étranger

 あなたがこの村へ住み着く事になったのは全くの偶然で、あなたがそう望んだ訳でもなければ、彼らが望んだ訳でもない。しかしながらあなたはここが好きであり、彼らもまたあなたに好意を寄せている。イチジクの実の様なささやかな好意は、あなたをしばしば優しい気持ちにさせる。
 村の一番年寄りが布に包まれて母親の腕の中に居た頃から、その家はあったと言う。誰も住む者はなく、村を囲む深い森に還ろうとしていた所をあなたに見出された。あなたは家のどこが気に入ったのか、自分でも分かってはいないけれど、軒に下がるミノムシや、玄関先に転がった小さな木の実(何かのお祭りの際に供されたものがそのまま残っているのだろう)、拭いても拭いても曇ったままの窓硝子、触ると必ずぎいぎいと言った音を立てる家財、外にも色々のものがあって、そのどれと言った事はない。大方の総てがあなたを満足させる。勝手に入り込んで、勝手に住み出しても、誰も文句を言う者はない。
 朝になったら目が覚める。当たり前の事だが、あなたはもう随分永い事忘れてしまっていた。寝床の上でぼんやりとしながら、鳥の囀りを聞き、時折混じる子供らの声を聴いた。床へ降りると履き古しを突っ掛けて表へ出て行く。少しばかり靄の出た往来に、走り回る小さな影が幾つか見えた。そこいらの木立の周りを巡ったり、井戸を覗き込んだりしながら騒いでいる。薄い日射しの筋が地面を吊っている様に思われた。あなたは出来立ての空気で体の中を洗う。自分の内と外との続きがはっきりとして来る。
「せんせー。おはよー。」
 向こうの小さな丘の上に立った二三人が手を振っている。子供らはあなたによく懐いた。あなたはものを沢山知っているし、誰とでも真剣に話をする。幼い目はあなたに信頼を寄せている。あなたにとって何物にも代え難い価値だった。
「せんせー。これ見て。」
 駆け寄って来た子供の、みあずまと言う少女の差し出した手を見ると、大きなバッタを摘んでいる。ショウユバッタだねと応えてから、脚が取れてしまう前に逃しておやんなさいと言うと、
「でもー。大っきいのよ。持って帰っちゃ駄目か知ら。」
 脚を摘まれているので、バッタは跳ねようとするが、そうする度にへこへこと船を漕ぐばかりだった。みあずま、彼は君と一緒に居るのは嫌なんだよと、成る可く穏やかな口調であなたは言った。
「どうしてなの。」
 仮に自分が家で好物の豆のスープを啜っていたとする。その最中に、ふと窓の外へ目をやった所おそろしく大きな知らない人が窓よりも大きな目でこちらを覗いている。君が吃驚している間に玄関から人の胴よりも太い指を突っ込んで来て、自分を摘んで一気に山よりも高い所へ連れて行く。泣いても喚いてもお構いなしに、同じ様なおそろしい人々の許へ連れて行かれて、分からない言葉で恐らくどうしてやろうかと言った事を話し合っている。バッタは今そう言う気持ちなんだよと言った様な事を、あなたはみあずまに聞かせた。
「そんな。可哀想だわ。」
 だからお家へ返しておやんなさい。家族だって待っているかも知れないと言うと、みあずまは駆け足で来た道を戻って行った。
 あなたはゆっくりとした足取りでご近所のパン屋へ向かった。そうするのが毎朝の習慣になりつつあった。ご主人に金を渡して、見合った分のパンを受け取る。その間に何でもない言葉を交わして、何でもない事で笑い合った。こちらの身の上に対して無闇な詮索をしない所を、この村に住む人々は皆そうだったが、あなたは気に入っている。
 家へ帰ると、やっぱりぎいぎいと言った音を立てる椅子に腰掛けて、パンを齧りながら読みさしの本を開く。
 気が付くとお昼を回っていた。あなたは家を出て、今度はご近所の飯屋へ向かった。おかみさんの手料理を頂き(その日は待霊節の前だったので鴨の包み焼きが出た)、レモンの入った水を飲んだ。そうしてクッキーやパンケーキの小さいものを幾つか持ち帰った。
 窓から差し込む温かい午后の日射しに照らされたあなたは、起きているのか眠っているのか分からない心地で、家に出入りする子供らに先程持って帰ったお菓子を配ったり、簡単な算数や外国の言葉を教えたり、皆で古い物語の本を読み耽っている間、時折辷り込んで来る睡魔に昔の夢を見たりしていた。あなたがここへやって来るまでの事を思い出して見るがいい。それでもあなたがどの様な人間だったのか、この子供らには関わりがない。
