砂の祝福(未了)

 一 砂の在処

 方々から運ばれた、季節の残滓と言ったものがそこかしこに散らかり、行く先を飾る。
 遠景の山は既に白い。しかしこの辺りは北方と言って差し支えない所だから、時候に構わず頂の辺りは年中白いのかも知れない。鎧戸がそう考えた途端、小さい子供が二三彼の脇を擦り抜け、町の方へ向かい駆けて行った。色のない風が山の白い頂を烟らせる。枯木に触れた様な静けさの切れ端が漂う。その様な町だった。
 削った丸太を組んで建てたらしい、黒ずんだ家々の軒下を潜ると、石畳の大通りへ出た。開けた道の真中には大きな焚き火が色の薄い焔を揺らしている。鎧戸は道沿いの露天を覗き、赤い髭の夥しい主人に銭を渡し、兎の干肉と馬鈴薯、少しばかりの米を受け取った。酒はないかと訊いたが、ここにはないらしかった。
「酒なら辻向こうの宿で、お神さんに都合して貰うと良い。酒場もあるにやあるが、あすこの旦那は吸血鬼に片足を突っ込んじまってるから、日が暮れないと起き出して来ないのさ。」
「有り難う。」
 鎧戸は続けて、
「絣に会うにはどうしたら良いんだろうね。」
「あのお方の顔は、もう随分と見ていない。山の深くに庵を結んで、それきりさ。思い出した様に下りて来て、珍しい花やでっかい猪なんぞを酒に代えて行く事もあったが。様子を見に行こうにも、あんな所に居られちゃあな。」
「方角を教えて貰ったら、勝手に行くよ。」
「見た所、旅慣れしている様には見えるが。それでも山は険しい。呉れ呉れもお気を付けて。」
 買い物を済ませ、鎧戸は大通りの隅にある腰掛けに腰を下ろした。人通りは少なく、また途切れる事もない。行商の女が大きな荷車を引きながら歌を歌っている。北国の女らしく響きの良い声だが、歌の意味は分からない。
 瞳の上を辷る人波を見るともなしに、鎧戸はぼんやりとしていた。そうした塩梅に自分を風物の内に置き去る事を好んだ。
 町を出ると、川に沿って伸びる道を歩いた。日は未だ高く、暫くの間は時折田畑を行き来する人に擦れ違いもしたが、道は段々とその形を綻ばせ、やがて途切れる頃には鎧戸は森の深くへ入り込んでいた。
 高く鋭い木々の傘を透かして、目の眩む様な日差しが降りている為に、辺りは却って暗く沈んで見えた。彼方から薄っすらと斧の鳴る音がするのを鎧戸は聞いた。木こりが居るのだろうと思った。日が暮れれば彼らも家へ帰る。あの町へ帰って行くのだろう。森は暗いが、その暗がりは柔らかい。
 景色が雪を被り出すに連れて、段々と木は少なくなり、身の回りが澄んで行く。開けた空の色は幾重にも折り重なった透明の色だった。鎧戸は白い岩の陰に、やっぱり白い花が咲いているのを見付けた。白い雪に埋もれ掛けているのを、立ち止まって眺めた。
「ちょっと。ちょっとあんた。」
 鎧戸は声のする方を見た。岩の上に小さな青魚が落ちていた。
「そうそう。あんたよ、あんた。あんた鎧戸でしょう。知ってるわ。」
 青魚は小さな口をぱくぱくと喘がせた。
「魚の知り合いは居なかったと思うんだけどな。」
「こんな美人を捕まえといて、よくもまあそんな口が聞けたものね。覚えときなさいよ。」
「そんな所に居て、干乾びやしないのかい。」
「そうそう。その事よ。ぎりぎりよ。ぎりぎりやばいわ。だからちょっと、水場に連れて行って頂戴よ。」
「水場、たって、こんな所にあるものかい。」
「もう少し登った所から、水のにおいがするわ。山水の良いにおい。山水なら上等よ。江水が中、井水が下よ。私は海水が良いけれど、贅沢言ってられないわ。」
