帳の向こう

帳の向こう

 一 漆喰

 教壇の近くの席に就いていた菊村が、急に起ち上がって私の所まで来た。ちいさい紙切れを私の机に放ると、来た道を戻って行った。

「なんだよ」と声を掛けたが、菊村は向こうを向いたきり返事をしない。お行儀良く座席に腰掛け、少しばかり俯き掛けた姿が随分薄らいで見えた。仕様がないので紙切れを拾って眺めるけれど、隅に小皺の寄る外には何もない。

 開け放された窓から流れる風に輪郭はないが、お日様の脚は非常にはっきりとした形を見せており、影になった教室を目の眩む様な光で縞々に区切っている。遠くから来るラッパのや球の跳ねる音、誰かの話し声や雄叫びが混雑しながらさざ波の様に打ち寄せられる。しかし波頭がここまで届く事はない。ここには私と菊村の二人しかいない。

 そもそも今は夏休みの最中である筈なので、どうして自分がここにいるのか後先が判然としない。菊村に訊いて見ようかとも思いはしたが、私が知らない私自身の事を菊村が知る筋合いはないし、あるとしてもそれはそれで気味が悪いだろう。

 先生が入って来て、教壇に立った。ゆっくりと辺りを見回すと、満足そうに頷いた。

「さ、さ。暑いから。早いとこ、終わらせてしまいましょうね」

 そう云うと、白い顔をして笑った。

「こないだの、とっても明るい晩があったでしょう。皆さんはその頃、何をしておりましたか。先生はお家を抜け出して、吉武さんのお庭をこっそり覗いておりました。大変ご立派と云ったお話でしたから、先生いつか行って見たいと思っておりましたですよ。明るくって、静かな晩でしたから、さぞ大きなお月様が出ているのねとお空を見ました所、お月様なんてどこにもありやしませんでした。不思議な事もありますもので、お月様はお空から降りて来て、そこいらの道や、木立や、屋根や塀に染み込んで光らせておりますのね。先生あんなのはじめて見ましたけれど、そう云った理屈が解ったものですから嬉しくって、そうすると吉武さんのお庭も普段に増しておきれいなんじゃないか知ら、そう思って道を急いだんですの。そうして着いて見ると、お屋敷は洋風の造りでしょう、ですからお庭の囲いも洋風の尖った鉄で出来た柵なんです。柵ですから、表からも中の様子を伺う事が出来るんですのね。お庭の中には沢山の人がぎゅうぎゅうに詰まっておりまして、先生吃驚してしまいました。皆さん黙りこくって突起っていらっしゃるものですから、そのまま眺めておりますと、周りのものとおんなじ様に皆さんのお身体が光っていらっしゃるのが、段々解って来ましたのね。もしかすると先生もお月様を吸って、ああ云う風に光っているのか知ら。そしたら先生も、お庭に入れて貰えるか知ら。先生自分の掌を眺めて見ました。目の前に広がる明るい景色をくり抜いた様に、真黒な手の形が見えるばかりでした」

 知らない内に先生はいなくなっていたが、菊村は相変わらず自分の席に就き、俯き掛けたなりでじっとしている。お日様の光をまともに受けて、白々とした肌と制服の境目が一緒になっていた。

 私は先程貰った紙切れを見直して見たが、やっぱり何も記されてはいないので、机の中に転がっていた短い鉛筆で「いにしえのふるき堤は年深み」と云った歌を書きつけた。そうして四つに折り、菊村の所へ持って行った。

「暑ちーな」

 紙切れを差し出しながら云うと、菊村はこちらへ顔を向けた。釈然としない風な顔をしているが、実際に釈然としない事があるにしろ、ないにしろ、元よりこの様な顔つきをしていたと記憶している。お喋りをしない女だから、あまり言葉を交わした事はない様に思うけれど、お喋りをする女だった所で私がお喋りをしない男だから変わりはない。

