春の雨

 霞候一景 

 春の嵐が晩まで続き、私は布団の中で家や周りの木々の鳴る音を聞きながら眠った。
 明くる朝には随分静まったと見えて、起き出した私の耳に入って来る音はなかった。雨戸から漏れる日差しの細い筋が埃の粒を浮かしている。薄暗い家の中を行ったり来たりしていると、表の戸を叩くものがある。
「ご免下さい。ご免下さい。どなたか」
 声からするに二軒隣の乾さんだろうと思われた。四半期ごとに覚えた事をすっかり忘れてしまう人で、この分だとまた私の事なぞ忘れてしまったらしい。
「はい。はい。今開けますから」
 出て見るとやっぱり乾さんだった。
「ご免なさい。私、何が何だか。目を覚ましたら何にも解らなくって。けれど、枕許の日記帳を見たら、私の名前とこちらのお宅へお伺いするように書いてあったものですから」
 一息に云い切ってしまうのも毎度の事だったから、
「ええ。ええ。存じておりますとも。あなたは乾春子さんでございます。お歳は二十四。ご両親はもうお亡くなりになって、その上ものを忘れるご病気に罹ってお出でですが、呉れ呉れもご心配されませんように。皆存じておりますから。この辺の者は皆」
 そこまで云うと、乾さんは大きな涙を続け様に幾つも流した。
「そうですか。そうですか。ご免なさい。いつもご迷惑をお掛けしております」
「どうかお気を確かに。困った事がございましたら、何なりとお申し付け下さい」
 こうした事があると、もうそんな頃かと思う。私が乾さんの身の回りの事を引き受けてから十三年になる。
 二人して表へ出ると、昨日までのぼんやりとした風情の淀みは形を潜めて、ぽっかりと穴の空いた様な透明な空気が一帯に下りていた。日差しを照り返して冷たく光る軒が往来を挟んでずっと向こうまで連なっている。私は乾さんを連れて方々へご挨拶に回った。ご近所さんや贔屓の商店に、この度も宜しくお願いしますと云って頭を下げた。皆勝手を承知しており、お気の毒様と云った風な顔で愛想を作った。
 乾さんの好きだった蕎麦屋でお昼を上がり、町外れを連れ立って歩く途すがら、薄い空を眺めていると不意に青魚が三つ降って来た。乾さんは足許で口を閉じたり開いたりしているのを黙って見詰めているので、
「鷲が運んで来たんでしょう」
「そんな事があるんですか」
 吃驚した様な顔をしている。
「この時期になると、こうやって人を脅かそうとするんですよ。鷲なんかは頭が良いから」
「そうなんですか」
 すっかり忘れると云ったのは些か大袈裟だったかも知れない。一体何を忘れて何を覚えているのか、こちらもいまいち了解し切れていないと云わざるを得ない。言葉はきちんと覚えているし、立ち居振る舞いのしとやかな所も身体が覚えていると云って差し支えないと思うのだけれども、こうした出来事や仕来りの様な事を覚えない。また人の名前も忘れてしまう。それがご両親であってもお構いなしで、自分の名前も忘れてしまうのだから仕様がない。
「このまま放って置くのも忍びないから、どこかで供養してやりましょう」
 私は懐紙を出して青魚を拾った。微かに磯のにおいがしたが、海からは大分離れているので逃がしてやる事も出来ない。
「もう少し先へ行った所に塚がありますから、そこまで行って見ましょうか」
 勾配の緩い坂を行くと、頂上に差し掛かった辺りで背の低い梅の木立がぽつねんと生えているのが見え出した。
「あそこです」
 丁度枝の被さった所にちいさい塚が立っている。屋根付きの観音開きだが、ぴったりと閉じられて中は見えない。私は塚の手前にある水の並々に張られた手水鉢の中に、懐紙ごと青魚を沈めた。表に浮かんでいた梅の花びらも一緒になって沈み、また浮き上がった。
「何を祀っているんですか」
 横で見ていた乾さんが口を開いた。
「そんな、お手水にものを入れたりしても良いんですか」
「ええ。私共は平生動物を殺したりなんかはしないでしょう。しかしこの度の様に、偶々と云った事もありますから。そうした時にここで供養する習いになっているんです。ここにはゆりかごが入っていると聞いています」
「ゆりかご?」
「だから決して開けて見てはいけませんよ」
 乾さんは合点の行かない様な顔をしていたが、やがて合点の行かないなりに承知したらしかった。
 そうして午后の遅くになった頃に家へ帰り着き、私は乾さんをお屋敷の門前まで送った。生前は大変な名士であったお父上の、そのまたお父上と云った具合に、先祖代々住み継がれる立派な建物だった。今は乾さん一人の物だが、件の事もあるので先代から仕えていた女中や使用人なぞは皆暇を取ってしまった。碌に掃除も出来やしないだろうと思う。
