旅人は化け物が出ると言われる夜の峠へ差し掛かっていた。月光の明かりを頼りにして黙々と歩いている。明朝までにどうしても故郷へ戻らなければならなかった。
 峠を越え息をつくなり、向こうから小山の様に大きな鬼がぶらぶらと歩いて来た。旅人の姿を認めると、
「ん、人間か。なら食うぞ」と言った。
「食っても良いが明日にして貰えんか」
「うるせえな。鬼と人間が出会っちまったんだからよ、する事は一つだろうが。こんなお前、こんな晩になあ、お前、峠になんか来るんじゃねえっての。分かるだろ、いい歳こいてよお」
「そこをどうにかアレして貰えんかね」
「お前、アレしたら、俺が後でやべえんだよ。世間体ってもんがあんだろ。どの面下げてかかあんとこに帰りゃ良いんだよ」
 鬼は大きな手で旅人を摘み上げると、鋭い牙の並んだ口を広げた。
「ちょっと待て、鬼、おい」
 声のする方を見ると、鬼よりは小さいが旅人よりもずっと大きな狼が居た。低く唸る声に周りの空気が張り詰めていた。
「何だ貴様」
「お前コラ、その御方はなあ俺様の恩人なんだよ。汚え手を放しやがれ。ぶん殴るぞコラ」
 旅人は旅の途中、川に溺れる狼の子どもを助けた事を思い出した。
「あの時の子かい。えらい大きくなったなあ」
「あれから結構やんちゃしてたんすよ」と言って狼ははにかんだ。
「犬はお呼びじゃねえんだよ。そこらの木にマーキングでもしてろ」
「あんだとコラ」
「二人共落ち着きなさい」
 空の方から声がして、大きな鷹が降りて来た。川でも堰き止める事の出来そうな翼を羽ばたかせ、辺りに大風が起こった。
「しかし鬼殿、貴殿の手中にあらせられる御仁は私の恩人でもある。どうかここは私の顔に免じて、退いては下さらんか」
 旅人は旅の途中、罠に掛かった鷹を助けた事を思い出した。
「あの時の子かい。えらい大きくなったなあ」
「あれから貴方より賜った御恩に報いる為に精進して参りました」と言って鷹は微笑んだ。
「鳥はお呼びじゃねえんだよ。巣に帰って餓鬼に嘴突っ込まれてろ」
「言葉では解らん様ですな」
「俺も混ぜろや」
 と言って、高台から大岩の様な狒々が転がって来た。地面に着くと大きな地鳴りがした。
「てめえよくも俺の恩人に手え出してくれたなあ。二度とお天道様の下を歩けると思うなよ」
 旅人は旅の途中、見世物小屋の檻に居た狒々を買い取り、山へ逃がしてやった事を思い出した。
「あの時の子かい。えらい大きくなったなあ」
「あれから旦那のお役に立てればと今日まで鍛えて居りやした」と言って狒々は口端を吊り上げた。
「猿はお呼びじゃねえんだよ。村に下りて蟹と戦争でもしてろ」
「遺言はそれで良いんだな」
「大人しく引き下がって置けば良い物を」
「クソ鬼が、調子こいてんじゃねえぞ」
 三匹の獣は鬼へにじり寄った。鬼は旅人をそっと地面へ下ろすと、獣たちの方を睨んだまま「お前は下がって見てろ」と言った。「逃げるかも知れんぞ」と言うと、
「それならそれで仕方が無え。物には通さなきゃならねえスジってもんがある。決して逸れてはならねえ道がな。そこを踏み外しちまえば最期、俺は鬼じゃ無くなっちまう。鬼じゃ無けりゃ一体何になっちまうのか、俺には解らねえ。俺はそれが一番恐ろしい。人間は何にでもなれるじゃねえか。俺は違うんだよ。俺は鬼にしかなれねえ。こいつらだってそうさ。だのに人から恩を受けたぐらいで簡単に自分の有り様を変えちまおうとしやがる。そんな連中に喧嘩売られて、黙って引き下がる訳には行かねえんだよ」
 そうして鬼は咆哮を上げた。三匹の獣もそれに呼応すると、峠が震える様な恐ろしい響が起こった。
 旅人は考えていた。この鬼は自分の役目をよく得心しており、仕組みとしての鬼を全うしようとしている。対して嘗て自分が助けた獣たちは、有難い事に自分を助けに来てくれたが、それは本来の獣の道理からは外れている。果たして峠の化け物はどちらであるか。初めから化け物であった者か、それとも鬼の言う別の何かと化した者か。
 旅人は考えていたが、考える内に段々と他人事の様に思われて来たので、凄まじい戦いを繰り広げる四匹の化け物を尻目に、残りの旅路を急ぐ事にした。(了)