 菊村は紙切れを受け取ると、

「何? これ」と云った。

「何もくそもねえだろ。お前が寄越して来たんじゃねえか」

「え?」

「熱中症じゃねえか。大丈夫かよ」

「知らない、私……。村田君、いつ来たの?」

「……。俺もおかしくなっちまったんかな。お前いつからおんのよ」

 細い目を更に細めて、

「わかんない……」

 解らない事と云えば、よく解らない事を喋っていた先生も私には誰だか解らないが、恐らく菊村にも解らないのだろう。この分だと見てすらいないのかも知れない。

「帰るわ」

「あ……」

 渡した紙切れを両手に持ったままぼんやりとしている菊村を置いて、私は一人で教室を出た。「さよなら」と云った様な声を背中に聞いた。

 家の近所まで戻る頃にはすっかり辺りが暮れつつあった。道の先の辻にはあっちこっちから長い影が伸びており、それを外灯が無闇に照らすものだから色の塩梅がごたごたになっている。

 古びた駄菓子屋に入り、布団の様な顔をした老婆からガムを買った。久し振りに食べたと思っていると、味は直ぐになくなった。歯にへばりついたガムを舌で掬いながら、あの晩の事を思い返していた。吉武さんのお屋敷の庭へ入って、中から鉄柵越しに表の電柱を眺めていた。そこの陰から覗く真黒の先生に見つからないように、周りの人々に紛れてじっとしていたのだ。菊村と一緒に。

 脚の向くに任せて歩くと、自分の家とはまるで別の方へ向かっていた。地面はもう黒いが、鉄柵には未だ西日が残っており、青緑の塗装の剥げている所まではっきりと見える。

 柵にもたれながら、こちらを見る者がある。女の様にあるが、真白の顔をして笑うのが私にはどこか辻褄が合わない様に感じられた。

 二 折り紙

 ひどい嵐の晩で、窓のがたがたと鳴る音で私は目を覚ました。読みさしの古びたエロ本を畳み、そうしたなりで薄明かりが外から射すのを眺めた。風の音がする度に、明かりはカーテンの隙間から出たり引込んだりした。

 朝になって外へ出ると、自分の考えていたよりも大層な風だったらしく、往来のあっちこっちに柄杓や手拭いと云った細々としたものが転がっている。足許のそれらを避けながら、私はゆっくりと歩いた。お日様はどこにあるのか解らないが、空は明るく澄み渡っており、硝子瓶の中に沢山の貝殻を入れて少しずつ傾けて行く様な、ころころとした音が遠くから聞こえる。昨晩の風の尾ひれが未だそこいらに流れているらしい。

 何か考えものをしていたのか、或いは何も考えていなかったのか、もう忘れてしまった。私は海端の公園にいた。開けているので遠くの方までよく見える。高いビルの頭が団子になって、空の明かりを照り返している。隅の長椅子に背広を着た男が腰掛けているが、外には誰もいない。私も坐りたいので、長椅子の所まで行って腰掛けた。

 風は海から吹くものだとばかり考えていたが、そう云う事でもないらしい。ビルの方から来たと思うと、いきなり頭の上から降って来る。身体のあちこちがそうやって風に吹かれるので、段々と感覚が覚束なくなって来た。

 いつの間にか眠っていたのかも知れない。そうではないのかも知れないが、解らない。景色は何も変わっていない様にも思うし、先程までとはどこか違っている様にも思う。隣を見ると、未だ男は長椅子にいた。火のない煙草を咥えてあっちを向いている。

「あれをご覧」と云うのでビルの方へ目をやると、てっぺんの所に何か動くものがある。豆粒程にしか見えないが、膨らんだり萎んだりしたと思うと、今度は伸びたり縮んだりし出した。

