春の雨

 春の雨

 町を瓦礫の山に変えた獣と共に乾さんが焔の中へ消えてからもう七年になる。
 幸い墓所に被害はなく、時間の経つに連れて人も戻り出した。そうして暫くの間は町の復興に掛かりきりだった。
 自分が忙しくしている内は上の空で居たが、落ち着いて見ると色々の思いが浮かんでは消えた。どうした因縁であの様な事になったのか、私にはさっぱり解らないからひとりでくよくよと考えても仕様がないけれども、皆々大方元通りになり平生の明け暮れが戻って来ると一層その事ばかりが気に掛かる。
 外に誰も居ないので乾家の片付けに入った折、あの日記に何か手掛かりがあるかも知れないと思い立ちお屋敷中を検めたが、その様なものはひとつも見付からなかった。書斎へ行っていつも仕舞っている本棚を見ると空になっていた。ここを立つ前に皆捨ててしまったのだろうか。主を失ったお屋敷は森閑として、私は柱や床を拭いたり叩きを掛けたりして清めた後、あの大きな門構えの前に立ってぼんやりとしている。お屋敷から冷たい風が流れて私の総身に触った。乾さんはここで何を見ていたのか、畏れ多くも同じものを見るつもりで居たけれど、目の前には白けた町並みが広がるばかりで、その内に私はぼんやりとしたなりでお屋敷を後にした。
 地雨がゆっくりと桜を散らし、行く先に点々と色を付ける。お午間の静まり返った往来を、或いは露天の明かりに目を細める夜の通い路、また墓所の足場の軋む音を耳に聞かせながら、この頃は雨を見る機会が増えた。狐の嫁入り、誰そ彼の春時雨、真暗の空から不意に頬へ触れる水のぼやけた感じに非常な郷愁を覚える。いつしか家へ帰る事もなくなり、墓所にばかり居るようになった。心配をしてくれているのであろう町の人や墓所の者達が頻りに私の許へやって来て、言葉を交わしたり食べ物を頂いたりするが、申し訳ない気持ちばかりが先に立ち、そうかと云って一向自分の心持ちが変わらない事をもどかしく思う。
 仕事を終え、乾家の墓標のある足場の縁に腰掛けた。この日も夜の闇の中を雨垂れの筋が瞬いていた。遥か眼下に灯る町明かりに、もう嘗ての滅びの面影はない。雨に混じって時折花びらの色が舞った。カンテラの明かりを掠めて直ぐに消えてしまうが、私の目にはいつまでも残り、今も暗闇の中に浮かぶ様だった。
「終わりました」と云って与亥が来た。大荷物を抱えて肩で息をしている。
「ご苦労様。わざわざこんな所まで来なくても良いのに」
「いえ、いえ。出来るだけ先生の仕事が見たいすから」
「止してくれよ。先生なんか」
 与亥は呆れた様な顔をして、
「何仰るんすか。もっと偉そうにして下さいよ。ここを一等知ってるのは先生なんすから」
 鵲の夫婦亭の一人息子だったが、随分前にお神さんは亡くなって、私が弔った。暫くの間はおやじと二人で店を切り盛りしていたが、雲呑の一件でそのおやじも逃げ出してしまい、とうとう帰って来なかった。本人がそうしたいと云うから私が引き取って仕事の手伝いをして貰っている。人にものを教える事の難しさは思いの外で、好い加減な目方でやっていたつもりはなかったけれど、作法や手引なぞを何か覚書の様なものに残して置いた方が良いかも知れない。
「どうぞ。家で弁当拵えて来たんで」
「有難う」
 先日傘の貴人にお目通りが適い、与亥の名を賜った。背が高く筋骨も優れているので、「妾もこの方が好みであるぞ」と大層喜んでおられた。よく森の中へ入って散歩のお供なぞに付いている様だが、難事を押し付けられたりしていやしないかと心配になる。
「もう大分仕事は覚えたかい」
「まだまだす。先生が涼しい顔してやってるのが信じられないす」
「段取りを覚えてしまえば、後は慣れさ。与亥は筋が良いから、その内立場も逆になるだろうね」
「滅相もないすよ」
 与亥はそう云ったきり黙り込んでしまった。よくやってくれていると思うので落ち込む様な事はない。私は与亥を本当に自分の跡取りに出来ればと考えている。天涯孤独の身であるから、同じ境遇の彼に面影を重ねると云う事があるかも知れないが、そうした事を抜きにしても才能はあると思う。墓守の才能と云うのもおかしな話だが、出来ない者には出来ないからやっぱり才能と云うより外ない。
 二人して黙って弁当を食っているのだけれども、おかずの蕗が非常に旨く、流石に仕込まれていると感心していた所、
「乾のお嬢様は、もうここにお祀りされたんすか」
 いきなり云うものだから吃驚して与亥の顔を見ると、向こうも真剣な目をして私を見ている。
「いや。……何度も考えたけれどね」
 恐らく二度とここへ戻って来る事はないだろう。しかしだからと云って死者の列に加えると云う風な話にはならない。そう云えば与亥は自分の父親もここで供養したいと頻りに話していた。物事の区別のはっきりとした男なので、私の姿勢が気に食わないと見える。
「捜しに行かなくて良いんすか」
 そう考えていた矢先に出た言葉だったので、私は尚の事驚かされた。
「俺、ずっと見て来たし、先生とお嬢様の一緒に居るとこ。それに、あのお方にも教えて貰ったんす。先生に名前がないのは、お嬢様に考えて貰ってる途中だからだって。あの病気に罹る前から。先生。仕事は俺がどうにか引継ぐんで、お願いします。始末付けに行って下さい。先生が毎日ここに来て、乾のお墓に向かってるのを見るのが、俺には我慢ならないす」
 気持ちは有難いが、そんな事を云ったって、どこをどう捜せば良いのかと云い掛けたが、その様な事はとうの昔に承知していた。私には解っている。それにも関わらずいつまでも考え詰めるばかりで、ここを出て捜しに行く事なぞ一向思い付きもしなかった。こわいのだろうか。何がこわいのか。私は一体何を恐れていると云うのか。乾さんの今のお付きが雲呑だからか。違う。雲呑がこわいのではない。いや、こわいはこわいが、今考えている事とは筋合いが違う。
「参ったな。弟子にこうも云われちゃ」
「すんません。少し調子乗り過ぎました」
 与亥はそう云いながらも相変わらず真剣な顔をしてまともに私を見ていた。

