逃水抄

 一

 畑に出ている腰の曲がった祖母の姿は地面との境目が分からなくなり、逃げ水と一緒になって伸び縮みし出した。眩しいお日様の光に当てられて倒れやしないかと心配になったが、倒れた所で私が拾いに行けば良い事だと思い直した。
 開け広げられた座敷に端居しているけれど、どれだけ待ってもそよ風の一片も来やしない。野良仕事の手伝いなぞしたくはないが、かと言って一人だけ冷房を効かして涼むのも何だかお行儀の悪い気がする。だからこうしてぼんやりと祖母を見張っている。梁や鴨居に静けさが染み入り、しんしんと鳴っている。頭から水を被った様に汗が吹いては乾き、体中がふやけている。
 街の勤め先を辞してから、行く宛がないのでこの草臥れた田舎へ戻って来た。知らない間に両親は死んでおり、祖母が一人で残っていたが、友達が多いから寂しくもないし不自由もしていないと言う。暫く厄介になるよと言うと、好きにしたらええと返って来たので、好きにさせて貰う事にした。
 夕方になり幾らか暑さも引いた様なので、夕飯までそこいらをぶらぶらする事にした。紫色に染まった山を眺めながら、木々の影が被さり暗がりになった川縁を歩いていると、私の行く道を塞ぐ様にして長い蛇が横たわっている。片っぽは川の中に浸かっており、もう片っぽは茂みの中へ突っ込まれていた。小さかった頃、遠足へ行った山に大きな青大将が出たが、年長の子どもが尻尾を掴んでぐるぐると振り回していたのを思い出した。非常に楽しそうだったのを憶えていたので、私もやってみようと思った。
 尻尾はどっちか知らと川の方を覗くと、水に沈んだ胴体が淵の奥へ見えなくなるまで続いている。茂みの方へ行って見ると、こちらも深い山の中まで続いているらしかった。ぴくりとも動かないので、どちらへ進もうとしているのかも分からない。胴体を掴んで持ち上げようとしたけれど、何かが引っかかっている様で中々持ち上がらない。うんと力を込めて引っ張ると、蛇の腹から根っこの様なものが地中へ張っており、それがずるるずると引き抜かれた。
 何か植物の根っこを蛇と勘違いしていたのだろうかと考えたけれど、暮れかけの夕陽を照り返して鈍く光る鱗の手触りや冷たさは、私は蛇のものより外には知らない。しかし誰かが植えていたのを掘り返してしまったのなら申し訳ない事をしたと思っていると、向こうから民生委員のおじさんが歩いて来た。
「今帰りですか」と声をかけると、
「今日も暑かったなあ。お婆ちゃんは大丈夫かね」
「僕よりよっぽど元気ですよ」
「そら結構な事だ」
 おじさんは帽子を取って額を拭った。
「おや」
「これ、何だか知ってますか」
「ああ、赤楝蛇だなあ」
「なんか根っこが生えてるみたいで」
「ああ、ああ。赤楝蛇の長いやつはなあ、こんくらいの時期になると地面に卵を植えるんよ」
「そうなんですか」
「根っこの先っぽ見てみい。芋みたいになあ、卵が付いとるから」
 見ると、縮れ毛の束の様になった根っこのあちこちに小さな丸いつぶつぶが沢山付いている。
「えらい沢山産むんですね」
「まあしかし、殆ど食われてしまうから」
 元に戻しときなさいと言われたので、根っこを土の中へ埋め直した。
「親はこれ、どうなってるんですか」
「もう死んどる。川に頭を浸けてな、そっから胴に水を送っとるんよ。卵に水を切らさんようにな」
「死んでるのに?」
「そう言うもんだからなあ」
「頭見てみたいな」
「止めときなさい」
「どうしてです?」
「見たらちんちんが腫れるぞ」
 おじさんはそう言って笑った。川へ向かってゆるゆると暖かい風が吹き、肌に浮いた汗を撫でて行った。背後でぽとりと音がしたので振り向くと、魚が跳ねたらしく、小さい波紋が水面に立って、直ぐに見えなくなった。