「何すかあれ」

「何だと思う」

「アメーバのでかい奴、すか」

「面白い事を云うね」

「え。まじ、何なんすか」

「空の底に溜まった蟠りが、風をいっぱいに受けて踊っているんだよ」

 男の云った事は解らないが、私はその言葉から、水に落とした一滴の墨の姿を思った。

「あれは昨日の嵐さ」

 そう云われると、そうかも知れないと云う気になって来た。

「もう大分ちいさくなってしまったけれどね。夕べこの街の人達は皆、あれの中にいたんだよ。知らん顔をしてね」

「あそこは未だ嵐なんすか」

「いいや」と云って、男はやっと煙草に火を点けた。

「もう嵐じゃないんだ。だから自分が嵐だった頃を懐かしがって、ああして風に遊んでいる」

「嵐が嵐じゃなくなったら、何になるんすか」

「僕にはね、ひらひらのドレスを着た女性に見える」

「まじすか。アメーバのでかい奴にしか見えないす」

「夢を見る様な顔をして、笑っているよ」

「まじすか。可愛いんすか」

「ああ。可愛らしいよ」

 男の云った事を真に受けた訳ではないが、それから私は風と擦れ違う度、誰かに撫でられた様な気持ちになった。人の指が触る感触がするが、その数が五本や十本では聞かない。何十、何百と云ったあまたの指が並び、刷毛で薬を塗る様に私の身体をなぞって行く。

 ビルのてっぺんにいたものと関連があるのか知らと考えたが、そこから先の繋がりが私には見当もつかない。ひらひらのドレスを着た女性と云ったものに纏わりつかれているとして、可愛らしい女性ならば良いだろうか。やっぱり良くないだろう。可愛らしい女性だからと云っても、指があんなに沢山あるのは気味が悪い。いや違う。指の多い少ないの話ではない。私は誰かに馴れ馴れしく触れられるのが嫌だから、何であろうとこの様にべたべたされるのは困る。

 ある時いきなり首筋から頬に掛けて撫でられたので、非常に吃驚して振り返ると、丁度少し後ろを歩いていた菊村が釈然としない顔をして私を見ていた。

 狼狽える所を見られてしまい恥ずかしかったが、そうした事が続くと滅入ってしまうねと考えながら、しかしどうする事も出来ないまま日々の明け暮れを繰り返し、結局どう云った事情だったのかは知らないけれど、私が気に留めなくなった頃合いに自然と収まった。

 今でも稀にあのビルの近くを通り掛かる事があるが、あそこの辺りにはいつも隙間風が方々から辷り込んで来るので、怪我癖ではないけれど、その風に煽られると身の竦む様な心地がする。そうした心地でいる時には決まってあの男の、いつかひとつの長椅子に私と一緒に腰掛けていた男の顔が、人々の雑踏する中に見え隠れするらしく思われた。

 三 秋明菊

 棄てられた古い山寺に入り、私は隅っこに落ちていたエロ本を真剣に読んでいた。暮れの薄明かりが座敷まで上がって来て、堂々たる格好を決めた裸の女を赤や紫の混じった曖昧な色に染めている。

 これと云った理由なぞなかった様に思うが、飲んだくれた母親に蹴られ、殴られ、仕舞いには父親の位牌を投げつけられたものだから、こりゃ堪らんと家を飛び出して来たのだ。暫くの間は家の周りをぶらぶらしていたが、雑巾の様な自分の姿を人目に晒すのが憚られた事と、日が傾くに連れて団欒の気配が家々から漂い出すのに我慢ならなくなり、その山寺へ向かった。当時小学生だった私には、外に行く当てもなかった。

 エロ本を読み終え、壁にもたれて坐り、ぼんやりとしていた。時折お堂の外を、四つ足の黒い影が行ったり来たりするのを目の端に見た。西日に伸ばされた細長い影が音もなく私を掠めた。不意に雨月の白峰が脳裡に浮かんだが、そこから何が連想されるともなく、また消えて行った。

