献夜

 どこから吹いて来るのか解らない、曖昧な、纏わりつく様な風が、日差しを照り返して真白になった砂の硬い地面を辷って行く。どこへ向かうともない。半紙に墨を垂らした様に、ゆっくりと辺りへ広がって行く。砂を浮かす事はなかったが、そこいらに立ち並ぶ松の立派な枝を鳴らした。
 いつの間にか眠ってしまったらしい。古びた経の流れが頭の上を過ぎて行く。開け広げられたお座敷の上には葬式らしい色々の品が見つかるが、どこか白けた風な感じがするのは恐らく花がどこにもないからだろうと思う。
 故人となった父親は花を嫌った。嫌ったと云ったのは語弊があるかも知れない。花をひどくこわがった。詳しい事情は知らないけれども、人の着物に一々花びらなぞを見出しては飛び上がってこわがった。それが大層面白かったから、前世は虫で食虫植物に食われたのではないかと、馬鹿げた事を姉と話し合ったのを思い出す。
 いつか母親に訊いて見ようかと云った気でいたが、それも叶わないだろう。訃報の折、母親の心のどこかに食い違いが生じたらしく、もう私共の知る女性ではなくなってしまった。この度も母親の執拗な申し立てによって花のない葬式となった。がらんどうの葬式だったが、変わってしまったとはいえ私共よりも随分永い事連れ添った者の願いだったし、何より故人の平穏に花は必要がない事くらいは私共も承知していた。
 お棺に入ったのを見ると眠っている様にあった。花を入れたら嫌がって起きて来るかも知れないと思った所で、双眸から涙がこぼれた。
 もう何も考えたくなかったので、上の空で居る内にお棺は焼かれ、出て来た白く小さいものを箸で摘むと横に居た姉が「ふふふ」と笑った。

 何故笑ったのか真意は計り兼ねたが、母親とは違い姉ははじめからその様な人だった。家を出た私の代わりに母親の面倒を見ていたが、先日海へ入って死んだ。夜の海だったと云う。
 夜の好きな人だったので、やっぱり母親は夜を願った。
「ねえねえ。夜を入れて上げましょう。今度は。あの人は、可哀想だったわ。だって嫌いなものばっかりでしょう。何も入れてあげられなかったんだもの、寂しいわ。だから、ね。今度は代わりに、夜を入れて差し上げましょうよ。あの子もきっと喜ぶから」
 私が家へ帰るなり非常に嬉しそうな様子で云った。云い返す気持ちにはなれなかった。
 方々へ遣いをやって、色々の段取りを行う内に、とうとうその日になった。時間が時間であるから来られない者は仕様がない。こちらが勝手に取り決めとした事で余所様の都合を煩わせるのも良くない。その様な考えでいたが参列者の数は思いの外で、私は受付の係を仰せつかったけれども、夜の未だ早い薄っすらとした暗がりの中で、後から後からひっきりなしに寄せる人波に故人の人徳の偲ばれる間もなかった。
 父を弔ったお座敷は、あの時とは随分様子が違った。暗く広い中に蝋燭のちいさい明かりが点々と連なっているばかりだった。辛うじて形だけの解る人々が、衣擦れや咳払い、声を潜めて囁き合う音と一緒になって混雑している。端々で「たたらの方角から雌鳥へ」だの、「冷たかった帯の人相が悪いから」だのと云ったよく解らない言葉が聞こえたが、耳を澄まして見ても直ぐ様周りの物音に紛れて散り散りになった。
 やがて坊主らしき人が来て経を上げ出した。私はどうしてもこの声を聴く内に頭がぼんやりとしてしまう様で、父親であろうが姉であろうが構わないと見える。気がついているのか知らないけれども、先程から頻りに母親が私の裾を引張る。こちらの態度に対する叱咤と取る程暢気ではない。子供の悪戯を黙って引き受ける気持ちだった。
「ご覧なさいよ」
