経立

〈改訂版があります こちらをおすすめします〉

 玄関が騒がしいので見に行くと、村井のおじさんが来ており、経立が出たから戸締りをしっかりとするようにと言った。
 どうやら犬の経立で、茂田さんの家に居たラブちゃんらしい。ラブちゃんは五年程前に山へ入ったきりだから、或いはそうかも知れないと思った。何度か散歩に連れて歩いた事がある。非常に大きく賢い、黒のラブラドールリトリーバーだった。

 明くる日は集団登校となった。自分は高校生なので、小中学生を大人と共に引率する形で学校へ向かった。所々に警官や自警団が立ち、パトカーが巡回していた。
 学校では教師から山には決して近づかないようにとのお達しがあった。高い山に囲まれた土地だから、この町自体も山の一部ではなかろうかと考えもしたが、きりが無いのでやめた。
 生徒たちの間では、経立だのと言うのは子どもを山に近づけさせない為の方便であり、実態としては、熊や猪、猿の類が悪さをしているのだろうと言う見解で一致していたが、一部の者からは、本当に妖怪の様なものが存在するのではないかと言った噂が囁かれた。
 授業中、窓から山を眺めると、山腹から靄が細く立ち登り、山頂の辺りは濃い山雲に紛れて、木々の色が暗く沈んで見えた。

 警官や猟師が見回りに当たっているそうだけれど、普段にも増して静かな夜だった。虫の音も無いから、自室でじっとしていると、雲が動く音でも聞こえる様な気持ちになって来る。電燈も灯さない方がよいと言う仰せだったから、さっさと寝てしまおうと思っていた所に、ナオからの電話が来た。
「明日学校、休みになんないかなー」と言うので、
「なっても外出れないっしょ」
「ほんとだ。いいよー、ヒッキーしてるから。ねえねえ、フッタチってどんななん? アキ、あんた、見た事あんの」
「うちは無いけど、お爺ちゃんが見たらしいよ。昔。超でかいんだって」
「きもいよねー。なんか、笑うんでしょ。まじきもい」
「でも今度のやつ、犬みたいやん。見たら案外可愛いかもよ」
「えー、まじで言ってんの? それ」
「見に行ってみよっかな。暇だし」
「やめときなって。食べられちゃうよー」
 外へ出ると、冷えきった夜気がやんわりと纏わり付いて来た。
 ナオにはああ言ったけれど、ラブちゃんの事が急に心配になっていた。五年やそこらで経立になる事があるのか知らと思う。今度のものは熊か何かの見間違いではないか。そうすると、ラブちゃんは今も山に居るのではないか。古い木の傍に独りで居るのを想像すると、胸が締め付けられた。
 ラブちゃんの事は仔犬の頃から知っている。ぼたん雪が繁く降り落ちる日に、私の長靴にくんくんと小さな鼻を押し付けて来た。茂田のおじさんに、こんなに人に懐いた事は無いよと言われて、非常に嬉しかった。どうして今まで放っておいたのだろうかと思う。茂田のおじさんはもう亡くなって、おばあさんだけだから、山に入って捜す者など居ないと言うのに。

