朔日(第二版)

第一夜

 風邪を拗らせて咳ばかりしている。自分の狭い家では咳の音が随分響くらしく、自室や茶の間に居ては家の者に迷惑がかかると思い、風呂場に来て閉じ籠っていた。咳をする度にあっちこっちでこだまがしてうるさかったが、うるさいのは自分だけだろうから良いと考えていた所に母親が来て、八釜しいから出て行けと云った。その時分は家の周りも今程拓けておらず、山や森ばかりが鬱蒼とする中にちいさい神社があった。私には外に行く当てがなかった。秋の深まりつつある時候にあったと記憶している。
 大鳥居の下に蹲り、遠くを走る車の微かな音を聴いていた。辺りにはすっかり夜が落ちているけれど、ここに来てからどれ程の時間が経ったのかは解らない。神社の暗がりの中でひとりでごほごほやっている。熱と鼻水が私の頭を暈していた。頬に当たる夜風が心地良かった。
 不意に人気がしたので振り返って見ると、奥の境内の方から知らない女が歩いて来た。鳥居の傍にひとつだけ灯っている外燈がからからと鳴った。女は明かりの下に起ってこちらを見た。
「今晩は。ぼく、こんな所で何やってるの」
 よく通る美しい声だった。
「こんな遅い時間に。ひとり? お母さんは? 早く帰らなくちゃ、人さらいに取られてしまうわ」
 私は二三遍咳込んだが、女に返事はせず黙って地面を見詰めていた。
「まあ。風邪引いてるの? 寒いもの。駄目よ。お家に帰らなくちゃ」
 女が傍にしゃがみ込む気配がした。飴色のパンプスと小花柄のスカートが目に入った。微かに香のにおいがした。
「大丈夫?」
 遠くで大風が吹いたらしく、木々がさざ波の様な音を立てた。
「お姉ちゃんは、何してたの」
「お散歩に来てたのよ」
「金槌なんか持って散歩してるの?」
「うふふ」
 私は女の顔を見た。長い髪の毛が風に靡いて絡んでいるが、それでも人に好感を懐かせる優しい笑顔をしていた。
 夜が更け、風も止み、辺りが段々とどこか深い所へ沈んで行くらしい気配の中で、私は女と取り留めのない話をした。
 家へ帰ると家の者は皆寝静まっている様だったから、出かける前に鍵を開けておいた窓から忍び込み、急いで自分の部屋へ行って咳の音が漏れないように布団へ潜り込んだ。
 女とはそれきり会っていない。どうなったのかも解らない。