耳許

 疲れていると言うのに眠る事が出来ない。私はさっさと寝てしまいたいのであるが、どうにも上手く行かない。布団に入ったのが零時頃であるから、もう三時間もこうやってごそごそしている事になる。横になって目を瞑るまでは良いのであるけれども、真黒の瞼を見詰める内に却って段々と頭が冴えて来て、仕舞いにはひとりでに目が開いてしまう。
 静かな晩だった。空気が冷えて底の方へ溜まって行く気配を感じる。じっとしていると、庭の木立から葉の落ちる音や、床下を這う虫の足音を聞いた気になる。いっそ朝まで起きていようかと考えもしたが、そうすると明日の用事に差し支えていけないので、やっぱり眠らなくてはならない。
 何度目かの小用を済ませて、寝床へ戻って来た。私は眠たいのだ。眠りたい。眠りたいが、お茶を煎れて煙草を吸って見た所、非常に良い気持ちになった。
 布団の上に胡座をかいて歳時記を眺めていると、枕元の携帯が大きな音でいきなり鳴り出した。総身の肌がささくれ立つ程に吃驚して、少しばかりそうさせて置いてから、恐る恐る画面を覗いて見た。近藤と言う名前と、電話番号が映っている。私は通話のボタンを押し、携帯を耳に当てた。
「うい」
「おー。久し振り。まっさか、出るとは思わんかったわ」
 声は確かに近藤のものであった。私が電話を取らない質であるのは自分でも承知しているのであるが、それにしたって時間と言うものを考えてくれても良いのではないか。
「どしたん」
「あれ? もしかして寝てた? ご免よー起こしちゃってたら悪い」
「ええよ。起きとったし」
「そうなん? いやーなんか嬉しいわ。最近全然絡んでないし。またこっち、たまには出て来いよ。焼き肉でも食いに行こうぜ」
「まあ。うん。で、どしたん」
「ああ。そうそう。あのさー。いや、寂しくってさ」
「うわ。え、きっしょ」
「嘘やってー」
 近藤の大笑いする声を聞くと、眠りに纏わる先程までの憂悶が取るに足らない馬鹿馬鹿しい事の様に思われて来た。
「え。まじで寂しくって電話したん? 俺に?」
「んな訳ないやーん。いやさ。ちょっと、あれなんよ。相談、て言うかさ」
「ふん」
「あの、俺今一人暮らし、しとるんだけどさ」
「あれ? 実家は?」
「実家はなんか、親父がうるさいからさ、出たんよ」
「ふん」
「んで、それは良いんだけどさ。あれよ。俺が六股掛けとる話は知っとるっけ」
「四股までなら知っとる」
「あれからちょっと、また増えてさ。まあ、それは良いんだけどさ、ミヤコにバレてさ。三股分ぐらい。さっき」
「ミヤコ、て一番やばい奴やないの」
「そうそう。いっちゃんやばい奴。で、今から家に来るらしいのよ。ミヤコ」
「何しに」
「さあ」
「お前それ、逃げたんがええんやないの」
「だよねー」
 電話口から頻りにがさがさと言った音がする。近藤の声も何だか近くなったり遠くなったりして覚束ない。
「もう死ぬとか殺すとかさ、こええ事ばっか言うからさ、俺面倒臭くって。ハッシーが逃げろ、て言うんなら、逃げても俺悪ないよね」
「全部打ち明けて楽になるのも手ぞ」
「それやば過ぎるやろー」
 近藤は大笑いしている。余所様の事であるし、何分昔の事だから思い違いがあるかも知れないけれども、ミヤコと言った女は、直に面識がある訳ではないので込み入った事は分からないが、近藤の話を聞く限りでは色々の事柄を一々生死の問題にしなければ気の済まない質であるらしい。
「そんなら、ぼちぼちトンズラさせて貰いますかー」
 話をしながら荷物を纏めていたと見えて、暢気な鼻歌の節々に弾みが付き出したので、立ち上がって歩いているのであろうと思う。
「行く当てはあんの」
「ヨシエんとこでも転がり込もっかなー」
 声に被さってがたがたと言った音が響いた。それきり近藤は黙ってしまった。黙ったなりで、紙を捲る様な音が微かに聞こえた。
「どうかしたんか」
 遠くで近藤の声がした。「やべー」と呟いた様に思われた。
「おい。大丈夫なん」
「ああ。ご免。今出ようとしたら手紙入ってたわ。来とるっぽいわ」
「何つって」
「こよみのぽっちにあいましょう。すべたのくぎをたべましょう。だって。まじ意味分かんね」
「そらやべえな」
「んで、今部屋に戻って来たら、なんか、これまじやべーわ。ベランダにおるっぽい。カーテンの隙間から目が見えるもん」
 恐らく外へ聞こえないように小声で話しているのであるが、もう中に居るのは知られてしまっているだろう。堂々とすれば良いのにと思う。
「どうしたら良いと思う」
「ベランダおるんなら、普通に玄関からダッシュで逃げたらええやん」
「ハッシー頭ええな」
 言うなり色々のものの混雑する音で分からなくなった。最早電話なぞしている場合ではない様に思うが、私は近藤の事が心配であるから、携帯を耳に押し当てたままじっとしている。そうして直ぐ様、先程も聞いた、がたがたと言う金属の音がし出した。鍵を回しているのであろう。次いで勢い良く扉を開く音がして、遠くに「え」と言う近藤の声を聞いた。それに応えて、夥しい数の小鳥の囀りが水の中で鳴る様な気味の悪い音が、意味の分からない言葉を非常な早口で喋りながら段々と騒がしくなって行き、身じろぎも出来ない私の耳許いっぱいまで広がった所で電話は切れた。(了)