「山水が上等、て話なら、十分贅沢だと思うんだけどね。」
 鎧戸は青魚を掌に軽く握り、また歩き出した。
「絣のとこに行くんでしょう。」
「何でも知ってるね。」
「当然よ。」と言って、青魚は笑った。
「君も絣に用事があるのかい。」
「別にないわ。偶々近くまで来てただけよ。」
 厚く積もった雪の上を鎧戸は好い加減に歩いた。一向水の気配がする事はなく、干乾びてしまう前に青魚を雪に埋めてしまった方が、保存が効いて良いのではないかと考え出したが、やがて山の勾配が急になったと思うと、行く先に階段の遺構らしきものが現れた。半ば雪に隠されているが、今自分が立っている所も以前は道だったのかも知れない。鎧戸はそうした風情に嘗ての人々の行き来する姿を偲んだ。
 階段を登り切ると、風化しつつある石組みの祠が目に入り、次いで清廉な湧き水の流れと、流れの脇に腰掛け中へ脚を浸す少女の後ろ姿が認められた。
「見いー付けた。」と青魚が言うなり、少女はこちらへ振り返ると、非常に吃驚した顔で、
「神様。」と声を上げた。
「臙脂ちゃあん。私の事放ったらかしにして、どこで遊んでたのか知ら。」
「ご免なさい。ご免なさい。あの、探してたの。ずっと。」
「嘘仰い。ここに来るまで気が付かなかったんでしょう。」
「そんな事、そんな事。」
 臙脂と呼ばれた少女は、腰掛けたなりで脚をばたつかせた。跳ね上がった細かな飛沫が日の光を映した。
 鎧戸は湧き水の傍へ寄り、流れの緩やかな溜に青魚を逃した。そうして手袋を脱ぎ、手を洗い、口を漱ぎ、祠の元へ行くと座してこれを拝した。
「流石、鎧戸くんは違うわね。あんたも見習いなさいよ。」
「え。あの人が鎧戸くんなの。もっとおじさんだと思ってたのに。」
 瞑っていた目を開き、鎧戸は祠の中を眺めた。平石が二三積まれている後ろに、色の褪せた幕が垂れるばかりで、そうした子供の悪戯の様な素朴さが彼の心を打った。
「その子の名前。教えてあげましょうか。」
「本当に何でも知ってるね。」
「そよ風。小径。汀。粉雪。そんな感じよ。それは昔の人との約束でもあるわ。今も一人で守ってる。何となく守ってるのよ。」
 水面に顔を出した青魚の姿は、見違える程艷やかな光を湛えている。
「君は神様なのかい。」
「そうよ。偉いのよ。」
「そうなの。偉いの。」
 鎧戸は臙脂と呼ばれた少女を見た。肩まで届かない程に癖毛を伸ばした背の低い少女で、寸法の合わない少しばかり大き過ぎる外套を羽織るより外には、随分涼しそうな格好をしている。
「君は寒くないのかい。」
「あの、あの。臙脂、て言うの。あちし。普通かな。」
「俺は鎧戸。」
「鎧戸くん。知ってるよ。」
「有名になったもんだね。」
「え。有名人だよ。」
「そうなのかい。」
「あれ。違うっけ。」
 くつろいだ風な喋り方で言いながら、臙脂は肩から下げた鞄を開くと、硝子の瓶を取り出した。そうして蓋を回し、瓶を流れに沈め山水で満たした。
「神様。もう入っとく?」
「今度は丁重に扱いなさいね。」
 鎧戸は瓶の中に収まりじっとする青魚に、
「それじゃあ、俺はもう行くよ。」と言った。
「まあ。もうお別れなんですって。臙脂ちゃん。」
「なあに。」
「あんたはどうすんの。」
「え。」
 臙脂は目を丸くした。
「何かこの辺に、用事があって来たんじゃないのかい。」
「私はないわよ。なんにも。この子の行きたい様に行かせてるだけだから。」
「変わってるね。」
「どうしよ。どうしよっかな。神様。てきとうで良い?」
