獲麟

 暗く、深く、冷たい横穴の奥で、老人が独り死につつあった。枯れた藁を編んだもので身を包み、土の上に転がっている。
 老人は目を開いているが、明かりはなく、周りのものは見えず、昼夜の区別も付かない。指一本動かす事なく、この目を閉じればそのまま死ぬのだろうと、ぼんやりとそう考えている。
 目の前を塗り潰す暗闇の中から、不意に木立のそよぐ音がし出した。柔らかな春の風に乗って、微かな人いきれがした。
「早く」
 老人は既に聴力を失っていたが、確かにその声を聴いた。知っている声だった。幼い頃に故郷で聴いた声だった。
 そう思うと、もう目の前に郷里の景色が広がっている。日射しを受けて、草木や家々の瓦、川の水面や道端の石ころのあちこちに、小さなきらめきが瞬いている。それらを背景にして、横たわる老人に向かい手を差し伸べる少女の姿がある。
「どうしたの。早く」
 老人は差し出された小さな掌を見詰めた。自分の腕はもう動かない。もし動くのならばその手を握ったろうかと考える。
「もう。先に行っちゃうよ」
 それきり再び元の暗闇に戻った。今際の際に見るまぼろしの類だったとしても、老人は息の詰まる思いがした。
 その子はそうして死んだのだ。思えばそれで仕合せだったのかも知れない。明るい内に帰るのが良い。暮れても外へ出ているのは止すべきだろう。
 暗闇の中に小さな火が立った。燐のにおいがした。老人の目先で誰か煙草に火を灯したらしかった。煙の筋が鼻を掠めた。知っているにおいだった。
「目が覚めたか」
 小さな手漕ぎの船の上だった。正面に煙草を咥えた男が腰掛けており、その奥にもう一人、向こうを向いて船を漕ぐ男がいる。辺りには濃い霧が立ち込め、遠くの空に卵の黄身の様な朧な太陽が浮かんでいる。
「今の内にゆっくりしときな。岸に着いたら寝る間もなくなる」
 男は澄んだ目を老人の方へ向けて言った。
「俺のオツムとお前の腕があれば、恐いもんなしさ」
「おいおい、そうすると俺は」と言って、船を漕いでいた男がこちらを振り返った。
「お前はアレだ、女をたらし込む才能だな」
「もっと何かあるだろう」
「良い意味で言ったんだがな」
「ならお前は足が臭い。良い意味で」
「なんだそりゃ」
「ああ、あと生え際の後退もやばいな。良い意味で」
「こいつめ」
 そうして二人は笑った。老人はそれを見詰めていた。自分の顔はもう動かないから、笑えない。しかしその時は確かに笑っていた。自分の生涯の内で唯一、友達と呼べる人間と共に過ごした日々だった。もう居ない。直ぐに死んでしまった。二人と離れて随分経ってからその事を知った。
 老人は暗闇の中で泣こうとしたが、出来なかった。
 どこからか虫が入り込み、老人の顔に留まったらしかった。眉毛の辺りに、薄っすらと細い脚を這わせる感触がした。
 格子の嵌った明かり取りから月明かりが射し込み、壁際に座る巨漢の輪郭を照らした。
「ようこそ。歓迎するよ」と言って、男は脂肪を揺らしながら笑った。
「良い所だろう。僕はここで詩人をやっているんだ。いや、ここに来る以前からだけれどね。言葉を探している。こんな監獄にも正しく通じる本当の言葉を。
 銀の月
 夜の耳
 冷たきに
 滴りたる君に出会えぞ
 石盆に座したり」
 老人はこの男を思い出す事が出来なかった。牢屋に居た頃に詩人を名乗る者と出会いはしたが、この様な人物ではなかった。
「そうだろう。君とは初めて出会ったが、僕は君の事をずっと前から知っている。君だってそうさ」
 男の体は急になくなり、纏っていたぼろだけが要を失い床へ広がった。少し遅れて、その上に男の頭が落ちると、頭は水風船の様に割れ、中から水が飛び散った。
 老人は浅く広い池の中に居る。横になっているから、顔の半分程が水に浸っている。黒く、きれいな水だった。白い水鳥が池のあちこちで細長い脚を立てている。水面には何かの花びらが時折落ちて来るが、どこから来るのかは分からない。老人はこの様な場所を知らない。
「もう時間がないからね。急ぎで行くよ」
 詩人の声がしたが、姿は見えない。
「君の思い出を繋ぎ合わせるのさ。どんなコラージュが出来るんだろうね」
 そんな事は止して欲しいと老人は思ったが、次から次から目の前に知っているものやそうでないものが現われ出した。
 枕木の抜けた線路、礼拝堂の硬い椅子、年増の女から貰った革靴、宿り木の絡み付いたアパート、割れたシンバル、服を着た象、友の墓、大きな木べら、回転木馬、双子の少年、茜空に浮かぶ飛行船、……。
 色々の品物や建物、人物や動物に囲まれ、老人はじっとしている。
 小さな花びらが目の前に落ちた。老人はそれを見詰めた。花びらは風に吹かれるでもなくゆっくりと水面を滑りながら、いつまでも同じ所を行ったり来たりしている。(了)