 やがて夜が山を隠すと、もう何も見えなくなった。

 私は居住まいを正し、目を瞑った。お堂の闇に瞼の闇が被さり、闇は透明ではなくなった。これが最初の祈りだった。私の人生の内の最初の祈りが捧げられたのは、父親ではなく、崇徳院でもない。まして自分自身なぞでは断じてない。私はエロ本を置いて行った主に対して、感謝の祈りを捧げた。そうする事で、自分に纏わるどうしようもない何かに逆らうつもりだったのだろうと思う。

 目を開くと、真向かいに坐す者がある。姿は闇に隠されて見えないが、二つの大きな目が丸々と光るので、それで解った。目は私の顔程もあった。

 そうして私共は黙っていたが、おそろしい気持ちはしなかった。私は寂しさが紛れるので却って気楽な心地がした。

「……。君は、こんな所に来て、どうしたのかね」

 山水の様な声だった。

「寒かろうに。旅僧にも見えない。何の所縁があったのか、私には思い及ばないけれども。帰る所があるのならば、帰った方が良いのではないかね。もう随分と暗くなってしまった」

 私は返事をしなかった。相手の言葉や声の調子が整っている事に吃驚していた。平生周りの人間にこう云った物云いや態度で私に接する者がいなかったから、返す言葉が解らなかった。

「唖かね。済まない事をした。動きたくないと云うのであれば、一向に構わないが」

 声の主はそこまで云うと、少し笑った。

「……。この様な、草臥れた所で良ければね。私がねぐらとするより外には、何もない、朽ち果てるのを待つばかりの場所だ。もてなす事が出来ないのは残念だが、どうぞ、ゆっくりして行かれるが良い」

 微笑と云った風なものが、見る事は出来ないけれど、私には感じられた。

「あ、あなたは」

 声を喉に引掛けながら、私は尋ねた。

「あなたは、誰なんですか」

「おや」

「勝手に入って、ご免なさい」

「気にする事はない。私は、……。そうだね。蛇と呼ばれた事もあるし、虎と呼ばれた事もある。可笑しな話だが、他人につけられた呼び名の外に、私は自らを現す術を持たない。君には、私が何に見えるかね」

「目。しか、見えないです」

「ならば、私は目なのだろう」

 脚が痺れて来たので、そろそろと崩した。床に突いた手の先に硬いものが触れた。先程のエロ本だった。

「それは何かね」

「あの、これ。落ちてました。あなたのじゃ、ないんですか」

 私は目の前にエロ本を差し出した。

「いや、私のものではない。……どれ、済まないが、頁を捲ってはくれまいか。私に腕はないのだろう」

 目の光に照らされて、堂々たる格好を決めた女が薄っすらと浮かび上がった。

 そうして私は頁を捲り、目は脇に記された文章を読んで聴かせてくれた。その際に、淫乱や卑猥、愛撫と云った言葉の読み方を教えて貰った。目の流れる様な語り口も相俟って、私には非常に尊い言葉である様に思われた。

「しかし、良い時代になったものだ」

 仕舞いまで読み通した後、目はくつろいだ様子で、

「我々が君程の頃は、そう簡単には行かなかった。それこそ命を懸けて、花魁を攫って来る様な真似をしたものだ。あれは女の中でも最もおそろしいものだよ。君も努々、ああ云ったものには気をつけられるが良い。碌な事になりやしないから」と云った。

 ぽつりぽつりと話をしたり、黙ったりする内に夜が深み、いっぱいに沈んだ所から、再び浮かび上がろうとする気勢が感じられ出した。

「……。私はそろそろ行くとするがね。君も頃合いを見て、君の許へお帰りなさい。その本は持って行かれるが良い。本は大事にしなければいけない」

「また会えますか」

「お互いに長生きをすれば。或いはまた、どこかの軒下で行き当たるかも知れない。その時、私は目ではないだろうが、それは君にも同じ事が云える。今日は良い日だった。礼を云わせて貰おう。それでは、左様なら」