「良いわよ。」
「なら、鎧戸くんに付いてこっかな。」
「良いんじゃない。」
「俺にくっ付いて来たって、面白い事なんぞ何もないと思うよ。」
 その様な事を言いはしたが、道連れを拒む理由も鎧戸にはこれと言って見当たらなかった為、押し問答ともならない内に二人と一匹は連れ立って行く事になった。
 相変わらず日は高い所にあり、空は澄み渡っている。鎧戸は白樺の林を行きながら、向こうの尾根の荒涼たる様を眺めた。鋭い風が辷る度に雪が細く舞い上がり、風の筋を直に見る様だった。
 山は険しいと言った赤髭の主人の言葉を思い出す。行く先を塞いで非常に大きな亀が丸まっているのを二人はよじ登ったり、地面が急に途切れて崖になっている所を飛び越えたりした。狼の遠吠えを聞き、つららに化けた蟷螂をやり過ごし、若い狒々を掴み飛び去って行く猛禽を見た。「こんな所によくもまあ。」と青魚が言うのも仕様のない事に思われた。臙脂は山の営みに一々興味を惹かれるらしいが、しかし離れる事もなく鎧戸の後を付いている。女達はよく喋り、後ろであれこれと言葉が交わされるのを鎧戸は流して聞きながら静かに歩いた。平生一人で居るので静寂には慣れていたが、だからうるさいと言った感じも起こらず、そう言うものなのだろうと内々に合点行かせた。
 峠を過ぎると、にわかに緑が戻って来た。
 鎧戸は頂に小屋でも拵えて居るのか知らと考えていたが、どうやらその様な事でもないらしく、勾配の緩い坂をだらだらと下ると、再び櫛の様な森が鬱蒼とし出した。
「ちょっと。本当にこっちで合ってるの。」
「確かにこの方角だと思うんだけどね。」
 鎧戸は磁石を取り出して言った。
「暗くなって来たね。もしかすると、見過ごしてしまったのかも知れない。神様にも分からないかな。」
「分かるわよ。舐めないで欲しいわね。でも駄目。下々の者達を甘やかしちゃいけないのよ。調べるのも面倒くさいし。」
「神様、眠たいんでしょ。」
「あんたと一緒にしないでくれるか知ら。」
 落雷か何かに倒された、大きな樹が転がっているのに腰掛けて脚を休めた。鎧戸は辺りを見回した。昼間来た山にはどこか軽やかな明るい空気が流れていたが、時刻の所為があるにしても、今は森閑として、青魚や臙脂の声も響かない。ここで一晩明かす事になるかも知れないが、それでもやっぱり雪の中で過ごすよりは増しだろうと考えた。
「神様に名前あるのかい。」
「あるわよ。」
「何て言うんだい。」
「あんた達の言葉にはないわ。さっきの子だってそう。一つの名前で表そうなんて横着しちゃ駄目よ。……そうね。渦。気紛れ。移ろい。凪。外にも色々あるけれど、それらすべてでもあるし、どれでもないのよ。」
「難しいんだね。」
「あちしも、神様の言ってる事よく分かんない。いっつも。」
「馬鹿ねえ。簡単な方がしんどいわよ。」
「どうして臙脂と一緒に居るんだい。魚の格好なんかして。」
「あら。」
 青魚は嬉しそうに笑い、
「人間の格好なんかしてたら、城を傾けるわ国を傾けるわで、えらいこっちゃよ。」と言った。尋ねた半分の答だったが、鎧戸はそう言った所に頓着する男ではなかった。
「あれなあに。」
 臙脂の指差す方を見ると、熊よりも大きな毬藻に手足の生えた様なものが、向こうへ歩いて行く姿があった。
「栗鼠の寝床だよ。山の中で時々見るね。」
「栗鼠が入ってるの。」
「栗鼠ばっかりじゃないね。ああやってそこいらをうろうろしながら、足許に転がっているものを拾っては、自分の体に突っ込んで行くのさ。」
