているのが透けて見える。

「いえ」

「すると、妹さんですかな」

「妹は今、外国で銀細工をやっています」

「それは結構な事でございますな。では、……。奥様ですかな。それとも、昔の恋人であるとか」

「いえ」

 坊主は気の抜けた様な顔をしてこちらを見詰めている。

「不思議な事だ」

「どうしてです」

「だってあなた、赤の他人なんでしょう」

「そうですかね」

「そうですとも」

「同じ家に暮らしている以上、赤の他人と云う事はないでしょう」

「何かお困りになる事はありませんか」

「どう云う事です」

「運びの具合がよろしくないとか、身体が重たくなるだとか」

「仰りたい事は解りますが」と応えた所、急に真面目な顔になって、

「死相が見えるものですから」

「見えますか」

「ええ。それはもう」

「あれをどうにかしに来たのですか。止して下さい」

「よろしくない事ですな。放って置くと本当に死んでしまいますぞ。あの娘に悪意があろうと、なかろうと。それとこれとは全く別の話なのです」

 身体が弱いのは生まれつきの事だから、侑莉がいようが、いまいが、死相なぞ人様に何遍見せたか解らない。

 去年の冬は普段に増して厳しく、病床に伏す事が多かったが、持ち直すまで侑莉は私の枕元から離れなかった。あれは可哀想な境遇だが、優しい娘だと思う。すっかり快復し、自分で寝床から出る事が出来る様になった時に侑莉が見せた顔を、私は忘れない。

「死ぬのは嫌ですが、死ぬものは仕様がない。やっぱり、放って置いて下さい。今の暮らしが、何と云うか、気に入っているんです」

 そうして二人共黙っていたが、やがて「変わった方だ」と云って坊主は笑った。

「しかしまあ、私も無理にとは云いません。あなたがそれで良いと思うなら、そうされるのがよろしい」

「古典なんかとは違うんですね。もっと食い下がるものだと思っていました」

 坊主はくつろいだ様子で、

「私も若い頃は、迷える者は片端から仏の御下へ送ってやろうと云った気勢でやって参りましたがな。この歳になるともう、ぶっちゃけ面倒臭い。好き同士が好きでやっているなら、そうさせてやるのが一番ですよ。煩い小姑じゃあるまいし」

「では、ここへ寄られたのは本当に偶然なのですか」

「ああ。それは」と云うなり、

「だなさま。だなさま、ちょっと」と、家の奥から侑莉の声がした。

「どうかしたかい」と応えると、

「だなさま。お勝手から、小さいお坊さんが」

「そら来た」

 坊主は立ち上がり、「成敗してくれる」と腕捲りをしながら家の奥へ向かって歩いて行った。(了)