朔日

〈改訂版があります こちらをおすすめします〉

 一

 咳がうるさいから出て行けと母親に言われたので、森の中にある神社へ来た。秋の深まりつつある時候であった様に記憶している。
 白い石で出来た鳥居の下に蹲って、遠くを走る車の音を聞いていた。夜になってから随分時間が経った様に思う。熱に浮かされた頭を揺らしながら鼻水を啜っていると、境内から知らない女が歩いて来た。
「今晩は」
 鳥居の傍に一つだけある電灯が、からからと音を立てて明滅した。
「ぼく、こんな所で何してるの」
 今から思えば、声楽か何かをやっていたのだろう。筋のはっきりと通った美しい声だった。
「もう遅いでしょ。一人で居るの? 人さらいに取られちゃうかもよ」
 私は二三度咳き込んだが、女の問いには応えず、地面を見詰めていた。
「まあ。風邪引いてるじゃない。寒いのに、駄目よ。お家に帰らなくちゃ」
 女が傍へしゃがみ込む気配がした。飴色のパンプスと花柄のスカートが視界へ入った。微かに香の匂いがした。
「大丈夫?」
 遠くで強い風が吹き、森の奥からさざ波の様な音が来た。
「お姉さんは何してたの」
「お散歩に来てたのよ」
「金槌持って?」
「うふふ」
 顔を見ると、長い髪の毛が風に靡いて絡み付いていたが、それでも人を選ばず好感を持たせるだろう、優しい笑顔をしていた。
 それから夜が深くなり、風が止み、辺りが辺りと切り離された様な静けさに沈み込んで行く中で、私は女と取り留めの無い話をした。
 家に帰ると家の者は皆寝静まっている様だったので、出る前に鍵を開けておいた窓から中へ侵入し、素早く自室へ向かい、周りに咳が聞こえないように布団へ潜り込んだ。
 女とはそれきり会っていない。どうなったのかも分からない。