「食べちゃうの。」
「いいや。多分、雨水なんかを吸って生きているんじゃないかな。中はちょっとごわごわしてるけれどね、出ようと思えばいつでも出られる。山で迷った子供が入っている事もある。それにしても、……。」
 見た所両手に桶を下げているらしく、不思議な事だと鎧戸は思った。桶と言った風な道具を使い、水を汲む事があるとして、それを一体どうしようと言うのか。
「後に付いて行って見ようか。」
 そうすれば恐らく、絣の元へ繋がるのだろうと言う予感があった。
 こちらへ気が付いていないのか、或いは気に掛けていないのか、分からないが、栗鼠の寝床は歩みを急かすとも遅らせるともなく、暢気な調子で森の奥へ進んで行く。西日の色に作られた影法師が、のっぺりとして木々の表を這い、また地面に這った。
 藪に紛れ、茂みを潜り、臙脂が頭に蜘蛛の巣を引っ掛けたのを取ってやり、いつの間にか栗鼠の寝床の上に嘴の短い鳥が羽を休めているのを眺める内に、森が開けて来た。
「おうちだ。」
 竹を編んだだけのささやかな門構えに、低い生け垣が花を付けている。奥には細い木で組まれた小さな平屋が静かに佇んでいた。栗鼠の寝床は門前まで行くと桶を下ろし、振り返って鎧戸達の元まで来ると、立ち止まる事もなく擦れ違い、そのまま来た道を帰って行った。
 鎧戸は生け垣の傍に立ち、中を覗いた。庭には柳や芥子が植えられ、自分には分からない何かの決まりに従って、微妙な塩梅で配置されているらしく思われた。細く隙間の開けられた家の引き戸から、微かに香のにおいがした。
「何だ何だ。」と言いながら、裏から男が出て来た。
「鎧戸じゃねえか。何だよいきなり。」
「絣。お久し振りです。」
 鎧戸は会釈をした。目付きの悪い、筋張った体に前合わせを着た絣と言う初老の男は、自分の腹を掻きながら「うむ。」と言った。
「つうかお前、生きてやがったのか。俺あてっきり、もうおっ死んじまったんだろうと思ってたぜ。」
「おじさんが絣なの。」
「ん。この餓鬼あ何だ。」
「あちし臙脂だよ。」
「ちょっと来る途中、色々ありまして。」
「ほうか。」と言って絣は門前まで行くと、真水で満たされた桶を抱えた。
「お弟子さんですか。こんな話、聞いた事ないな。」
「それも面白えかもな。俺も知らねえがよ、向こうも好きでやってるんだろうから、こっちが無闇に詮索する様な話でもねえわな。」
 鎧戸は絣の声や言葉を懐かしく感じた。自分を知る人間に変わりがない事を嬉しく思った。
「俺が持ちますよ。」
「ん。悪りいな。」
 家の中へ通され、囲炉裏を囲んで座ると、土産に持って来た酒と肴で一献傾けながら、鎧戸はここに来るまでの道程を話した。そうして夜の更け掛ける頃合いまで静かな語らいを楽しんだ。
「……。で。どうしたんだ、お前。客があるのは嬉しい事だがよ、暮れの挨拶って訳でもねえんだろう。」
 囲炉裏の炭が乾いた音を立てた。鎧戸は傍に転がっている臙脂を眺めた。酒を口にしたのは初めての事だったらしく、締まりのない顔から微かな寝息が漏れている。
「麓の町を見て回ったんです。良い町でした。」
「だろ。」
「中央から離れてる事もあるんだろうとは思うんですけど。あの町の人は皆、それこそ物乞いから殿様まで、あなたの事を慕っていた。だからだろうと思うんです。」
「そりゃあ、天下の絣だもの。受けざる者だったとしてもね。」
 鎧戸の脇で瓶に収まった青魚が口を開いた。
「でも田舎に行く程、そんなものなんじゃないか知ら。」
