経立(第二版)

 しんしんと冷たさが積もる様な冬の寒い日に、部屋でこたつに潜っていると玄関から声がした。行って見ると村井のおじさんが来ており、経立が出たから戸締まりをしっかりしなさいと云った。真剣な顔をしていたから本当なのだろうと思う。どうやら犬の経立で、茂田さんの家に昔飼われていたラブちゃんであるらしい。ラブちゃんは五年程前に山へ入ったきりなので、五年やそこいらで経立になるのか知らと思うが、解らない。幾度か散歩に連れて歩いた事がある。大きく、賢く、黒いラブラドールレトリバーだった。
 明くる日は集団登校となった。自分は今高校生なので大人と一緒に中学生や小学生の先導に立った。往来のあちこちに警官や自警団が立ち、時折真赤な非常灯を回すパトカーと擦れ違った。サイレンは鳴らしていなかったので静かだった。静かな朝だったが、何となく混雑した様な気配を感じた。
 学校では教員から山には決して近づかないようにとのお達しがあった。町は背の高い山々に囲まれているから、そうするとここも見方によっては山の中になるのではないかと考えたが、きりがないので止めた。学友の間では、経立なぞと云うのは子供を山へ近づけない為の方便であり、実際の所は熊や猿、猪の様な大きな動物が悪さをしているのだろうと云った説が大勢を占めていた。本当に妖怪みたいなものが居た方がロマンチックだわと云った声もあったが、こうした云い分はあくまで願望に過ぎなかった。
 授業を受けている間も、どこか纏まりのつかない気持ちで居た。ふとした折に窓から山を眺めると、変な所から細い靄が立ち、天辺の辺りには厚い雲が載っかっていた。雨が降った訳でもないのに木々の色が暗く沈んで見えた。