 仕舞いには小声で話しかけて来た。
「あんなのって。……」
 くすくすと笑っている。
「静かにしときなよ」
「あら。あら。だからさ、ご覧なさいって。あの人達。皆してあんたの事見てるわ」
 私は参列者らの坐している見当に目をやった。真暗で何も見えやしないが、こっちが見られていると思うと俄に多くの視線を感じた気になった。
「見られてたら良いわね。ほほほ。目がついてりゃ見る事だって出来るでしょうけど。口があったらものも云えるわ。耳があったらそれを聞けるんだもの」
 夜が深むに従い式は淡々と運ばれ、そうする内に別れ花を献ずる段となった。別れ花とは云うが、お棺の中へ花の代わりに夜を入れると云った母親の申し出に誰か反対してくれれば良いのにと思う。どうやって夜を入れると云うのか私にはさっぱり解らない。私共の方が夜に入っているのであって、そこから夜を入れるにしたって、海で汲んだ水をそっくり海へ還す事と変わりはしないのではないか。
 お棺の傍に立つ燭台の明かりだけが辺りを微かに浮かしている。人形の様に動かない姉の美しい顔が、光の届く擦れ擦れの海の底から水面を見上げる格好で静まっている。海へ入って死んだと云うが、後先が解らない。思えば私は姉の事を何も知らない。
 真暗な中からいきなり蔓草を束ねた様なものが伸びて来た。姉の顔の上まで来ると、先っぽの辺りがもぞもぞと動くなりピンポン球程の大きさをした真黒いものを落とした。仔細を検める間もなく、真黒いものは姉の頬の辺りに落ちるとそのまま辷ってお棺の暗がりの中へ消えた。底の影が濃くなった様に思われた。
 今見たものに何か理由をつけようと考えかけた途端、真暗な中から今度は人と獣の間の子の様な毛深い手が出て来た。姉の顔の上まで来て軽く握り込んだのを開くと、やっぱり先程見たのと同じ真黒いものが落ちた。
 大方の奉献が終わる頃にはもうお棺の中は真暗になってしまった。蝋燭の覚束ない明かりは最早姉まで届かない。照らされる事で何も見えないと云う事が解るばかりだった。蛸の脚の様なものを最後に、暗闇から伸びて来るものもなくなった。大勢の人が詰めていると云うのにその気配はなく、辺りは森閑として、ともすれば自分が今どこで何をしているのかも曖昧になって来る。
「ほら。ほら」と云って笑いながら母親が出て来た。
「云った通りでしょ。ご覧なさいよ。ほら。良かったわねえ、ユリちゃん」
 鳥の鳴く様な声で云いながら、お棺の縁に手をかけて中を覗き込んでいる。
「あんたにも、見せて上げましょうか。見たいんでしょ。ねえ。あの人と同じになんて、誰がしてやるもんですか」
 こちらを向いた顔を見ると、明かりの塩梅だろうと思うけれども、見開かれた目はこんなに黒かったろうか。口や歯が大き過ぎやしないか。
「見せたげる」
 母親は、恐らく母親だろうと思われる、目の前で笑う真白の顔をした女は、お棺へ両腕を突込むと中を掻き回した。そんな事をするのは止して欲しいと思うが、声を出す事が出来ないし、身体を動かす事も出来ない。私には様子を見ている事しか出来なかった。「ふふふ」と云った笑い声があっちこっちから聞こえて来る。母親のものではないだろう。そうすると参列者の内の誰かだろうか。彼らは一体どこからやって来て、どこへ行ってしまったのだろう。解らない事だらけだったが、この笑いを私はいつか聞いた事のある様な気がする。しかしもう思い出せない。
 とうとうお棺の中からゆっくりと腕が引き揚げられた。そうしてすっかり抜き取るなり直ぐ様母親はそれを抱き締めた。腕の隙間からこぼれそうな、あやふやな形をした真黒いものが姉だと解ると、自分の顔が段々と引き攣って行くのを感じた。(了)