長仏隧道

 友人の暮らす土地へは峠を何遍も越えなければ行かれない。中途まではバスが出ているのでこれを使えば良いけれども、全くおかしな所で路線がぱったりと途切れてしまうから、そこから先へは決して短くはない道程を歩いて行く事になる。その為余程の用事がない限りは友人の許へ行くのは嫌だったし、向こうもあんな辺鄙な所に篭ったきり滅多に人の前へ姿を現す事はなかった。
 大雪の降った明くる日の朝、私は真白になった山を行くバスの中でぼんやりとしていた。随分永い事チェーンを巻いたタイヤのじりじりと言った音を聞いていた様に思う。私の外には運転手と知らない女が乗っていた。女はマフラーを深くかぶっており、顔の半分程まで隠れている。私が乗り込んだ際には既に窓際の席で目を瞑っていたから、この雪の中をお気の毒様と思う。
 日射しは無闇に白々として、明るい癖に一向辺りを暖める気振りはない。真白の地面は山道と周りの森との境目をなくし、木立のあるなしで見当を付けるより外私には仕様がない。しかしながら運転手は勝手を承知しているらしく、バスの気勢は衰える事なくどんどん先へ進んで行く。山の深くへ差し掛かると、遠くの白い山々が高い木に隠されて見えなくなった。陰の濃くなった森のあちこちに射す木漏れ日が地面に眩しい明かりを作り、まるでそこいら一帯にぎざぎざの形をした電灯が散らかっている様に思われた。
 窓の外を眺めていた。柱の様な針葉樹の幹が、森のずっと奥まで並んでいる。これだけ見通しが良いなら、森の先は見えないか知らと向こうまで透かして見ても、遠くの方は木々や雪が一緒になって曖昧な色を滲ませるばかりだった。時折大きなけものが木々の隙間を渡るのが見えたが、猪にしては手足が長い様に思うし、熊にしては横に長い。猿にしたって尻尾が長過ぎるだろう。
 バスは変な所でいきなり停まった。バス停が見えるので、もう着いたのかと思う。運賃を支払い、バスを降りた。バス停には長仏隧道前とある。私の後から乗り合いの女も出て来た。眠りの抜け切らない様な顔をして、私の見る先を眺めている。
「どちらへ行かれるんですか」と訊いて見ると、
「祖母の様子を見に行くんです」と言った。
「良かった。外にも人が居て」
「くそ田舎ですからね。雪も凄いし」
 バスが来た道を引き返して行くのを二人で見送った。やがて見えなくなり、音も聞こえなくなった途端、冷たさと静けさの束が降って来る様な冬の空気が私共の周りを満たした。振り返ると行く先には小さなトンネルがあった。あれを潜って暫くすると最初の家がある。最初の家を過ぎてから一時間程歩けば友人の家に着く。
「行きましょうか」
 女は頷いて私の後に付いた。小さいが長いトンネルで、名前の由来は知らないけれども、長い仏様が関連しているのだろう。
「中は結構暖かいんですね」
 女の声は私の背中を抜け、トンネルの中を渡って行った。
「有難い事ですな。ちょっと信じられないぐらい寒いから。最近は」
 明かりのない真暗な所だったが、外から流れ込んで来るお日様の脚が微かに辺りの輪郭を浮かしている。足許の締まる様な歩き心地がするので、雪が積もっているのだろうと思う。
「この先に住んでる方なんですか」
「いえ。友達が居るんです」
「そうなんですか」
 余所の事だと言うのに、女の声はどこか嬉しそうだった。
「仲良しさんなんですね」
 マフラーをかぶっているからだろうけれども、その声はもこもことしている。
「いえ」
「あら、……」
「このご時世に携帯も持ってないもんですから。ほんと仙人みたいな奴で、だから何かあると誰かが遣いに出なくちゃいけない」
「変わった方なんですね」
「ええ。この度は、……。共通の知り合いに不幸があって」
 返事はなかった。要らない事を言ったと思う。努めて何でもない風を、自分に対しても装ったつもりでいたが、やっぱりどこかにせかせかとした気持ちがあるのだろう。友人にではない。色々の苛立ちが相手の気性から来るものであるとすれば、その様な者は友人とは呼ばない。
 ずっと向こうに、針穴の様に小さく鋭い明かりが静まっている。長いトンネルだが、こんなに長かったろうか。相変わらず一歩を踏み出す度に雪の締まる感触がする。余程吹き込んだのだろう。きっとトンネルを出るまでこの雪は続いている。
「お祖母ちゃんに会いに行くんです」
 不意に女は言った。
「電話もないし、携帯だって持ってないから。……。私が自分で行くのが、一番手取り早いと思うんです」
「喜んでくれるでしょう」
「……。どうなのかな。私の事、見えてくれてたら良いな」
「目が悪いんですか」
「皆そうすれば良いのに。待っててくれたら、こっちは全然、大丈夫なんですよ。本当に」
「どう言う事です」
「お祖母ちゃんが死んじゃったら、誰かが一緒にここを通ってあげなくちゃ。暗いし、脚が悪いから、転んじゃったら大変ですもんね」
 良いお孫さんを持たれたものだと思う。
「友人にも、その様に伝えて置きましょう」
「はい。そうした方が良いですよ、絶対」

 トンネルを抜け、女と別れた。どこもかしこも雪をかぶって真白になっているが、雪をかぶっているなりに家の様なものがそこいらに点々としている。少しばかり離れた所から女はこちらへ手を振ると、向こうを向いて歩き出した。そうして林の小径に紛れて消えるまで見送った。あんな所にも家があるのかと思いながら来た道を目で辿って見た所、トンネルから続く足跡はやっぱり一人分しかなかった。(了)