壁の高い所へ取り付けてある空調機の陰から、誰かの腕が出ている。私は酒を飲みながらそれを見ていた。ついさっき気が付いたのだけれど、悲鳴を上げる様な歳ではないから、それではどう言った応接の仕様があるのか知らと考えている。
 杯の飲み口に齧り付いたまま、じっと見詰めている内に、段々と腕の素性が判り掛けた。まず女の腕である。次にそう歳を取っていない。それから爪が剥がれている。外には血色が悪い事や、少し土に汚れている事が分かる。
 腕は少しも動こうとせずに静まっている。それでは何をしに来たかと言うに、私を驚かしに来たのであろう。そうして、そこへじっとしている分で、私を驚かすには申し分ないと言う判断を下したのであろう。しかしこちらも体裁を気に掛ける質であるから、驚いてやりたいが、驚く訳には行かない。だからと言ってこのまま放って置くと、それでは腕の面目を潰してしまう恐れがある。私との邂逅が、腕にとっては人生を賭けた試みであるかも知れないからである。自分の体裁を保ちつつ、腕に失礼のない様にしなければならない。
 そこに腕があるのだから、どこかに耳もあるかも知れないと思い付いたので、私は咳払いをし、
「……何かご用がおありですかな、お嬢さん」
 腕は返事をしない。
「わざわざご足労頂いた所、誠に申し訳ないのだが。そう口を噤まれておいででは、こちらとしても、おもてなしの仕様がない」
 それきり黙って眺めていると、腕の血色がにわかに良くなり出した。そうすると私の声は届いているらしい。
「丁度酒もある。折角だから、こちらで一盞傾けはせんかね」
 口があるのかは知らないが、そもそも体はどこへあるのか。空調機の中であろうか。それでは配合がおかしかろう。私は杯に酒を注ぎ、立ち上がると、
「君、これが見えるかね」と言って腕に近づけた。
「いや、何も恥をかかせようと言う心づもりなのではない。私も独り身だからね、晩酌の相手が欲しいと思ったまでさ。君が嫌なら放って置こう」
 腕は掌を握ったり開いたりしていたが、やがて杯に手を伸ばした。どの様にして飲むのか気になりはしたが、そうした女性の挙動を正面から観察するのは無礼に当たるから、私は目を逸らした。酒が入っているとしても、そのくらいの分別は持ち合わせている。
 それから私は飲み直しながら、時折腕に話し掛けたりした。そうする度に杯を横目に見ると、確かに中身は減っている様である。杯が空くと腕は済まなそうにこちらへ渡して来るので、その度に酒を注いでやった。腕が物を言う事はないが、それがどうしたと言うのか。私は久し振りに酒を飲むのが楽しかった。
 もう寝ると言う段になって、
「君さえ良ければ、明日もおいでなさい」と言ったけれど、真っ赤になって酔っ払った腕は下へ垂れ下がるばかりで、私の声は最早届いていない様子であった。(了)