「今日は有難うございました」
 深く頭を垂れる乾さんの向こうに、大きなお屋敷が影になっている。未だお日様は高いが、辺りは森閑として、いつも別れ際にはこのまま二度とお目に掛かれないのではないかと云った気になって来る。私は乾さんがお屋敷の影に紛れて見えなくなるまで、その姿を見送った。
 自分のちいさい寝床に戻ると、雨戸を開け忘れていた事に気が付いた。建付けが悪いのか知らないけれども、がたがたと云った音を鳴らしながら開けて、それから縁側に出て端居している。涼を取ると云った時候でもないが、遠くの山々に霞が降りて尾根を暈しているのをぼんやりと眺める内に、外国の友人が煙草を送ってくれた事を思い出した。ついでにお茶でも煎れて来ようかと云った事を考えながら、居間へ行って箪笥を引繰り返し、昨日の出涸らしを湯飲みに注いで、また縁側へ戻って来た。勝手が解らないので無闇にぷかぷかやっていると箱柳が現れて、人の横でいきなり咽出した。
「んふ。んふ。煙い」
 何が憚られるのか知らないが、その様な中途半端な事をするぐらいなら一思いに咳き込んでくれれば良いのにと思う。
「どっから入って来たの」
「んふ。いやさ、あそこの灯籠。あの火袋に、んふ、蛇が入ってて」
 見ると、庭の隅にある灯籠の丸い穴を、確かに細長いものが出たり入ったりしている。
「どれ」
 降りて傍まで寄って見た所、蛇ではなく去年の夏に焚いた線香の燃えさしだった。
「蛇じゃないよ」
「嘘だ。私を咬もうとしたんだから」
「ご覧よ」
 箱柳が来て、火袋を覗き込んだ。
「ほんとだ。おかしいね。真赤な舌まで見えたんだ」
「どうでも良いよ。線香の幽霊か何かだろう」
 私は引返して行って、縁側に腰掛けた。
「乾さんがまたアレしたよ」
 箱柳は未だ火袋を覗いている。
「ああ、いつもの」
「今頃日記を読んでいるんだろうね。そして今日の事を書くんだろう。もう何冊になるか解らない。字引みたいなもんさ」
「お陰でおまえも随分楽出来てるんじゃないか。字引と云うか、手引だろう。これから三ヶ月掛けて三ヶ月前をなぞるんだから」
 そうして箱柳は、「哀れな女」と云ったきり居なくなった。乱暴な物云いだが、あれは誰にでもそうなのでそう云った質であると考えれば気を悪くする筋合いもない。
 私が乾さんを見る様になってから、日々の明け暮れの慰みに、また起きた事やそれを受けて自分が何をしたのか、何を考えたのか、書き留めて見てはどうかと進言したのが始まりだった。悪いとは思いながら、一度だけ中身を覗いた事がある。美しい字で、初めて見た雪の事が美しい文章で書かれてあった。私の様な筆不精ではないらしく、直ぐに頁を使い果たしてしまうものだから、その都度私が新しいのを買って来て、渡す前に一頁目にこう記して置くようにしている。
 一、あなたの名前は乾春子である
 一、この文言に見覚えがなければ、二軒隣のちいさい平屋を訪ねて行く事
 一、この文言より外のものは、すべてあなたが書いたものである
 一、この冊子には何を書いても構わない。何も書かなくとも一向構わない
 一、以前のものは書斎の本棚に纏めてあるので、最後の頁まで書き終えたらその中に仕舞って置く事
 一、この冊子や、以前のものに書かれてある様にあなたは過ごして来たから、これからもその通りに過ごしても構わないし、過ごさなくとも一向構わない
 一、この家はあなたのものであり、財産もあなたのものであるから、好きな様に使って構わない
 一、二軒隣のちいさい平屋に従僕が住んでいるので、何を申し付けても構わないし、放って置いても一向構わない
 日が暮れ出したので、肩掛けの鞄に色々の細かいものを詰めて、雑巾や刷毛、また桶に鋏やたわし、雑巾、古紙など、大荷物を担いで表へ出て行った。玄関の戸に“留守にしております”と墨書きされた張り紙をして、あちこちにぼんぼりの潤んだ様な明かりの灯る往来を歩いた。
 未だ暮れの早い時間だから、お神さんや子供の姿も目立つ。露天なぞはこの頃から商いをし出すので、生花や自分の食べるものを調達するのに大変都合が良い。今日は温かいものを食べたい気持ちだったから、人の少ない屋台に入って芋の蒸かしたのと牛蒡の汁を頂いた。おやじが奥で焼酎の瓶に柄杓を潜らすのを見て、どうしようかと考えたが、世の大勢がそうである様に、夜の更けるに従い酔っぱらいばかりがそこいらを闊歩し出す前に、私は持ち場へ向かう事にする。