「そうさ。そこの魚の言う通り、俺が何でもかんでも首い突っ込んだ訳じゃねえ。あすこは初めからそうだった。だからここに構えようって気にもなった。」
「俺、吃驚しました。受けた、受けてないの話じゃなくって、単純に体格だとか、性格や向き不向きだとかで仕事や生活が成り立っている。」
「殿様が話の分かる奴なのさ。お上から寄越されたにしちゃあな。」
「あんなの初めてですよ。」
「確かにそうかもね。まるでそんなものが最初からないみたいな感じだったわ。珍しいかも。」
「受けざる者。て言う人が、俺はそんな言い方嫌いですけど、そうやって殿様なんかと話を付けられる事が、外じゃちょっと有り得なくって。やっぱり凄いと思うんです。」
「受ける者の極め付けみてえな奴が言いやがるんだもんな。そりゃどうも、有り難うよ。」と言って、絣は笑った。
「絣。絣。……。」
 青魚は嬉しそうに身を捩らせた。
「あんだよ。」
「釣り合いの取れた天秤を傾けるのがこわいから、こうして引き篭もっているんでしょう。絣。八人の教授の内で、唯一人の受けざる者。剣の達士。最強の受けざる者。」
「おいおい。鎧戸。こいつ間者なんじゃねえのか。」
「失礼ね。神様だ、て言ってるでしょう。あんた達の世の中がどうなろうと知ったこっちゃないわ。見てて面白いけど。」
「随分とお前、凄えな、近頃の神様ってのは。……。まあ良いや。お前がこうしてここに居るって事あ、薄端の野郎をぶっ殺して来たんだろう。よくやったもんだ。」
 鎧戸は俯き、
「いえ。」
「ん。未だ行ってねえのか。」
「いや。行きました。」
「行って、何して来たんだ。」
「話をしました。」
「で、どうしたんだ。」
「帰って来ました。」
「どんな話をしたんだ。」
「丁度、今神様が言った様な事を。」
 絣は暫く黙っていたが、やがて足を崩し気楽な格好をすると、堪えていたものを吐き出す様に膝を打って笑い出した。
「傑作だな、そりゃあ。」
「だからもう、俺の務めは終わったんです。」
 鎧戸は絣に掌を差し出した。
「貸して下さって、有り難うございました。返しに来たんです。今日は。」
 絣は鎧戸の掌を見詰めた。
「外の連中にも返したのか。」
「ええ。絣が最後です。」
「それでお前も、ただの人に戻る訳だ。勿体ねえな。」
「借りたものは返さなくちゃ、何だかせかせかした気持ちになるんです。」と言って、鎧戸は初めて笑った。
「で。そっからお前、どうするつもりなんだ。」
 青魚は瓶の中から鎧戸を見上げた。その顔には心持ちを読み取れる様なものは何も浮かんでいなかった。いつまで経っても彼の口から返す言葉が出る事はなかった。
 そうして皆暫く黙っていたが、やがて「やるよ。」と絣は言った。その表情もまた何でもない風なものだった。
「何の役に立つかも知れねえが、そんなもんで良かったらくれてやる。」
「止して下さい。」
「まあ聞けよ。俺あな、もう直と死ぬ。てめえの死期ぐらい分かるさ。……。思い返しゃあ、人を斬ってばかりの人生だった。大剣豪って言や聞こえは良いがよ、それだけじゃねえか。強けりゃ良い、巧けりゃ良い、てな。そればっかりだった。なあ、鎧戸よ。俺はお前に、俺の磨き上げたもの、俺の生涯を懸けて鍛え抜いたもの、それを渡す時、外の連中はどうだったか知らねえがよ。嬉しかったんだぜ。弟子を取る、なんざ考えた事もなかったが、てめえの面倒見るので精一杯だったからな。だがその時初めて、俺の技が俺の手を離れ、受け継がれ、洗練されて行く予感をよ、楽しみに思ったんだ。さっきのお前じゃねえが、俺の務めは終わったと、そん時あ柄にもなく感じたんだよ。……。それにな、」
