晩のにおい

 遠方に住む女の所へ行き、色々の用事を済ませると、帰りがすっかり遅くなってしまった。柱の様に真直ぐな高い木の立ち並ぶ道の底に、私は車を走らせている。静かな晩だった。
 細い道の先を前照灯が照らすが、その明かりがどこか覚束ない。提灯を下げているのではないかと言う程に潤んでいる。不意に明かりが消え、目の前が真暗になるのを想像しながら、私は黙って前を見詰めている。
 急な曲がり道を何遍も過ぎた頃、道の端に何か蹲っているのが見えた。速度を上げている訳でもなかったので、そのまま傍へ寄って見ると、大きな獣の死骸だった。向こうを向いて寝転んでおり、下には少しばかり血が溜まっている。車の明かりに照らされて、真黒の毛がふさふさになっているのが分かるが、何の獣なのかは分からない。
 家へ着き、玄関の扉を開くと、冷蔵庫の鳴る音がした。大きな犬が喉を鳴らす様な音だった。なぜそう思ったかと言うに、先程の事もあるが、それよりも家の中が獣くさい。直接触ったりはしなかったけれど、車の空調が吸い込んだのが躰に纏わり付いているのかも知れない。
 その日はそれきりだったが、以来身の周りがおかしな塩梅になりつつある。例えば、猫に指を舐られた様な気がして目を覚ます。私は猫なぞ飼ってはいないが、あの舌の感触は知っている。棚と壁との隙間から鼠の尻尾が覗いている。鼠が居るのは一向構わないが、隙間はぴったりと合わさっており、覗いている尻尾よりも太いものは入らない。茶の間に鳥の羽根が落ちている。写真に見た事しかないが、猛禽の大きな羽根で、勿論猛禽なぞこの辺りには居ない。
 気に留めなければそれで済む、些細な事柄ではあったが、自分の家に知らない獣が出入りしていると思うと少しばかり気味が悪い。きっかけはあの晩に見た死骸だろうと考えるけれど、それで一体どうすれば良いと言うのか、さっぱり見当が付かない。
 幾らか経った日の晩、寒いので毛布を被って見ると、変な触り心地がする。毛並みと言ったものが、以前はなかった様に思うけれど、今は確かに感じる。撫でると良い感触がするので、私は何度も撫でた。そうして何の気なしに逆撫ですると、微かに毛布は身震いをした。
 それを境に、獣の名残を見る事はなくなった。代わりに獣のにおいが濃くなった。どう言った事かと言うに、毛布の毛並みの様なものだろうと思う。自分の身の回りのものが皆々、机なら机なりに、椅子なら椅子なりに、獣性を孕んでいる。文庫本を片手に開いているとすれば、その手を本が嗅ぐ。特に人差し指がよく嗅がれる。配線の様なものは尻尾だし、窓は眼が大きく、風呂は口が大きい。私は風呂に入るのが一番怖い。だから風呂には入らなくなった。
 人に言える事ではない。言った所でどうする。しかしこのままで居るのも良くない。近頃はよく夢を見る。自分の爪が大きく、鋭くなる夢や、四つ足で往来を行ったり来たりする夢だが、少しも嫌な気がしない。嫌な気がしないと言う事が、私には何より嫌だった。だから今度の週末に、あの死骸のあった所へ行って見ようと思う。そう思って部屋でじっとしている。部屋のもの達に気が付かれない様に。もし気が付かれる事があれば、それは止むを得ないだろう。私も腹が減っている。(了)