 久しく空けて置いた我が家に戻り、棚から半紙を出して床に敷き、私はその前に坐って居住まいを正した。墨を擦り筆を取ると、厳かな気持ちで“留守にしております”と云った文言を綴った。しの字が気に入らなかったので丸めて捨てた。筆で書くのに最も難しい字はしの字とのの字だと常々考えている。書いては捨て、書いては捨てを繰り返し、身の回りには丸めた半紙の山が出来つつあった。しかし止める訳には行かない。こう云ったものは納得の行くまできっちりと仕上げなければいけない。ようよう及第と云えそうなものが出来上がったので、両手で摘んで顔の前まで持って来て、墨痕の甘い所がないか、筆運びのないがせになっている所はないか、何遍も見直しをした。
「うむ」と云ったのが自分の声だと解ると途端に恥ずかしくなって来たが、表へ出て行って戸にそれを貼り付けた。
 与亥はもうひとりでも立派にやって行けると思う。私が居なくともひとかどの墓守としてきちんと仕事をこなしてくれるだろう。あれは真面目過ぎる所があるが、年々歳々身体を楽に保つ術も身に付けて行ける筈で、それが即ち墓守の奥義となるから、与亥ならば必ずその境地に達すると信じている。今まで良くしてくれた人達にお礼のひとつも出来ないのが残念だが、何しろ私には人様に供する事の出来る財産なぞない。ふらっと居なくなってふらっと帰って来るのが良かろうと思う。挨拶なぞ性に合わないからこれも省いてしまって構わないだろう。土産をたらふく持って帰れば箱柳や合歓の様な強突く張りにも顔向けが出来る。
 はじめはどこへ行こうか。雲呑の足取りを辿るとするならば、卓袱山の尾根伝いに西へ抜けて先ずは三又旗町へ入るのが真当で、そこから船に乗って外国へ渡る事となるが、昔煙草を送ってくれた友人が居るので挨拶がてら寄って見るのも悪くない。そうして行く先々の仏を供養しながらゆっくりと回ろう。また各地の死者の弔い方、その理屈や仕来りを勉強したいとも思う。急ぐ旅ではない。私は乾さんの見た景色を見て、乾さんの感じた事を解ったつもりになりたい。身近に居た頃には出来なかった事だった。
 纏めた荷物を背負って見ると思いの外重たかった。少しばかりいらないものを詰め過ぎたかも知れない。枕はいらなかったか知らと考えながら外へ出て見ると、夜明け前の青さが一帯に満ちており、そこへぼんやりとした雨がかぶさって景色は皆潤んでいる。雨の出立は私にとっては望む所だった。
 町を出て、暫く歩いた所で私は振り返った。遥か遠く、巨大な一本の樹に見える墓所が浮かんでいた。見納めになるかも知れないと思うと、見慣れた光景からいつまでも目が離せなかった。

