換気扇

〈改訂版があります こちらをおすすめします〉

 父親が家中の換気扇を止めて回っている。台所のものなどは構わないのだけれど、手洗や風呂場のものを止められては困るから、理由を尋ねると、「止めた方が見辛いからいいだろう」と、よく分からない事を言う。
 暫くはそれで過ごしたが、湿気が篭って気持ちが悪い事もあったので、自分が手洗や風呂場を使う時は換気扇を回し、使い終わったら止めるようにしている。雨の日に洗濯物を風呂場に干せないから、母親が何か文句を言えばいいと思うのだけれど、黙って従っている様子である。

 秋の虫が微かに鳴り始めた晩、自室で持ち帰った仕事を片付けていると、父親の怒声が聞こえた。見に行くと母親を叱りつけている。スイッチが云々と言っているから、換気扇の事であろうと思う。間に入って、一体何が気に入らないのか、ちゃんとした理由を訊かなければこちらも合点がいかないと言う旨を伝えると、「羽が回っていると向こうが透けるだろう」
「透けたら何が駄目なん」
「お前、よくないだろう。こちらにもプライバシーと言うものがある」
 父親は居間に引き取ってしまい、話はそれきりになった。母親は「洗面所の換気扇、母さんがつけっ放しにしてたもんだから」と、普段よりも力無い調子で微笑んだ。父親が何が言いたいのかは薄っすらと分かる気がするが、どうして今頃になってその様な事を言い出すのかはやっぱり分からない。

 温かい風が通ったと思うと、急に抜け落ちた様に冷えて乾いた空気が降って来る。季節の節目が、緩やかな移ろいではなくなった様に感じる。夕暮れ時だと言うのに、空はわんわんと明るく、辺りは水底の様に暗く静まっている。
 旧い友人に会って、タクシーを拾い、二人で酒を飲みに出掛けた。互いに気心の知れた間柄であるが、この日はどうにも酔いが回らず、話す事にもどこか遠慮した風があって居心地が悪い。酒が悪いのかと思うけれども、自分には飲む習慣が無いので分からない。
「俺、会社辞めよっかな」と言うなり、友人は携帯電話を取り出して、待受画面をこちらへ見せた。
「いつ産まれたん」
「去年」
「名前は」
「たかひと」
「辞めてどうするん」
「嫁さんには、辞めてもいいって言われたんよね。親にも」
「子ども食わせれるんなら、別にええやろ」
「頭じゃそう思ってるんやけど」
 言って、黙ってしまった。
「そういやうちの親父がさ」
「うん」
「何か換気扇が気になる、つって聞かんのよね。そう言うの流行ってんのか知らんけど」
「それあれやろ、強迫性神経症やろ」
「何それ」
「病院連れてった方がいいぞ」
「まじか」
 友人と別れ、自販機で緑茶を買って口を漱いだ。神経症と言う言葉が、頭の隅に引っ掛かって嫌な気持ちがした。病院に連れて行くとなれば一騒動だろうと思う。友人の事も、早まった真似はすまいが、口振りからして辞めた所で次の行き先があるかと言うと、そうでもない様である。一日の内に心配事が幾つも増えた。身内の事にも感じるが、どこか傍観している様に思われる所もあった。
 月明かりで外燈の無い道も大体見当が付いた。そうして裏道ばかりを選んで通り、家の前まで帰って来た。木造二階建ての、無闇に大きな家である。曽祖父の代に建てられ、父親が小さい頃は空いた部屋を学生の下宿先として貸し出していたと言う。今は父母と三人で住んでいるから、部屋のほとんどは遊んでいる。
 玄関の鍵を回し掛けた所で手を止めて、庭を歩いて裏手に回った。自分でも馬鹿馬鹿しいと思うのだけれど、気になり出すとそのままにしておけない。外から回り込んで、排気口を確認しようと思い立ったのである。
 植木や庭石に足を取られないように注意深く進むと、丁度風呂場のある辺りに着いた。家の中は既に寝静まっており、風呂の照明も灯されていないのであるが、排気口を見ると、その縁に手を掛けて、顔をくっ付ける様にして中を覗き込んでいる小さい女が居た。
 初めは何か分からず、暫く黙って眺めていたが、段々と体が熱くなって、顔が引き攣るのを感じた。
「お前、こら、何しよんな、おい」
 自分で思っていた以上に声が上ずって、辺りに響いたので吃驚したが、この女を捕まえてどうしてやろうかと言う気が勝っていた。それにしても少し、小さ過ぎる様に思う。
 その長い髪を掴もうと手を伸ばすと、女は軽やかに身を翻して塀の上に跳び乗った。その時に正面から顔を見たのであるが、何か嬉しくて堪らないと言った様な表情で、目鼻立ちはきれいに整っており、愛嬌があって可愛らしかった。
 女はやはり可愛らしい声で「ほほほ」と笑うと、獣の如き身のこなしで瞬く間に闇夜の中へ消えて行った。(了)