虫の脚

 海から引き揚げられた雲が、水を滴らせながら向こうの空を這い回っている。お日様の光をまともに受けて、色を白や黄色に輝かせながら縁を暈しているが、周りの空にはもう星が出始めている。
 ぼんやりと眺めていると、雲の端っこが気流の塩梅で綻び、そこから大きな虫の脚が突き出した。腿のとげとげまではっきりと見えるから、バッタの脚だろうと思う。
「今年は雲丹が流行りそうですな」
 隣に居た安川さんが言うので、
「何の雲丹です」
「そりゃあ、旦那。馬糞雲丹でございやすよ」と、背後で別の者が言った。
「嬉しいな。好物なんです」
 虫の脚は閉じたり開いたりを繰り返し、そこいらを掻く様な仕草をしている。飛び跳ねているつもりなのだろうと思う。
「私、鹿の脚が良かったわ」
 よく分からない方向から女の声がした。
「そしたら蕗が流行るでしょう」
「そいつはいけないぜ。一昨年の暮れにあったろう」
「あら。そうだったか知ら」
「どうしていけないんです」
「何事も、程々にして置くのが良いでさあな」
 小さいバスが、どろどろと音を立てながらやって来た。そこまで来て停まると、扉が開いたので皆中へ入って行った。
「おや。乗らないんですか」
 上り口に脚を掛けたなりで安川さんが言った。
「もう暫く見てようと思って」
「あんまり遅い時間に、あんなもの見るもんじゃありませんよ」
「どうしてです」
 安川さんは何かを応えようとした様だったが、バスが汽笛を鳴らすので急いで中へ入って行った。
 そうしてバスは走り出し、私だけが残った。遠くの景色に紛れるまで見送ったが、バスの中に居る者は皆、窓越しに何でもない顔をして私を見ているらしかった。
 再び空を見上げると、虫の脚はまだ閉じたり開いたりしているが、さっきよりも少しばかり動きが弱々しくなっている様だった。(了)