 明かりのする方にはきっと人が居り、出遭うと面倒な事になるだろう。外燈の少ない田舎町だから、暗い裏道や畦道を静かに通って、人目に付かないよう気を付ける。そうして山の麓まで来ると、山腹にも明かりの射す所が見えた。山狩りだと思ったが、そうまでするものだろうかとも思う。仕様が無いので、道の通っていない所から無理矢理山に入る事にした。
 山へ入った途端に星が光り出した。山の中は真っ暗で、梢と夜空の境も曖昧だろうと考えていたけれど、木々の隙間からぎらぎらと、目に騒々しく感じられる程に星々がはっきりとしている。周りの景色も薄っすらと輪郭が浮かび上がり、灯りが無くとも行く道に難儀せずに済みそうだった。
 自分の息の音を聞きながら歩いている内に、深くに入り込んだらしい。どちらを向いても植物ばかりだが、もしかしたらそうでないかも知れないと言う気になって来る。
 大きな岩の上に腰を掛けて、耳を澄ましても、相変わらず自分の息の音より外には、草木の擦れも、鳥や虫の音も無い。上を見ると、星々の煌めきがけたたましい。月を探しても、どこにも無い。角度の問題かも知れないけれど、昨夜は出ていた様に思う。
 暫くそのまま座っていると、どこかで遠吠えがした様だった。何の遠吠えかは分からない。聞いた事のある音の様にもあるし、初めて聞く様にもある。不意に、自分はどうしてこんな事をしているのだろうかと思うと、手や顔が急に痛み出した。木の枝や草の何かで、知らない内に傷が出来ていた。帰れなくなったら どうしようかと考えたが、帰った所でどうすると言うのだろうか。
 再び遠吠えがした。獣の声にも聞こえるし、人の声にも聞こえる。そちらの方へ行ってみようと思った。今よりもずっと小さかった頃に、祖父に連れられて、よく山に入った事を思い出す。鳥や植物、きのこの名前を多く教わったけれど、殆ど忘れてしまった。父が母を殺して首を縊ってから、ずっと祖父と二人で居た。その祖父も先日亡くなった。当時は気持ちが無かったが、今になって全てが悲しく思われて来る。父母や祖父の事だけでなく、思い返される記憶の全てが悲しい。肌が痛む。きっと血が出ている。
 脚が重たくなっていたが、それでもゆっくりと歩いた。峠に近いかどうかは分からないけれど、随分高い所まで来ている。
 高く太い木の根元で、何かが動いた様に見えた。はっきりとしないが、何かの影が蹲っている。犬にしては大きいし、熊にしては小さい。
「ラブちゃん?」
 近づいて声を掛けると、影の中から、何かこちらへ素早く伸びるものがあった。蛇だと思い、反射的に払った。見ると人間の腕だった。
「誰?」
 返事は無かったが、起ち上がる気配がした。暗がりに二つの眼が輝いていた。
「女かよ」と声がした途端に、遠くで強い明かりが射した。そちらへ気を取られた隙に、押し倒された。
「なんだってお前、餓鬼がこんなとこに居るんだよ」
 大きな手で口を塞がれ、声を発する事が出来なかった。濃い鉄の臭いがした。
「まあいいや。俺もここまでだろ。娑婆での最後の思い出に、良い思いさせて貰わねえとな」
 片方の手で胸を弄られた。押し退けようとすると、大きな肉厚のナイフを頬に当てられた。
「じっとしてりゃ殺さねえよ。直ぐ終わるからさぁ、一緒に良い事しようぜ、な」
 男は鼻歌を歌いながら、こちらの衣服をナイフで裂き始めた。自分の上に馬乗りになった大きな体の向こうに、木の影が覆い被さっている。その向こうには星明かりが冷たい。警官たちは、この人を捜しているのだろう。
 どうでも良くなったので、眼を閉じた。鉄と脂の臭いが、山の匂いに合わさって気持が悪い。機嫌の良い鼻歌と、獣の様な息遣いと、布地を裂く音ばかりが聞こえる。
 不意に鼻歌が止み、併せて男の手も止まった。頬に生暖かい液体が垂れた。
 眼を開けると、男は黙って前方を見詰めていた。その表情から読み取る事が出来たのは、困惑だった。
「なんだこれ」
 言うなり、男の首は無くなった。軽自動車よりも大きな、黒い犬の顎が、男の首から先を咀嚼していた。そうしてこちらへ鼻を向けると、くんくんと優しく擦り寄せて来た。
「ラブちゃん?」
 男の体を退かし立ち上がると、向き直って正面からそれを見た。随分大きくなっているけれど、自分の捜していたものだと言う確信を持った。
 ゆっくりと近づき、鼻の周りを撫でてやった。毛はすっかり硬化して、枯木の樹皮の様な肌触りがした。
「経立になったのね」
 大きな瞳を覗くと、星の瞬きを反射して、潤んだ様に見えた。そのまま抱きしめて、顔を埋めた。微かに木の匂いがした。
「可哀想なラブちゃん。ずっと独りだったんでしょ」
 涙が溢れて来た。
「ラブちゃんのおじさん、もう死んじゃったよ。私のおじいちゃんも死んじゃった」
 静かに、大きな躰が自分を包んだ。温かかった。
「独りってどんなの? 寂しい? 寂しいなら、私の事、攫って行っても良いよ。ラブちゃんと山に居るから。そうじゃなかったら、殺して。この人みたいに、食べてよ。お願い」
 こちらの方へ、大勢の声が近づいて来る様だった。山狩りの一団だと思った。
「ラブちゃん」
 経立は身を起こすと、私の顔を見詰めていた。そうして尻尾を揺らして、牙を剥いた。笑った様に見えた。
「おい、誰か居るんか」
 背後で明かりが射した。
「なんだこりゃあ。おい、あんた、大丈夫かね」
 大きく、黒く、賢く、優しかった。あの頃から今まで。もう居なかった。目の前から消え失せて、後には山の暗さと、立ち並ぶ木々や落葉、岩肌、高く煌めく星々が残されているのみだった。二度と会う事は無いのだろう。それで良いと思った。

 大学へ進学して、それから社会に出た。今でも時折、鏡の前でラブちゃんの笑い方を真似る事がある。力を込めて、歯を剥いて笑うと、日々の明け暮れに纏わる苦悩が取るに足らない事の様に思われて来る。自分に牙は無いけれど、今の所、どうにか世間に噛み付いている。(了)