 目は瞑られ、それきりになった。私の前にはお堂の闇が広がるばかりで、闇に向かって何事かを云い掛けたが、何を云えば良いのか解らなかったので、何も云わないで置いた。

 四 汀

 友人の結婚式に呼ばれたので出掛けて行った。知らない土地であるから勝手が解らないだろうと思い、朝の早くから電車に乗り込んで、目的の駅に到着したのが正午過ぎだった。式の受付が夕方に始まるとの事だったから、私はこれからこの見知らぬ土地で一体何をすれば良いのかと途方に暮れている。

 随分と開けた町並みで、家々の屋根や垣根、木立、遠くの山々、空に掛かる雲までが皆低い所にあって、何だか白けた感じがする。古びたお屋敷なぞが軒を連ねるのを見て、こんな所に所縁のある友人がいたか知ら、本当は自分の友人ではなく、何かの手違いで余所様の婚礼の便りを受け取ってしまったのではないかと不安な気持ちになったが、持って来た招待状の送り主を確かめるとやっぱり友人の名前があった。

 茶屋の表で、買って来た茶と団子を頂いている。お昼を上がろうかと云ったつもりにもなり掛けたが、この後のご馳走の事を考え止して置く事にした。私は茶屋の用意した長椅子に腰掛けており、目の前の往来では子供が遊んでいる。男の子がひとりと女の子が二人で、女の子の方が歳上と見える。独楽やおはじきで遊んでいるけれど、誰も笑わない。真面目な顔をして一心に遊びに興じている。面白くないなら止めれば良いのにと思いながら眺めていると、独楽が私の足許まで転がって来た。女の子のひとりがこちらまでやって来て、

「ご免なさい」と云って頭を下げた。

「謝る事ないだろ」と応えながら拾ってやり、手渡した所、女の子は吃驚した様な顔をして、

「とんでもございません。向こう見ずなもので、……」

 よく解らなかったが、相手が泣きそうな顔をしてまた頭を下げるから、

「いいって。戻って遊べよ。何でもねえから」

「違うんです。違うんです。旦那様、あそこへ行かれるんでしょう」

「あそこ?」

「今日のご婚礼でございます。あそこへ行ってはなりません」

 女の子はそう云って、大きな涙をぽろぽろと零した。気がつくともうひとりの女の子と、男の子の方もこちらを見詰めながら涙を流している。

「泣く事ないだろ。何だよ一体。どうした」

「おにが……」

「鬼?」

 忽ち子供達は揃って大泣きをし出した。もう私の云う事が耳に届かない様子だった。

 立派な門を潜ると立派なお庭に出た。辺りには松の立派なのが疎らに立ち、立派な格好をした人々が方々で歓談している。皆ひとかどの紳士淑女然たる佇まいで、自分の様な若輩者の姿はない。入る所を間違えたか知らと考えながら受付まで行って、自分の名前を伝えた所確かに名簿の中にある。そうすると私は招かれてここへやって来たのだろうけれど、一体誰に呼ばれたのだろうか。新郎の名前も新婦の名前も知っている。しかしどちらの顔も思い出せない。

 披露宴からの参列であったので、広間に通されて自分の席に就いた。卓に運ばれて来る色々のご馳走をぼんやりと眺めながら、周りの話し声や物音を聞き流している。ご近所さんなぞは私と同じ様にお行儀良くしているが、遠くの席では早くも宴会がはじまっているらしく、大きな笑い声や杯のかち合う音がする。私の左隣に腰掛けたご婦人が「挙式からああなんですよ。全く、仕様のない方々ですわ」と困った風に笑っている。

「挙式から飲んだくれてたんすか」

「あら。あなたは見掛けない顔だけれど、……」

「さっき来たもんすから」

 ご婦人は暫く人の顔をまともに見詰めていたが、

「そうですのね」と云って目を細めた。

 やがて外から大きな葛籠が運び込まれた。ピアノよりもまだ大きく、大の男が四人も一緒になって担いでいる。葛籠は卓の合間をゆっくりと縫い高砂の前に降ろされた。何かの催しだろうかと考えたけれど、それきり葛籠に近づく者はない。

