調の丈

 吸い付く様なぼやけた風が頬を引張り、私の何かを持ち去ったらしく思われる。ぬるい日だった。雲にまみれた空が灰色に光っているが、降って来る明かりと足許の影との境が曖昧で、何だか今にも身の回りのものの区別が付かなくなり、皆々どこかへ流れ出してしまいそうな気配を孕んでいる。
 表から見上げた家には裏の山からはみ出した木々が被さり、古びた青屋根の色を浮かしている。私は門の所まで行くと呼び鈴を鳴らした。ちゃんと中で鳴っているのかは解らない。広い庭を蒼然たる緑が覆い、その向こうに玄関が見えるが、幕の垂れた様な真黒の影が観音開きを半分にしている。
 あれは椿。あれは豌豆と、庭に点々と咲く花に当てを付ける内に、奥の玄関扉が音もなく開かれた。そうして隙間から山科さんが白い顔を出し、こちらを見るなり薄く笑った。
「いらっしゃい。お久し振りね」
 挨拶を返す間もなく中へ引込んでしまったので、私は庭を渡り玄関前まで行き、開け放しの隙間から家の中へ入り込んだ。
「もうそんなに経つか知ら」
 扉を閉めて振り返るといきなり鼻の先に立っているので、毎度の事ながら吃驚してしまう。私の方が背が高いから、丁寧に結われた髪の分け目がよく見える。
「こないだお電話入れたでしょう。今日で丁度一年ですよ」
「嫌だわ」と云って笑い、
「歳を取ってばっかりね」
「何を仰いますやら。コンパへ行けばまだまだ女の子で通りますよ」
 上着を預け、鞄は重たいので自分が持ったまま奥へ通される。
 広い家だが所々に経年のほころびが生しており、山科さんは一人で暮らしていると云ったのを聞いた事があるから、そうすると随分持て余しているだろうと思う。
 階段を伝い二階へ上がって行きながら、何事か交わすけれども、声も足音も家に吸われると見えて辺りは却って静まって行く。
 扉の並ぶ廊下を渡り、何番目かの扉の前までやって来ると、案内されるままに中へ入った。十畳本間程の広さだが、大きな窓が一つとその傍に箱型のピアノが置いてあるばかりで、外には何もない。窓の向こうはもう裏山で、木々の風に揺らされるのが直に触る様だった。
「珈琲が良かったか知らね」
「どうぞお構いなく」
 部屋を出て小走りに下へ降りて行く気配が消えると、それきりになった。この広いお屋敷の中を給仕の様に行ったり来たりする姿を想像した。家の主人としては少しばかりみっともないかも知れないが、彼女の気性に合っているのだろうと思う。
 背広を脱いで袖を捲り、ネクタイを胸のポケットへ仕舞った。そうしてピアノの方へ行き、中身をいじくり回す為に外側の板をすべて取り外す。一見した所おかしな点はないが、鍵盤を弾いて見るとやっぱり音の塩梅がよろしくない。こう云ったものは使い過ぎるのも良くはないが、使わないまま時間が経ち過ぎるのもやっぱり良くない。鞄から道具を出してねじを締め直す。張ってある弦を留めているねじなので、ギターの調を整えてやるのと変わりはしないと思うけれども、そこいらの考え方は人によるのだろう。何分古いものであるから、水の抜けて硬くなった木の具合いなぞを見ながら弦の響きを合わせて行く。
 こうした古いピアノに肌を接するのが好きだった。もう何も映さない化粧板の黒や、鍵盤の褪せた象牙を見るのが好きだった。
「もう弾く人も居やしないんだけれど」
 振り返ると入り口から少し入った所に山科さんが座っていた。「鼠の齧った跡がありますね」と云うと、困った様に笑った。
「そんな所に座っていると冷えますよ」
「良いのよ。見ているのが好きだから」
「何だか緊張しますね」
 傍には銀色の盆が置かれ、上に乗ったカップから微かに湯気が立っている。
「あなたは弾かれないんですか」
「主人から少し習った事はあるけれど、弾けない様なものよ。メシアンの何かばっかり弾く人だったわ」
「中々の変態ですね」
「あら」
「褒めているんですよ」
「そうなの? ありがと」
 珈琲を頂き、再びピアノに向かった。山科さんは相変わらず入り口の所に座ったまま、こちらを眺めている様子だった。
「……。もう十年になるか知らね」
 日が暮れ掛けているらしく、身の回りの影が段々と深まり、床から天井へ向かって薄っすらとした染みの様に広がって行く。
「外のものなんか何も残っていないのに、そんな事にはお構いなしよ。控え目な人だったけれど、やっぱり気になって仕様がないんでしょうね。ほら、今もそこに立って、あなたの手許を見詰めているわ」
 山科さんの指差した方を向いたが、部屋の角に埃と仄かな影が溜まっているのが見えるばかりだった。
「それじゃあ、これもご主人の為に?」
「そうね」と言って口端を吊り上げた顔を見ると、俄に背中の泡立つ様な心地がした。
「意地悪しているのよ。この人には見る事しか出来やしないんだから。私だって見ているだけなんだもの。それでお互い様よ」

 漸く自分の納得行く所まで調整を終えると、辺りがもうすっかり暗くなっているのに気が付いた。私は額の汗を拭い、ピアノの表を磨いた。何の明かりが来るのかは分からないけれども、窓の下には木々の影が落ちている。
「遅くなって申し訳ありませんね」
「いえ、いえ。ご苦労様」
 暗がりの中で山科さんの膝頭だけが見える。脚は痺れやしないのだろうかと思う。
「何か弾いて下さらないか知ら」
「メシアンなら、幾つか暗譜していますが。……ご主人の手前ですと、気が引けてしまいますね、どうにも」
「あら」
 小さく笑う声が聞こえた。
「からかい甲斐のある人だわ」
「そうすると、さっきのお話は」
「いい大人があんな事、信じちゃ駄目よ」
 鍵盤蓋を開き、フェルトの覆いを取り外した。白鍵の色が微かに浮かんでいる。そうして私はメシアンの、四つのリズムのエチュードの一番を弾いた。無調の曲であり、散り散りになった音や拍子が、隔てられたままにくっ付いたり離れたりする様な難しい曲だが、弾く分には気持ちが良いので気に入っている。
 曲の真中を過ぎた頃、自分の手許を覗き込む気配を感じた。暗くてよく解らないが、山科さんであるにしろ、ご主人であるにしろ、或いはまるで別の見当から来たものであるにしろ、こんなに顔を近付けて人の演奏をじろじろと見るのは、お行儀が悪いから止して欲しいと思う。(了)