帳の向こう

 一 漆喰

 教壇の近くに座っていた菊村が、急に立ち上がって私の所まで来た。何かの紙切れを私の机に放ると、来た道を戻って行った。
「なんだよ」と声を掛けたが、菊村は向こうを向いたきり返事をしない。お行儀良く席に着き、俯き掛けた姿が随分小さく見えた。仕様がないので紙切れを拾って眺めるけれど、薄っすらと小皺の寄る外には何もない。
 開け放された窓から流れる風に輪郭はないが、お日様の明かりは非常にはっきりとしており、陰になった教室を目の眩む様な光で縞々に区切っている。遠くから来るラッパや球技の音、誰かの話し声や雄叫びが一緒になってさざ波の様に打ち寄せられる。しかし波頭がこちらまで届く事はない。ここには私と菊村の二人しか居ない。
 そもそも今は夏休みの最中である筈なので、どうして自分がここに居るのか後先が判然としない。菊村に訊いて見ようかとも思いはしたが、私が知らない私自身の事を菊村が知る筋合いはないし、あるとしてもそれはそれで気味が悪いだろう。
 先生が入って来て、教壇に立った。ゆっくりと辺りを見回すと、満足そうに頷いた。
「さ、さ。暑いから。早いとこ、終わらせてしまいましょうね」
 そう言うと、白い顔をして笑った。
「こないだの、とっても明るい晩があったでしょう。皆さんはその頃、何をしておりましたか。先生はお家を抜け出して、吉武さんのお庭をこっそり覗いておりました。大層ご立派と言ったお話でしたから、先生いつか行って見たいと思っておりましたですよ。明るくって、静かな晩でしたから、さぞ大きなお月様が出ているのねとお空を見ました所、お月様なんてどこにもありやしませんでした。不思議な事もありますもので、お月様がそこいらの道や、木立や、屋根や塀に染み込んで光らせておりますのね。先生あんなの初めて見ましたけれど、そう言った理屈が分かったものですから嬉しくって、そうすると吉武さんのお庭も普段に増しておきれいなんじゃないか知ら、そう思って道を急いだんですの。そうして着いて見ると、吉武さんのお屋敷は洋風の造りでしょう、ですからお庭の囲いも洋風の尖った鉄で出来た柵なんです。柵ですから、表からも中の様子を見る事が出来るんですのね。お庭の中には沢山の人がぎゅうぎゅうに詰まっておりまして、先生吃驚してしまいました。皆さん黙りこくって突っ立っていらっしゃるものですから、そのまま伺っておりますと、周りのものとおんなじ様に皆さんのお体が光っていらっしゃるのが、段々分かって来ましたのね。もしかすると先生もお月様を吸って、ああ言う風に光っているのか知ら。そしたら先生も、お庭に入れて貰えるか知ら。先生自分の掌を眺めて見ました。目の前に広がる明るい景色をくり抜いた様に、真黒な手の形が見えるばかりでした」

 知らない内に先生は居なくなっていたが、菊村は相変わらず自分の席に着き、俯き掛けたなりでじっとしている。お日様の光をまともに受けて、白々とした肌と制服の境目が一緒になっていた。
 私は先程貰った紙切れを見直して見たが、やっぱり何も記されてはいないので、机の中に転がっていた短い鉛筆で「いにしえのふるき堤は年深み」と言った歌を書き付けた。そうして四つに折り、菊村の所へ持って行った。
「暑くねえのか」
 紙切れを差し出しながら言うと、菊村はこちらへ顔を向けた。釈然としない風な顔をしているが、実際に釈然としない事があるにしろ、ないにしろ、元よりこの様な顔付きをしていたと記憶している。お喋りをしない女だから、あまり言葉を交わした事はない様に思うが、お喋りをする女だった所で、私がお喋りをしない男だから変わりはない。
 菊村は紙切れを受け取ると、
「何? これ」と言った。
「何もくそもねえだろ。お前が渡して来たんじゃねえか」
「え?」
「熱中症か何かなんじゃねえか。大丈夫かよ」
「知らない、私……。村田君、いつ来たの?」
「……。俺も熱中症かも知らんわ。お前はいつから居るんだよ」
 細い目を更に細めて、
「わかんない……」
 分からない事と言えば、よく分からない事を喋っていた先生も私には誰だか分からないが、恐らく菊村にも分からないのだろう。この分だと見てすらいないかも知れない。
「帰るわ」
「あ……」
 渡した紙切れを両手に持ったままぼんやりとしている菊村を置いて、私は一人で教室を出た。「さよなら」と言った様な声を背中に聞いた。

 家の近所まで戻る頃にはすっかりお日様も暮れつつあった。道の先の辻にはあっちこっちから長い影が伸びており、それを外灯が無闇に照らすものだから色の塩梅がごたごたになっている。
 古びた駄菓子屋に入り、布団の様な顔をした老婆からガムを買った。ガムを食べたのは久し振りだったが、味は直ぐになくなった。歯にへばりついたガムを舌で掬いながら、あの晩の事を思い返していた。吉武さんのお屋敷の庭へ入って、中から鉄柵越しに表の電柱を眺めていた。そこの陰から覗く真黒の先生に見付からないように、周りの人々に紛れてじっとしていたのだ。菊村と一緒に。
 脚の向くに任せて歩くと、自分の家とはまるで別の方角へ向かっていた。地面はもう黒いが、鉄柵には未だ西日が残っており、青緑の塗装の剥げている所まではっきりと見える。
 柵にもたれながら、こちらを見る者がある。菊村だろうと思うが、真白の顔をして笑うのが私にはどこか辻褄が合わない様に感じられた。