 変な所から司会が出て来て口上を述べた。何やら目出度い事柄について喋るのは解るが、その言葉ひとつひとつが判然としない。急須で湯呑みに茶を注ぐ音を口から出すとああ云った具合になるのだろう。会場のあちこちから拍手が起こると、司会は深くお辞儀をして裾へ引込んだ。そうして向こうにある大きな扉がゆっくりと開いた。いよいよ新郎新婦の登場する段かと思われたが、扉から出て来たのは腰の曲がった年寄りがひとりだけで、顔には真黒い面をつけている。真黒な上遠くにいるので、どの様な形の面なのかは解らない。年寄りはゆっくりとした足取りで高砂の方へ向かった。あの葛籠の前まで来ると立ち止まってお辞儀をした。気がつくと会場は森閑としており、先程まで騒がしかった辺りも今は静まり返っている。

 暫くの間下げていた頭を上げ、年寄りは葛籠の蓋に手を掛けた。音もなく蓋を外し、また音もなく床に降ろした。芝居掛かった動きだったので、何かしらの儀式に当たるものだろうと考えたけれど、私はこの様な儀式なぞ知らない。そうして年寄りは葛籠の脇に行って跪いた。

 不意に葛籠から尖ったものが覗いた。近くで物音がしたので見ると、隣のご婦人が杯を倒したらしかった。引き攣った顔で震えながら葛籠の方を一心に見詰めている。私も再びその方へ目を遣ると、先程の尖ったものはもう随分外へ出掛かっている。牛の角だと思った。遠くの卓で悲鳴がした。途端に辺りが騒がしくなり、席を立つ者も現れ出した。

「火箸の祀。箒の峰に参ずれば。御姿。御拠。暗くして尚。紅潮に奉じ」

 背筋が伸ばされる様な立派な声だった。葛籠からではなく、年寄りの入って来た扉の方からしたらしく、皆の視線は一斉にそちらへ向けられた。

 新郎新婦だろうと思われたのは衣装がそうだからであって、二人の顔は般若の面に隠されていた。辷る様に会場へ入って来ると、新郎の方が「び」と云った。先程のものと同じく物凄い声だった。それに応える様に葛籠の方からも声がした。しかしこちらは声になっておらず、熊の唸り声をずっと低くした様なおそろしい音だった。葛籠からはもうそのものが現れているが、はじめ牛の角だと思ったから勝手に牛だろうと当てをつけていたけれども、どうやらそうではない様で、人の形をしている気がするが、違う。人はあれ程大きくはないし、腕や頭もあんなに沢山はついていない。何より普通の人は人を食べたりはしない。増して招待されて来た客である。その様な失礼があってはならない。

 大騒ぎになったので、混乱に乗じて逃げようとしたのがいけなかったらしい。私は葛籠から出て来たよく解らないものの腕のひとつに捕まってしまった。南無三と云った言葉が頭に浮かんだ途端、新郎が来て私を捕まえていた腕を刀で切り捨ててくれた。腰を抜かす私を見下ろしながら、

「巻き込んでしまって済まない」と云って面を取った。髪の毛を掻き上げる姿に惚れ惚れする様な美男子だったが、やっぱり記憶のどこにもいない、知らない男だった。

 五 斑猫

 流れて行った雲の切れ端が、真黒になった向こうの山から角が生えた様に突き出している。日が沈んだばかりの空は未だ明るく、雲にもその淡い茜色を染み込ませている。山から地続きの、やっぱり真黒になった地面の上に、非常に大きな湖がぽっかりと穴の空いた様に空を映していた。あんまりはっきりと映すものだから、飛び込めばそのまま空に落ちてしまうのではないかと思われた。

