田苑(田んぼの道:第二版)

 眩しい程に白い、大きな入道雲がぽっかりと立ち、向こうの空を隠している。その直ぐ下には青々とした山が尾根を連ね、腹には雲の影を浮かす。影はゆっくりと山腹を辷るらしかった。
 私の起っている一本道はずっと向こうまで続いている。仕舞いが白んで見えない様な長い道だった。
 外には一帯に展がる田んぼと、何だろうね。どうやらもう何もない。こんなに何もない所に一体何の用事があって来たかと云うに、こんな所にどう云う訳だか知り合いが住んでいる。しかし用事なぞなくとも、私はこの道が好きだから何遍でも通いたい。何もない道がどうして好きなのかと云われると、何もないから気に入っていると答えるより外ない。
 黙々と歩く内に、行く先の遠くに白みかけている所からこちらへ手を振る影が見え出した。辛うじて人の形をしているのが解るのみで、背格好や人相、男か女か、若いのか年寄りかも解らない。薄らとした影がゆっくりと手を振っている。文脈からすると私の用事の相手だが、あっちまで行ってから確かめれば良いだけの話だと思い直した。
 田んぼを潜り道まで渡って来た風が総身を撫でた。何だか湿っている様な心地だったが、大方稲の下で水を吸って来たのだろう。いつの間にか入道雲がなくなって、後には冗談の様に青い空ばかりが残されている。あれが死であると云う。あれが死であるならば、生きる気になって来る。知らない大きな鳥が音もなくやって来て、そこいらをいつまでもぐるぐると廻っている。歩けども歩けども一向前に進んだつもりにならず、また向こうの影も道の長さも変わらない。誰だか知らないけれど、今も手を振ってくれているが疲れやしないだろうかと思う。
 不意に後ろからラッパの音がした。振り返ると軽トラックが信じられない程ゆっくりとこちらへ向かって来る。道の端に避けてやったが、相変わらず亀の歩く様に目の前を進んで行く。私は思い立ってその軽トラックの荷台へよじ上って見た。少し藁が積んであるので寝転がったが、やっぱり底の鉄板が背中に触って痛いので、寝転がるのは止して藁の上に坐る事にした。
 そうやって荷台の上で揺れる内に日が暮れ出した。いつの間にか犬や鴨が一緒に乗っている。私は軽トラックの荷台に居た筈だったが、今居るのは馬に引かれた荷車の上で、見た事もない峠の細い道を走っている。こちらに背を向けた大男が手綱を握っているらしかった。訪ねて行くつもりの知り合いだった。
「おいおい」と声をかけて見た所、「なん」と返って来たので、
「ドカポン返しに来たぞ」
「あんなもん一人でやったってしゃーねえだろ」
「うん」
「病院寄ってくわ」
「病院?」
 忽ちびゅうびゅうと風を切る音がし出して揺れがひどくなった。
「遠ざかるならこちらも合点が行く」と云うから、
「何が」
「向こうが勝手に遠ざかって行くなら承知出来るかも知れないが、自分が止まると向こうも動かない。こんな馬鹿な話はないと思わないのか。そうするとやり方なんぞ幾らでもある」
 おかしな喋り方をするねと思う内に荷車は山の中をぐんぐん進み、長い下り坂へ差しかかると尚の事速さを増した。こわいので端にしがみついていると、いきなり坂が終わって展けた場所へ出た。荷車も止まったので辺りを見廻すと、どうやら田んぼを通る一本道であるらしい。
「ほれ」と指差す方を見ると、道のずっと向こうの白けた所に影が起ち、こちらへ手を振っている。
「わかったような、わからんような」と応えてやると、
「何だよ」
「こんなのが続くのかい」
「知らんわ」と云ってこちらを向いた顔を見ると、まさしく自分の見知った知り合いだった。
 観念して犬の頭を撫でていると、荷車は再びゆっくりと動き出した。(了)