 町の中心へ近付くに連れて段々と暗くなって行き、露天や何かの明かりが届かなくなり出す所まで来ると、もうこの辺りは昼間でも薄暗い。何故かと云うに、真上を見上げると大きな木の葉っぱが空を覆っているからで、ここいら一帯は元々高台ではあるけれども、この先には塔の様に迫り上がった高い森があり、余程晴れた日でなければ天辺には雲が掛かっている。森自体がまるで一本の木の様に、皆々一緒になって高く伸びている。麓にちいさい小屋が見え出したが、あれが私の第二の棲家で、先祖伝来のがらくたが仕舞ってあるより外には、せんべい布団が敷いてあるだけだった。
 荷物を下ろし、桶だけ持って近くの小川まで水を汲みに行った。明るい夜で、どこかに月が出ているらしく、森に遮られた光の筋が木漏れ日の様に足許を斑にしている。そうした明かりを小川の流れが静かに照り返し、隠された星々を川の中に見る様だった。光苔の見られる事もあるが、今はない所を見ると冬眠から覚めた亀や蜥蜴の大きいのが皆平らげてしまったのかも知れない。桶を浸し、水を掬った。時折烏賊やかわうそが入って来る事があるので、そうした時はまた川に放してやる。
 小屋へ戻り、カンテラを出して火を点けると、水の張った桶に生花を入れ、また大荷物を一緒に担いで裏手へ回った。昔の人が森のぐるりをらせんの形に足場で囲って、高い所まで上れるようにしたのが今も残っている。途中木々のうろや、なければ幹をくり抜いて、亡くなった人を棺ごと埋葬すると、いずれ木々の伸びるに伴い、人々の亡骸は段々と森に紛れて行く。云わば途方もなく大きな墓塔であり、私はその守りをしている。
 ぎいぎいと云った音を鳴らしながら、ゆっくりと足場を上って行く。幼い時分、父親に付いて回った折にはこの音がこわくて仕様がなかったが、今は愛着の様なものを感じている。どこに誰が弔われているのかが解るように森の地図が代々受け継がれており、平生それを頼りに奥へ入って行く。上へ行く程古く、今は新しい所を主に見ている。去年の暮れに亡くなった野伏さんなぞは未だ棺が丸々表へ出ているから、藍で染めた幕を被せて隠してある。それを捲って見て、鳥に啄かれていないかを確かめると、傍の行灯に油をさし、花入れの中身を取り替えて、香を焚き、少し拝んだ。目を瞑ると緩い風が吹いて来て、私の頬を撫でて行った。こうして一年掛けて順繰りに検めて回る。
 行灯の明かりを絶やさないようにとの仕来りであるので、その日の割当を大方終えると、後は火の塩梅を見て回る。そうやって森の中腹に差し掛かった所で私は足場の縁に腰掛け、眼下を望んだ。真暗の中にちいさい明かりが団子になっている所が町なのだろうと思う。遠くに稜線が黒いぎざぎざとなって立っており、その上に星々が瞬いている。昔あの山々を越えて、雲呑と云う名の大きな熊がやって来たと云う。しかしこの森が自分よりも背が高かったから、こわがってまた山の向こうへ逃げてしまったと云った話を、誰から聞いたか、忘れてしまった。先程の屋台で包んで貰ったお握りと沢庵漬けを上がり、煙草を喫んだ。昼間よりも勝手が解った気でいるが、今度くれた友人に訊いて見ようと考えている。どこかで「んふ」と云ったのを聞いた気がした。こんな高い所までよく来たものだと思う。それはそれとしても、森であるから色々の動物が現れるのは当たり前で、鹿や狸なら可愛いものだが、ついこの間なぞ豹に出会った。丁度明礬さんの所を片付け終わった折に、ふと上に目をやると、木々の絡み合った中から枝の長いのが横に迫り出している所に、豹が寝そべってこちらを見ていた。結局何事もなくやり過ごしたが、今でも思い出す度に身震いがする。
 乾家は相当に由緒ある家柄らしく、地図に拠ると最も古い段の足場の末席に位置する。この界隈まで来ると足場の古びも甚だしく、何年かごとに人を呼んで修繕させるが、どうも今の工法では追い付かない程洗練された組み方がされているらしい。今も家系が途切れていないのは乾家を残すのみで、外の家々は地図に名を残すばかりだった。墓標らしきものも残っていない為、私の方で地図を頼りに行灯を立て、花を供えるようにしている。下りる頃には夜が明けるだろうと思われるが、私は乾さんがものを忘れる度に霊前に参じ、息災を祈るようにしている。他人の私がご先祖様にお願いをするのもおかしな話であるので、祈願ではなく報告だろうか。私は勝手にこの様にお祈りしておりますので、宜しなに。と云った風な具合に、最後にここへ埋葬したのは乾さんのご両親で、それも十三年前の事であるから、再び森へ紛れつつある乾家の墓標を前にして、あの人が平生そうする様に、私は深々と頭を垂れた。