 そうする内に夜になった。静かな夜だった。警官や猟師が見回りに当たっているらしいが、辺りは平生にも増して静まり返っているらしく思われた。虫の鳴る時候でもないから、部屋でこたつに潜りじっとしていると、星の瞬く音や雲の動く音でも聞こえる気になって来る。明かりも点けない方が良いとの仰せであったので、さっさと寝てしまおうと考えていた所にナオちんから電話がかかって来た。
「明日ガッコ、休みになんないかなー」と云うから、
「なっても外出れないしょ」
「そっかな。良いよー。ヒッキーしてるし。ねえねえ、あんた知ってる? フッタチって何なん」
「ウチはないけど、じーちゃんが見た事あるらしいよ。昔。ちょーデカイんだって」
「キモいよねー。何か、笑うんでしょ。人の顔見て。マジキモーい」
「でも今度のやつ犬らしいじゃん。案外カワイイかもよ」
「え。マジで云ってんのそれ」
「見に行って見よっかな。暇だし」
「やめときなよー。食べられちゃっても知らんよー」
 外へ出ると冷たい夜気が総身に纏わりついて来た。ナオちんにはああ云ったけれど、私はラブちゃんの事が急に心配になっていた。今度の経立は恐らく熊か何かの見間違いだろうと思う。犬の経立なぞ聞いた事がない。そうするとラブちゃんは今も山に居るのではないか。古びた木立の傍にひとりで居るのを想像すると、胸が締めつけられる様な気持ちがした。ラブちゃんの事は子犬の頃から知っている。ぼたん雪の頻りに降り続く日に、私の長靴にちいさい鼻を押し当ててくんくんやっていた。茂田のおじさんがこんなに人に懐いた事はないよと云ったのを聞いて非常に嬉しかった。どうして今まで放って置いてしまったのだろうか。ラブちゃんを連れていた茂田のおじさんはとうの昔に亡くなって、今はお婆さんがひとりで暮らしているから、山へ入って捜す者なぞ居ないと云うのに。
 明かりのする方にはきっと人が居るので近づかない方が良いだろうと思う。外燈もまばらな田舎道だから、陰になった裏道や田んぼの畦道の様な所を選んで歩き、段々と人気のない方へ向かって行く内に山の麓まで来た。見上げると黒々とした影に夜空との境目がない。その中から時折空に向かって光の筋が流れる事があった。山狩りかも知れないが、そこまでやるものだろうかとも思った。仕様がないので道の通わない所からいきなり山へ入って行く事にした。
 やっぱり山の中は真暗だったが、木々の梢から星の光るのが眩しい程で、辺りの風物を浮かしている様に思われた。石や草葉の表が薄っすらと色を湛えている。懐中電燈を持って来ていたが、あんまりきれいなので点けずに行く事にした。
 そうして自分の息の音ばかりを聞く内に深い所までやって来たらしい。どちらを向いても鬱蒼たる森林と云った佇まいだが、もしかするとそうではないのかも知れないと云った気になって来る。大きな岩の上に腰かけて黙っているけれど、水底に居る様な静けさで辺りから物音がまるでしない。自分の息をする音ばかりが聞こえる。上を見ると星々が嫌にはっきりと見える。検討の都合かも知れないけれど、月はない。昨日はあの辺りに出ていた様に思う。
 遠吠えがした。何の声かは解らない。聞いた事のある様にも思うし、はじめて聞いた様にも思う。不意に自分は何をやっているのだろうかとと思った途端、顔や手が痛み出した。知らない内に木の枝や茅草で切ってしまっていたらしい。来た道も覚束ないので帰られなくなったらどうしようかと考えたが、帰った所でそうするのかと思い直した。
 遠吠えがした。獣とも人ともつかない。声を辿って見ようと思った。幼い時分に祖父に連れられてよく山へ出たり入ったりしたのを思い出す。鳥や花、きのこやちいさい動物の名前を沢山教わったけれど、もう忘れてしまった。父が母を殺し、自分も首を括ってから、永い事祖父と二人で暮らしていた。その祖父も先日亡くなり、その悲しみが今更私の中に流れて来る。父母や祖父の事ばかりではない。思い起こされるものは皆悲しい。肌がじんじんと痛むので、血が出ているのだろうと思う。
 峠が近いらしい。よくもこんな所までやって来たものだと自分でも感心している。もう歩く気持ちにはなれないが、それでもゆっくりと進んで見ようと考えている。
 不意に太く大きな木の根元に何か動くものを見つけた。形がはっきりとしないが、何か蹲っているらしい。犬にしては大きい様に思うが、熊にしてはちいさい。
「ラブちゃん?」
 声をかけながら近づいて行って見ると、暗がりの中からいきなりこちらへ向かって伸びるものがあった。蛇だといけないので手で払ったが、触った感じが蛇とは違う。変な所で止まったきりになっているのを見ると、人の腕らしかった。
「誰?」と声をかけたが、返事はなかった。代わりに起ち上がる様な気配がした。
 獣の唸る様な声で「女かよ」と云ったと思うと、遠くに細い光が立った。そちらへ気が向いた途端に大きな影が私にかぶさって来て、そのまま地面に押し倒されてしまった。大きな男だった。
「何だ何だ。どうなってやがんだこの糞田舎は」
 掌で口許を塞がれ、声が出せなくなった。ひどい鉄のにおいがして気持ちが悪くなった。
「まあ良いや」
 胸の辺りを無闇に弄られた。押し退けようとすると頬に冷たい感触がした。
「騒いだら殺す」
 恐らく刃物だろうと思ったので、観念して目を瞑った。男は私に馬乗りになって、変な調子の鼻歌を歌いながら着ているものを脱がせ出した。静かな晩だと思っていたが、鼻歌と、布を裂く様な音と、辺りの木々の鳴る音が一緒になって身の回りを騒がしくする。警察や大人達はこの人を捜していたのだろう。自分は何を考えて山に入ったのか。ここへやって来るまでに浮かんで来たもの、或いは平生心の底に仕舞い込んでいた事をまともに思い直していただけなのかも知れない。こんな人に会う為ではなかったけれど、もうどうでも良いや。
「あ?」
 不意に男の手が止まった。目を開いて見た所男は顔を上げて呆然と向こうを見詰めている。
「なんだこれ」と云ったきり男の頭が消えた。夜の闇に紛れたのか知らと思ったが、目の慣れるに連れて闇だと思っていた所に何かの毛並みがある。黒い獣の軽トラックよりもまだ大きい顎が、男の頭を食い千切ったらしい。獣はこちらへ顔を向けると、鼻先をくんくんと鳴らしながら擦り寄って来た。
「そこに居たの」
 男の身体を退かし、起ち上がった。随分大きくなってしまった。近づいて鼻の周りを撫でてやった。毛が枯木の皮の様に硬い。瞳を覗くと星明かりを照り返して潤んだ様になっている。そのまま抱いて顔を埋めた。微かに森のにおいがした。
「経立になったのね。ずっとひとりぼっちだったんでしょ」
 後から後から涙が流れた。
「ラブちゃんのおじさん、もう死んじゃったよ。私のお爺ちゃんも死んじゃった」
 大きな身体が私を包み込んだ。温かかった。
「ひとりってどんな気持ち? 寂しい? 寂しかったら、私の事連れてっても良いよ。一緒に山に居るから。そうじゃなかったら、殺して。この人みたいに、私の事も食べてよ。お願い」
 俄に遠くから人いきれが立ち出した。大勢の雑踏が近づいて来る。山狩りの一団だろうと思われた。
「ラブちゃん」
 経立は身を起こすと私の顔をまともに見た。ゆっくりと尻尾を揺らし、牙を剥いた。人の笑った顔を真似ている様に見えた。
「そこで何してる」
 身の回りが明るくなった。
「なんだこりゃあ」
「お巡り。お巡り呼んで来い」
「笹乃さんとこの孫っ子でないか。しっかりせえ」
 今も昔も変わらない。黒く、大きく、賢く、優しい。振り返るともうすっかり消え失せており、後には山の暗さと、立ち並ぶ木々や落葉、岩肌、高く煌めく星々が残されるばかりだった。二度と会う事はないのだろう。それで良いと思った。

 大学へ上がり、それから社会に出た。今でも時折、鏡の前であの晩に見た笑いを真似る事がある。力いっぱいに歯を剥いて笑うと、日々の明け暮れに纏わる憂悶が取るに足らないちいさい事の様に思われて来る。
 自分に牙はないけれど、今の所そうやってどうにか世間に食らいついている。(了)