朔日(第二版)


第三夜

 大学へ通っていた頃に下宿していたアパートは灰色のコンクリートで出来ており、外から見ると大きな墓石の様だった。その上内廊下だった為、友人なぞを招く度に監獄の様だねと揶揄されたものだった。私はどちらかと云えば先程述べた通り墓石であると考えていたが、部屋にひとつだけある明かり取りから明け方になると青黒い光が差し込んで来て、水底の様な色となった身の回りを眺めながら、成る程確かに監獄の様だと感心したのを思い出す。
 お午過ぎに目を覚まして、顔も洗わずに布団の上に坐っていると、廊下の方から人の怒鳴り声が聞こえた。よく解らない事を喚き散らしながら行ったり来たりする者があるらしかった。その声を聞くともなしにぼんやりしていたが、やがて部屋の扉を無闇に蹴ったり殴ったりする様な音が響き出した。大層な主張があるのは承知するけれども、余所でやってくれれば良いのにと思う内に私の部屋の前まで来た様だった。
「八方随喜の涙を滲み、断ずべくして断ずんば却ってその乱を受く事になるぞ。解っているのか。おい」
 そうして扉が烈しく音を立てた。拍子を取っている様な感じもしたが、人の家の扉で拍子なぞ取るものではない。
 暫く音が鳴り響いたが、気が済んだらしくやがて声はゆっくりと遠ざかって行った。私は扉をそっと開けて外の様子を伺った。廊下の向こうを桃色のスウェットの上下を着た下駄履きの大男が禿げ散らかした頭を左右に揺らしながら歩く後姿が見えた。
「うるせえばーか」と声をかけた途端に男はこちらへ振り返った。男の顔は目鼻があべこべにくっついている様に思われたが、急いで扉を閉めたので詳しい所は解らない。
 それ以来彼は度々このアパートへやって来るが、私の部屋の前に居る時間が段々と伸びている様だった。