静寂の鵺

 鼻先にちいさい冷たさがとまった。触れて見たが、何もなかった。顔のあちこちに同じ様な冷たさが灯り出した。雪だろうと思った。
 既に夜は深く、真暗で何も見えやしないが、これがお午間であれば一面の空の灰色から黒い雪の影が頻りに降り散らかすのが見えるのだろう。外套の懐に手を突込み、私は煉瓦の通りを歩いている。行く後先に瓦斯灯の白々とした明かりが先程から降り続く雪を浮かしている。往来に軒を連ねる店や家々の内から微かに人いきれのするより外には、どうやら私はひとりぼっちらしい。ただでさえ静かな夜だったが、雪が音を吸っていると見えて、とうとう自分の足音も耳まで届かなくなってしまった。あまり寒さは感ぜられないが、身体の冷めているのが解る。
 辻を曲がると行く先の狭い路地の突当たりに暖簾が出ている。連子の引き戸から漏れる光の筋は琥珀を溶かした様な色をしていた。こんな所に古風な店があったものだねと思うと段々嬉しくなってきたので、私は静かに戸を引いて中へ入った。
 狭いだろうと勝手に当てをつけていたがその広さは思いの外で、お客もそれなりに入っている様子だった。こんな時間に自分の様な物好きがこれだけいると云う事に益々嬉しくなった。空いた卓に就いて見ると、白い顔をした女中が音もなくやって来たので、
「燗と何か、そうだね。大根でもあれば持って来てくれないか」
「まあ。旦那様。大根をどうされるのがお好みですの」
 口許を変な風に隠して笑うから、
「火が通っていれば何でもいいよ」
「あら、あら。火なんかあったか知ら。ご免下さいね。未だここへ来たばっかりですの」
 そう云ったきり女中は奥へ引込んで行った。何となく身の回りが騒がしくなった様に思う。店は静かだったが、静かなりに纏まりのつかない声や物音が方々に立つのが解った。
「それで、」と不意に背後で声がした。私の後ろには衝立があり、その向こうには別の卓があったので、その席のお客だろうと思う。
「むかのしじくの頃合いに、泡沫を引っかけて小競り合いと来たもんだから」
 男の太い一本杉の様な声だった。
「ちいとばかし戯れてやっただけだってえのに」
 何の話をしているのかは解らないが、大層酔払っている様子だった。
「けれど、あの頃は皆ふいらしいでしょう。ほうき星みたいに。あなたも、わたしも」
 連れと思われる女の声がした。
「どうしてもと云うのなら、考えてあげてもいいわ。だけど億劫ではないか知ら」
「構わんさ」
「あら。そう?」
 女中が小鉢を持って来た。大根を鶏肉と一緒に煮つけたもので、食って見ると旨かった。箸を置いて杯を取り、何となく煮つけの入っている信楽を眺めながら一献傾けている。たちまちいい気分になって来たから、衝立の向こうで相変わらず続く会話を再び耳に聞かせる事にした。
「算盤があったでしょう。天袋に」
「未だあんな事をやっておるからな。好い加減にして置けばいいものを」
「いいじゃないですか。そうして気を引こうとしていたんでしょう」
「何ならいっそ、美野島に譲ってしまうのも手ではある」
「駄目よ。大切なものなんだから」
 それきり二人共黙り込んでしまったらしい。いつの間にか身の回りが森閑としており、先程歩いていた往来が思い返された。手許が暗くなった様に感ぜられたので上を向いて見ると、天井から吊ってあるぼんぼりの様な明かりが少しばかり瞬いたらしかった。私は杯を握る手を見詰めていた。衝立の向こうから声がするのを待っている。もしかするともう帰ってしまったのかも知れない。しかし私は席を立つ事が出来ない。
「旦那様」
 女中が来てしなを作った。
「何だい」
「まあ。嫌ですわ。こわい顔して」
「そんな事はないだろう」
「呆れた。まるでお留守ですのね。お迎えはいらっしゃるの?」
 懐から時計を取り出し、文字盤に嵌った硝子を頻りに撫で出した。その様子があんまり気味の悪いものだから止して欲しいと思ったが、どうにも頭がぼんやりしていけない。自分も大分酔払ってしまったらしい。目を閉じて見たが尚更いけない。私は頭を抱えながら、
「済まないが、水を持って来てくれないか」
「お断りよ」
 女中は私の肩をひと撫でした。猫の尻尾の様な触り心地がした。吃驚して顔を上げると、女中は私の背後を見ている。釣られてその方を向くと、衝立の向こうに後ろ向きの頭が出ていた。短く刈られた髪の毛がぼんぼりの明かりに浮かんでいる。
「あら、あら。お帰りでございますわよ。旦那様」
 こちらへ向き直り、女中はうふふと云って笑った。やっぱり気味が悪かったが、そんな事はどうでもよかった。私は男の頭から目が離せなかった。衝立の向こうで固まった様に動かず、仄かな明かりに浮かされているのが却って暗い海の底に佇む丸石を見る様だった。頭から下を見る事は出来ないが、きっと平生そうだった様に、草臥れた紺絣を着ている筈だった。
「兄さん」と声に出しかけた所で連れの女も起ち上がったらしく、衝立の向こうから今度は黒い頭がこちらへ覗いた。兄と向かい合う様な格好だったから、起てば私に顔が見えるのが当たり前だが、どう云った訳か女の頭も向こうを向いており、こちらからは後姿しか見る事が出来ない。後姿と云うのもおかしな話かも知れない。前合わせはきちんとこちらを向いているので、体を残して頭だけが向こうを向いてしまっている。
「兄さん。そいつは誰だい。そんな変な女と一緒にいてはいけない」
 衝立に手をかけて叫んだつもりでいたが、声が喉に引っかかりまともに喋る事が出来ない。
「旦那様」
 背後で声がする。
「変な女ですって。とぼけるのもいい加減にしたらどうか知ら。みんなご存知の癖に」
 女中が云い終わらない内に、衝立の向こうで石の様に動かない二人は動かないなりに段々と色褪せて行き、仕舞いには本当に石になってしまった。
「奉じ奉る。伽藍の隣。辷ったり。縮んだり」
 振り返るとそこはもう店の中ではなく、私は暗い路地の中途にひとりで起っている。向こうにひとつだけ灯っていた瓦斯灯も不意に明かりが落ちて、一帯は夜の暗闇に満たされた。(了)