 絣は床の間へ目を向けた。古銅の花入れに一つだけ咲き掛けた紫玉蘭が入れてあった。
「何かやる事あねえかと考えてな。暇なもんだからよ、昔の本なんぞを読みながら、花あ生けて見たり、茶あしばいて見たり、下手の横好きだがよ、一端の爺様気取りだ。しかしこれがまた面白くってな。それに、何だ。その、……供養も兼ねているんだろうよ。」
「供養ですか。」
「俺がこれまで斬って来た連中だとかよ、良い奴も居りゃあいけ好かねえ奴も居たが。そんなもんじゃねえんだ。そんな分かり切った事じゃねえ。朝露の行く先、枯れ葉の色、浮浪雲、雑踏のいきれ、墨の滲み、砂煙。思い返せば皆俺を供養していたんじゃねえのか、てな。近頃はそう思うのさ。」
 鎧戸には絣の言う事が分からなかった。しかし分からないなりに彼の生けた花は美しいと思った。空気にひびを入れた様な枝の節や、何でもない所にいきなり咲き掛けた花の、動かし難い静けさを好ましく思った。
「だからよ、もう良いんだ。俺は。」
「良くないですよ。」
「聞かねえ餓鬼だな。」
 絣は笑いながら言った。
「要は、今更俺んとこに戻って来たって仕方ねえ、て事だよ。」
「そうよ。鎧戸くん、貰っときなさいよ。折角なんだし。」
「俺の方がおかしいんですかね。」
 鎧戸は絣をまともに見詰めた。
「死ぬものは、それは俺だって仕方ない事だと思うんです。寂しいですけど、……。もう直ぐだ、て言うなら、俺は、だからこそ、絣には剣士として死んで欲しいと思うんです。絣は死ぬまで最強だったと、他所の人に自慢したいんです。」
「……。下らねえ。それがお前の願いかよ。」
「はい。」
 絣は目を伏せ、
「照れちまうな。」と言って、ゆっくりと手を伸ばし、鎧戸の掌を握った。二人は丁度、握手をする様な格好になった。
「済まねえ事をしたな。」
「いえ。楽しかったです。本当に。」
「もう好きに生きろよ。お前は。俺もお前の言う通りに余生を送ってやるから。……それにしたって、透綾なんぞはお前が返しに来るまで気が気じゃなかったろうな。」
「ちょっと怒られましたからね。繻子には泣かれました。あの時は困ったな。」
「あいつらしいや。」
 抱えていた気掛かりが漸く片付き、その晩鎧戸はすっきりとした気持ちでよく眠った。臙脂と二の字になって眠る姿には、歳相応のあどけなさがあった。
「砂の祝福。」
 そうした二人を眺めながら、青魚は言った。
「何だいそりゃあ。」
「鎧戸くんの事よ。」
「祝福に名前なんぞがあるのか。」
「私が勝手に呼んでるだけよ。似た様なのは外にもあるけれど。他人の祝福ばかりじゃなくって、この子の異常な所は、受けざる者からも知識や技術を奪える点よね。」
「そっちの方面にゃ明るくねえが、透綾の入れ込み具合いを見るに、大層な祝福なんだろう。」
「あんた達の考えた事は、実際悪くなかったんじゃないか知ら。薄端と話が出来た、て事は、そう言う事よ。あのいかれた古術師と。その代償がこれよ。可哀想に、もう殆ど廃人じゃない。」
「責任は俺らにあるさ。」
「責めてる訳じゃないわ。鎧戸くん言ってたじゃない、楽しかった、て。あんたの事も、外の教授達の事だって、尊敬してるんじゃないの。だから返して回ったんでしょう。それに、この子を窓にして、そこから世の中を覗くのも良いかも知れないわ。臙脂ちゃんは、可愛いけれど、ちょっとものを知らなさ過ぎるのよね。」