 湖の畔に沿って少しばかり歩いた。日が沈めば夜が来ると考えていたが、幾ら経っても夜が来る事はなく、いつまでも空は明るい。時折骨の抜けた様な風が吹いて草木を鳴らした。それに紛れて鈴の様な音が聞こえる事もあった。辺りは開けており、木々や石塔らしきものが疎らに立つのが見える。らしきものと云ったのは皆真黒の地面の続き物の様な塩梅で、薄っすらとした輪郭の線より外には何も解らないからだった。

 疲れて来たので、岩の様な黒い塊に腰掛けた。茜色の空を、私は見上げるか見下げるかしている。菊村の下の名前もあかねと云った。つい先程まで私の手を取っておいおい泣いていたのも、もう随分昔の事の様に感じる。

 

 波紋が立った。立った先を見たが、何もない。「何が見えますか」と云って女が来たので、

「別に。何も見えないす」

「あんまり真面目に見てらっしゃるものだから」

 女の手に下がったランタンが、わたぼうしの団子になった様な明かりをぽろぽろとこぼしている。真黒の景色の中に、ランタンと一緒に照らされた手だけが白々と浮かんでいた。

「この筋を真直ぐ行った所に住んでおりますのよ」

 ランタンを下げた手が細い人差し指を立て、何でもない方を指した。

「そこに筋があるんすか」

「あら。見えません事」

「なんか、よく解らないす」

 女から微かに笑いが漏れた。

「それで、そんな所へ坐っていらっしゃるのね」

「まずかったすか」

「良いのよ」と云って、

「物が多いと、お掃除も大変でしょう」

「いきなりどうしたんすか」

「お腹が空いたら、あの向こうに飴屋さんがありますから。そこへお行きなさいね」

 今度は湖の向こうを指差した。やっぱり真黒だったが、私はその方へ行って見る事にした。

 いつの間にか星が出ているが、空は相変わらず明るく、私は星が出ていると考えているけれど、もしかすると星ではないのかも知れない。湖の波打ち際は小さな浜になっているので、砂粒のきらきらと光るのが空に映っているのではないか。

 もう随分そうやって歩いた様に思う。いつまで経っても飴屋らしきものは見えて来ないが、腹が減っていると云った事もなく、女に嘘を云われたとしても私にはどうでも良かった。

 ゆっくりと歩きながら、自分の気に掛かる色々の物事について取り纏めようとするけれど、どうにも上手く行かない。思い起こそうとした事柄が、水面に頭を出す前に薄まってどこかへ消えてしまう。紙と鉛筆でもあれば良いのにと思う。あの時の様に。今はどちらも手許にはない。

 湖から声がするので見ると、何かの影が遠くの方からこちらへ向かって来た。近づくに連れて段々と、小さな手漕ぎの舟である事や、姿は見えないが誰か乗っているらしい事が解り出した。舟は音もなく湖の上を辷り、岸の擦れ擦れまで来ると、

「乗って行かんかね」と掠れた声で云った。

「どこ行くんすか」

「向こう岸さ。歩きよりかはずっと楽だよ」

「飴屋には寄ったりしないんすか」

「飴屋にゃ寄らないが、向こうへ着いたら一膳飯屋だってある」

「なら、また今度お願いします」

「そうかい。お若い様だから、それでも良いんだろう。くれぐれもお気をつけてな」

 そうして来た時と同じ様に、音もなく向こうへ辷って行き、舟はやがて見えなくなった。通った後には細々とした波紋が広がっている。

 私は不意に気がつき、空を見た。湖のものと同じ様に、波紋の筋が雲を透かし、消え掛けたなりで星々にかぶさり、遥か彼方まで渡って行った。

 足許の石ころの様な塊を拾い、湖に向かって放り投げた。また直ぐに空を見上げ、じっとしているけれど、波紋が起こる事はなく、湖面にものが落ちる音も聞こえる事はなかった。(了)