「持場を全うするのが本領だ」
 幼い時分に聞いた父親の言葉が私の頭に響いた。私は父親に似たのだろうと思う。いつか誰かに云われた通り、気難しい質であると自覚しているし、父親との思い出話なぞ殆どない。あるのは仕事の手ほどきを受けた事とそれに纏わる知識のみで、母親に至っては顔も禄に思い出せない始末だった。これでは乾さんの事を云えたものではない。自分がものを忘れてしまってから、忘れる事のおそろしさ、寂しさを今更の様に思い知らされる。
「俺達は召使いではない。増して奴隷なぞでは決してない。自分の意志で仕え、自分の意志で遂行する者でなければならぬ。努々忘れてくれるな。おまえにもいずれ解る日が来る。先祖代々受け継がれて来た職務と雖も、俺は一度たりとも自分の仕事を誰かの為にしてやった覚えはない。おまえも、おまえが何の為におまえであるのか、自分で選べば良いのだ」
 大きな手が私の頭に触れた。温かかった。今も鮮明に覚えている。初めて墓所の天辺まで連れて行って貰った折に、足場に二人して腰掛けていた。星が直ぐ側にあると思った。父親の言葉は、今もあの星々の煌めきの様に私の中で輝いている。

「今日は」
 子供の乾さんが目の前に起っている。誰そ彼の曖昧な色の中で、鞠を抱えて。
「どこから来たの?」
 心臓を掴まれる様な美しい声だった。
 同じく子供の私が、「お墓。です」と辛うじて応えた所、
「まあ。あんな所から来たのね。お名前は何て云うの?」
「名前、……」
 これ程美しいものを見た事がなかったので、まともに見る事なぞ出来ないが、離れたくもないと思った。
「名前よ。私は春子よ。乾の、春子って云うの」
「名前、……。名前は、ない。です」
「まあ」
 何だかその場に居た堪れなくなって来て、私は泣き出してしまった。大粒の涙が頬を伝って地面に落ちるのを黙って見ていた。
「大丈夫よ。泣かないで」
 ちいさい掌が頭に触った。
「ねえ。あなたの名前、私が考えても良いか知ら」
 私は恐る恐る乾さんの顔を見た。美しく微笑んでいた。
「待ってて。うんと考えて、とっても素敵な名前にするから。そしたら、もし私の考えたあなたの名前、気に入ってくれたら、ともだちになって。一緒に遊びましょうよ。お墓にも連れてって。二人なら、きっと楽しいと思うの」

 それから私は待っている。もう随分永い事。何故こんな事が今更思い起こされるのかは解らない。しかし平生そこまで思い及ばないだけで、本当はその事ばかりを考えているのだろう。
 春の雨が身体を濡らす。雨の先には雲の縁が薄っすらと光り、もうじき朝日が顔を出すのだろうと思われた。雫が額を流れて目に入ったが、お構いなしに私は墓所の高みを見上げている。そうして目の中に溜まった雨がこぼれて頬を伝い、地面へ向かって落ちて行く。やがて私が踵を返し、旅路に就く頃には雨は止み、道端に点々と空いた水溜りが真白の雲と青空を映し行く先を飾った。(了)

1 話 2 話 3 話 4 話 5 話 6 話

カテゴリー: 81~.