「このちんちくりんは一体、どっから拾って来たんだ。」
「本人に言っちゃ駄目よ。」と青魚は前置きして、
「体は私が作ったんだけれどね。泡と貝殻と、珊瑚なんかを材料にして。本当は私が入る為の器だったのよ。地面を歩き回りたかったから。けれど、何だか知らない間に、勝手に中身が入ってたのよね。それで趣向を変える事にして、この子と一緒になってぶらぶらしてる訳。」
「自分はわざわざ魚になって、ご苦労なこったな。外に何ぞなかったのかよ。」
 青魚は笑うと、
「無力を楽しんでるのよ。あんたとそう変わりやしないわ。」と言った。
 明くる日の朝の遅くになって、鎧戸は目を覚ました。薄暗い家の中へ、明かり取りから来る日の光が鋭く差し込まれていた。辺りを見回したが誰も居ないので、外へ出て見ると、冷たい空気が一どきに体中を引き締めた。
「鎧戸くんだ。お早う。」と言うのでその方を見ると、木刀を構えた臙脂と、傍に積まれた薪に腰掛け煙草を吹かす絣の姿があった。
「そうそう。そっから、今教えた様に踏み込んで見な。」
「とう。」
 間の抜けた掛け声と共に、木刀の切っ先は非常な速さで筋を描き、心得を持たない者が見てもはっとする様な動きを見せた。
「巧えじゃねえか。お前本当に素人かよ。」
「当たり前でしょ。臙脂ちゃんは凄いのよ。」
 絣の足許にある桶の中から飛沫が立ち、はしゃぐ様な声がした。
「稽古を付けてるんですか。」
「そんな良いもんじゃねえよ。ほんの触りだけだ。お前も、ほれ。」
 放られた木刀を辛うじて受け取ると、思っていたよりも随分重い事に吃驚した。
「教えてくれるんですか。」
「お前、俺に返すまでお前のもんだった、何だ、動き方なんぞも、全然覚えてねえのか。」
「何となく、覚えてるんですけど。」と言って、鎧戸はぎこちない構えを取ると、木刀を無闇に振るった。そうして木刀の重さに連られるまま、地面のでこぼこに足を詰まらせて転んだ。
「それはお前、全然覚えてねえ、つうんだぜ。」
 駆け寄った臙脂に支えられ、鎧戸はようよう身を起こすと、
「昔っから運動音痴で。」と済まなそうに頭を掻いた。

 北国なりに、冬の明けた事が分かった。水を運んで来た栗鼠の寝床が花を付けていた。臙脂は指差して喜んだ。
 そろそろだろうと、鎧戸はそう考えていた。墓前に故人の生前好んだ花を供え、香を焚き、静かに拝んだ。今では臙脂も、少なくとも鎧戸の知る祈りの作法は身に付けている。
 主を失った小さな家で寝起きしながら、鎧戸は少しずつ周りのものを片付けて行った。隅の棚から二三の手紙を見付けた。表にはそれぞれ宛名が書き付けてあり、縁があれば渡す事に決めた。
「忘れ物はないかい。」
「ないよ。多分ね。」
「威張って言うわね。」
 戸締まりを済ませ、二人は門の前に立つと、振り返って家を眺めた。
「お世話になりました。」
「お世話になりました。」
「暮れにはまた帰って来ます。多分。」
「多分ね。」
「それでは、行って参ります。」
「行って来ます。」
 目的地と言った事なぞ何一つ決めてはいなかったが、鎧戸はそこへ自分の資質の様なものを認めつつあった。それは剣ではなかった。また人から借り受け、そして返して来たものの中にもない。
 峠を越え、麓の町へ下りる道程は初めよりも幾らか甘い様に感じる。臙脂と出会った湧き水の畔まで来ると、雪解けの大水が滝の様になって低い所へ降り注ぎ、ごうごうと音を立てていた。感嘆の声を漏らす臙脂の横で、取り敢えず西の方へでも行って見ようかと気楽に考えている。