エムプサ

 夢を見ていた。何の夢だったのかはもう忘れてしまった。私は暗い部屋の中にひとりで坐っている。
 永年連れ添った家内に先立たれ、喪に服していたつもりはなかったけれど、身の回りが何となく纏まらない様な気持で日々の明け暮れを過ごしていた。この頃は空を眺める時間が増えた気がする。薄く広いぼんやりとした空が落ちて行くのを不思議に思っている。私の見る折には決まって雲がひとつもなく、時候なぞお構いなしに仄明るい秋晴れの様な空が心をうつろにする。不意に燕の様な影が横切ったと思うと、目が覚める。
 やっぱり暗い部屋の中に居り、辺りを手で探って見た所、何か指先に触れるものがあったので目を遣ると家内の膝頭だった。吃驚して起き上がろうとしたが身体が動かない。顔を見たいと思うけれど首も動かないから私は家内の名を呼んだ。「何云ってるんですか」と声がして額に細い指先が触れた。
 目を覚まして布団の上に坐っている。或る午下がりに庭をうろうろしていると、ちいさいカナヘビが隅の植木の下に潜って行くのが見えた。尻尾の先がしなを作ってしゅっと引込んだと思うと、何だか足許が柔らかくなる様なおかしな気持になった。それでようよう決心がつき墓前へ参じた次第だったが、花も線香もないので私は起った儘じっとしている。どこかで風が吹くらしく、木切れを打ち鳴らした様な乾いた音が時折響いた。水を吸って黒くなった卒塔婆が転がっているが、そうすると辻褄が合わない。私は墓を暴き、骨壷を取り出すと蓋を開けて見た。骨壷の縁いっぱいに家内の顔が詰まっており、こちらを見て目を細めるなり口を鯉の様にぱくぱくと動かした。口許へ耳を近づけた所で目が覚めた。
 私は寝床から這い出して表の土間へ向かった。上框まで来て息を切らしていると「こんなとこまでほいほいついて来る」と云うから顔を上げて見た所、家内ではない知らない女が居た。
「べろが出てるわよ。お寝坊さん」
 女はちいさい口許からやっぱりちいさい舌を出して見せた。みとれる様なきれいな女だった。
「耳もあんなにとんがって。きっとみずおきのおさまり具合がいい加減なのね」
 何を云っていると応えたつもりでいるけれど、一向自分の声が聞こえない。
「笑い目のくにだおれ。ふみにきかれてすってんころり。ほほほ」
 笑った顔が益々きれいだったが、口許に当てた手の形がおかしい様に思う。ひとつ目の小男が来て女の横で突起っている。こちらは私が目を覚ますまで一言もものを云わなかった。何を考えているのか解らない顔で人の顔を見詰めている。
 雲が月を隠す様な時刻に子供が外で遊んでいる。私は部屋でじっと坐っているが、声で解る。二三人が揃って歌を歌う様子で、所々間延びしたり途切れ途切れになったりして落ち着かない。こんな歌を誰が教えたのか。上辺をなぞるばかりで歌の意味と云うものをまるで解っていない。夜更けに一体追善の曲なぞ子供に歌わせてどうする。家内を呼んだが返事はない。自分が出て行って懲らしめてやろうと思う。下駄を突っかけて玄関の戸を開けた途端、蛸の脚の非常に大きいのが幾つも中へなだれ込んで来た所で目が覚めた。
 湖の畔で木立にもたれて坐っている。背の低い草が隙間なく一帯に生しており、お尻のちくちくするのを感じる。私は煙草を喫みながら水面を眺めていた。日差しを照り返して波頭が光っている。
「急に暖かくなりましたね」
 家内の声だったが、どこから聞こえるのか解らない。私の見えない所に居るらしい。
「うん」
「九郎の富さんにお返ししましょうね」
 風が吹いて辺りが鳴った。
「うん」
「金飼さんにご挨拶はよろしいか知ら」
 今際の際に至っても家内はその様な事ばかり気にかけていた。そんな事はいいから自分の身体の心配をしなさいと云って、布団から手を出し握ってやっても、家内は目を瞑ってゆっくりと息をするばかりだった。あんまり苦しそうにするから、可哀想になって額の汗を手拭で拭う内に、不意に目を開いてこちらをまともに見た。
「ああ。あなた。抽斗に仕舞いっぱなしだわ。忘れてはいけませんよ」
 それが最期の言葉になった。抽斗は未だ見ていない。
 私は目を覚まし、直ぐ様茶の間へ行ってそこいら中の抽斗を開けて回った。どうした訳か開ける度に黒い粉が吹き出して、たちまち部屋の中が焚火を焚いた様に煤けてしまった。ごほごほやりながら最後の抽斗に手をかけ思い切り引張ると、すっぽ抜けたはずみで部屋の真中辺りに落っこちた。濡れた様な音がしたので行って中を覗いて見た所、真黒になった人の耳が五六枚並んでいた。耳たぶの所に荒縄を通して纏めてあるらしい。(了)