「せんせー。」
 子供らの一人が言った。確かみあずまと言った様な名前だった気がする。
「ここの所は何て意味なの。」
 開かれた本の一文が指されていた。あなたは本を受け取ってその一文を眺める。
“塁定性――均衡の為の無局。”
 あなたは見入っている。何かの物語の内で、誰かが発した言葉だったが、この科白の後先が分からない。何を主題とし、どこへ向かう物語だったか。むずかしい本を読んでいるねと言うと、少女は威張った様な顔をした。
 子供らは各々家へ帰った。夕日の流れ込む真赤な部屋の中にあなたは一人で居る。もう直とすれば村中に団欒のにおいが漂い出し、そのかすかないきれがあなたを少しばかり寂しい気持ちにさせる。あなたはその時間が好きだった。そうした時間に一人で居るのが好きだった。窓の傍まで行って、がたがたと音を立てながら開いた。外に人の気配はなく、日の沈むに連れて段々と静けさが辺りに立ち込めて来るが、それは表がそう見えるだけであって、例えばあそこに見える小さな家(確か樵の家族が住んでいる)も、こちらから眺める分には窓に明かりが見えるばかりの静かな佇まいだが、内は主人の帰りを喜ぶ家族の談笑で溢れている事だろう。家よりも木々の方が背丈も高いから、陰が深くなるに従って家々と周りの森との境目がなくなって行く。空は未だ明るいと思うのに、辺りはもう海の底の様な所にある。星の瞬きを水面が映す様に、家々の明かりが陰の中に散らかっている。
「おや。先生こんな所から。」
 あなたの直ぐ近くで声がした。暗いのでよく分からないが、仕事帰りの男であろうと思われる。
「明かりも点けないでどうしたんです。」
 何だか恥ずかしい所を見られてしまった様な気がしたので、あなたは少しばかり照れながら何でもないんです、今からお帰りですかと応えた。
「そうですか。そうですか。いえね、さっき入り口の所を通り掛かった時に、知らない人を見ましてね。こわいから、あたしにあ声を掛ける様な真似は出来ませんでしたけれど、もしかすると先生のお知り合いかと思いまして。」
 そんな人に会いたくなぞなかったが、ご好意でこちらまで伝えに来てくれた事だから、会って見ない訳には行かないだろうと思う。あなたの尊重されるべき気性の一つだった。
 家を出て、夕闇に紛れながら村の入口を目指す。途すがら何度も引き返そうかと言った気になったけれど、あなたはとうとう入り口の、川のせせらぐ音の微かに聞こえる小さな橋の許まで来た。遥か遠くで、夜に染まりつつある空にほうき星が流れた。
「あのう。……。」
 女の声に思われたが、姿がはっきりしない。橋の途中の変な所に細い人影が突っ立っている。
「今晩は。」
 あなたは挨拶を返すと、どうかされましたかと言った風な言葉を掛けた。
「はぐれてしまって。……。でも先へ行くのがこわいから、ここで待ってたんです。」
 知った人間ではない様だったので、あなたは内心で安堵しながら、もう暗いですから今夜はこの村で休んで行かれてはと言った。
「ああ。ご親切に。……。でもいけません。私こわくって。ご免なさい。やっぱり、ここで待っています。あなたはこの先に住んでいるのですか? ちょっと分からないんですけど、あなたの前にここを何度か通り過ぎたものは、この先に居るのですか? どうして。……。」
 女は言葉を切るなり、後退りし出したらしい。
「分からないんです。分からない。」
 夜の森は危ないので、あなたは女をそんな所へ放り出したくはなかったが、向こうの方で勝手そうするから已むを得ない。顔を見る事もないまま、女は森の奥へ入って行ってしまった。もう会う事もないのだろうとあなたは思う。ここへ辿り着く事だって殆ど奇跡に近いと言うのに。
「せんせー。」
 足許から声がした。みあずまの声だった。
「何してるの。」
 あなたはみあずまの頭を撫でると、何でもないんだよ、戸締まりみたいなものさと言った。
「そうなんだ。ねえせんせー、今日は家でご飯食べて行って。お母さんが、たまには精の付くもの食べて貰わなくちゃ、だって。私もせんせーと一緒に食べたいな。」
 手を取って引っ張るので、仕様がないなと思いながらも、あなたは満更でもない気持ちで村へ引き返して行く。(了)